第26話 新しい息吹
「信康様……っ!」
父である織田信長が明智光秀の謀反によって消息不明――その凄まじい一報を従者から聞いた徳姫は、なりふり構わず信康の元へと駆け込んでいた。
信康と徳姫は、先の織田家と徳川の激突の後、両家の絆を繋ぎ止めるための楔として、離縁することなく共に暮らす道を選んでいた。
かつては棘のあった二人の関係も、今では信じられぬほど仲睦まじくなり、かつて最大の不和の原因であった姑・築山殿との関係もすっかり良好なものとなっていた。
しかし、そんな束の間の平穏は、日ノ本を激震させる凶報によって一瞬で吹き飛ばされる。
家臣も侍女も、誰もがこの報告の真偽を疑い、織田の庇護を失うかもしれない徳川の今後について、慌てふためき右往左往していた。
ただ一人――我が夫、徳川信康を除いては。
「慌てるな。まずは父上の御身の安全が最優先だ」
信康は驚くほど冷静だった。即座に、京都の堺に滞在しているはずの父・家康の無事を確保すべく、間髪入れずに救援の軍を動かした。さらに、この機に乗じて必ず動き出すであろう相模の北条の動向を完全に読み切り、国境を固めるための防衛策を同時に矢継ぎ早に打ち出していく。
その一寸の無駄もない采配は、かつて父・信長にすらその才を認められた勇将の、真の覚醒を思わせた。
あの激戦を境に、信康様はまるで人が変わられたかのように落ち着きを払い、どこか、深謀遠慮に満ちた家康様に似てきていらっしゃる。先日も、家康様と信康様が二人きりで楽しげに未来を語り合っている姿を見かけ、酷く安心したばかりだったのだ。
(私は……薄情な娘なのでしょうか、父上)
徳姫は心の中で、炎に消えた偉大な父に詫びた。
父・信長が死んだというのに、胸に湧き上がるのは悲しみではない。それよりも、この日ノ本の混乱によって、ようやく手に入れたばかりの、優しく穏やかな日々が壊されることの方が、何倍も恐しかった。
しかし、何があっても。
私のこのお腹に宿る新たなやや子と、愛しい子供たちだけは、この命に代えても守り抜く。
もう、偉大すぎる父の後ろ盾は無い。
これからは織田の「姫」としてではなく、母として、一人の人間として、徳川に必要とされ、共に生きていく。
陣頭指揮を執る信康の、頼もしい背中を見つめながら、徳姫は静かに己の腹を抱きしめ、深く、確かな覚悟を決めるのだった。
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