第25話 天下の花
「……徳川、信康……」
織田信長は、ふと己の口から出たその名に、我ながら驚いていた。
すでに肉体には致命傷を浴びているというのに、可笑しくて仕方がなく、笑いだしそうにさえなる。
(いよいよ、この遊びも終いという事か……)
あの織田と徳川の激突から、約三年の月日が流れた天正十年、六月。
明智光秀が織田信長に対して起こした謀反――世に言う『本能寺の変』である。
この事態を、信長はあらかじめ見越していた。防げたはずの罠に、なぜ敢えて嵌まったのか。それすらも、信長にとっては退屈な現世を紛らわせるための、暇つぶしのゲームの一環に過ぎなかったからだ。
始まりは、上杉謙信が病で世を去ったことだった。戦国最大の獲物。その味見すら満足にできぬまま、巨星は消えた。武田信玄にしてもそうだ。本格的な衝突を果たす前に、病に斃れて世を去っていった。
柴田勝家は上杉と、徳川家康は武田と、それぞれほんの少しだけ戦い、そして彼らは消えてしまった。
あれほど若き日に焦がれていた『天下』の二文字は、いつしか、酷く味気ない色に変色していた。
(こんなもののために、わしは……弟を殺し、数多の身内を手にかけてまで、この血の道を歩んできたのか)
日の本一という称号。
最初にこの夢を信長に聞かせたのは、あの優しかった弟だ。
その弟はこの道が茨の道だと教えてくれた。
自らの命を使って。
いつからだろうか。天下を目指すことが「夢」ではなく、逃れられぬ「義務」になったのは。敵を欺き、味方を操り、血の階段を上ってここまで来た。だが、わしの心は、ずっと退屈したまま乾いていたのだ。
そんな中に起きたのが、あの信康の事件だった。
最初は、ただの暇つぶしのつもりだった。家康にも自分と同じように身内を殺させ、この「天下取りの呪い」に引きずり込んでやるのも一興、その程度に考えていたのだ。
しかし、家康はわしの予測を遥かに超え、朝廷工作という盤面でわしを縛り、存分に楽しませてくれた。だから、その褒美の代わりに信康をこの手で討ち取り、此度の戦を手打ちにしてやろうとしたのだ。
だが――わしの前に現れた信康の、あの一途な、あまりにも純粋な天下への挑み方に、わしは再び心を奪われた。
戦場ですら美しく彩る、泥臭き天下の輝き。信康のあの不器用な武者振りは、かつて純真なままで天下に手を伸ばした、我が弟の姿そのものではなかったか。
帝の勅命という大義名分が下った以上、織田信長である限り徳川と争うことはもう出来ない。
久しぶりの楽しい時間は一瞬で奪われ、またあの煩わしいだけの天下への道を、退屈そうに進まねばならなくなった。
だから、いつもの戯れとして、次は明智光秀の「本能」に語りかけてみたのだ。
――お主は、天下に臨む気は無いか?
――この退屈な遊びを、お主が終わらせてはくれぬか、と。
案の定、あの男は誘いに乗ってきた。遊びというものは、危険であればあるほど面白い。予定外の狂いがあってこそ、至上の喜びがある。
本能寺を囲まれ、僅かな手兵と共に壮絶な戦いを繰り広げた後、信長はあらかじめ用意していた秘密の脱出道から外へと逃れた。
――だが。
その暗闇の出口には、無言のまま刃を構える、異様な集団が隙なく待ち構えていた。
光秀の軍勢ではない。気配を完全に消した、羽柴秀吉が子飼いにしている手練れの忍びたち。
信長の目が、この夜で一番の輝きを持ってギラリと見開かれた。
「くははは! 光秀ではなく、猿がわしの裏をかいたか! 何と面白き趣向だ!」
絶対に露見せぬよう口封じと隠密を徹底した、秀吉の冷徹な完全犯罪の網。
しかし、お前のような合理的で臆病な男が網を張るなら、この位置以外にない。……分かりやすすぎて、逆に読みやすかったぞ、猿。
「良い、存分に戯れようぞ!」
四十九歳の身体に鞭を打ち、信長は襲い来る忍びどもの包囲をあえてすり抜け、夜の静寂へと地を駆けた。
秘密の通路出口より少し離れた森――本能寺の動乱の最中、人目につきづらいその場所は、刺客たちにとっても好都合な暗殺スポットに見えた。
信長を完全に仕留めんと、刺客たちが一斉に森へと踏み込む。
その瞬間、彼らは気付くべきだった。ここが、魔王が己の死に場所としてあらかじめ用意していた、火薬という名の檻であることに。
「お主らの主へ、特大の『天下の花』を届けてやろうぞ」
不敵な笑みと共に、信長が最期の導火線に火を放つ。
刹那、盲目の白光が闇を裂き、凄まじい爆音が夜空を震わせた。逃げ場のない森の奥で、秀吉の精鋭たる刺客たちの意識は、悲鳴を上げる間もなく一瞬にして事切れた。
そして、その局地的な爆炎は、仕掛けた信長自身をも容赦なく呑み込んだ。
ドサリ、と崩れ落ちる視界の中で、無意識に口を突いて出たのが、他人の息子の名前だった。
まぁ、徳姫の夫ゆえ義理の息子ではあるが、最近まで微塵も興味のなかった人間の名を、死の間際に呼ぶ。だからこそ、人生は面白い。
(……お主のような男と、もう一度、戦場で……)
――人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。
――一度生を受け、滅せぬ者のあるべきか。
織田信長、享年四十九。
奇しくも、あの焦がれた強敵・上杉謙信と同じ年齢での終わりであった。彼の好んだ幸若舞の一節、人生わずか五十年を、文字通り体現したかのような苛烈な生涯。
のちに駆けつけた秀吉の配下は、自らの放った刺客の残骸と爆発の状態をみて信長の死体は残らなかったと判断した。
だが、しんと静まり返った爆煙の奥。
遠くから響く夜鳥の声を聞きながら、信長の死をじっと確認した「もう一つの影」――家康の伊賀者が、その遺体を静かに、そして完全に闇の中へと運び出していくのだった。
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