第24話 京からの風


(徳川信康様……。……お見事な、王者の器にございますな)

石川数正は、浜松城へと登城するなり、真っ先に信康の寝所へと見舞いに向かっていた。先の織田との激戦において、若君が満身創痍になるまで戦い抜いたと聞いたからだ。

数正は信康の後見人であり、それこそ幼き頃からその成長をずっと間近で見守ってきた自負がある。だが、ほんの数日前には微塵も感じることのなかった、底知れぬ「王者の資質」が、今の信康からは確かに感じ取れた。

傷の未だ癒えぬ身体でありながら、かつてのようなただ荒々しいだけの三河武者ではない。徳川の正当なる跡取りとしての、真の素質と風格がそこに現れていたのだ。

数正は、まるで自分の子供を褒めちぎる親のように、相好を崩して話しかけた。

「此度の戦にての縦横無尽の働き、誠にご立派にござった! 家中の者たちも、流石は殿のご嫡男と皆一様に褒め称えております。徳川の未来は、眩いばかりにございますな」

しかし、信康は小さく苦笑いを浮かべ、首を振った。

「数正殿、そうおだてても何も出ませぬよ。それに……私は、徳川の跡目のことなどには、更々興味はございませぬ」

「……ほう? と、仰いますと?」

「すべては父上、家康様にお任せのことにございます。ゆえに、そのような無用な世辞はおやめくだされ」

あまりにも無欲な、しかし芯の通った言葉だった。

その、まるで本当に自分が徳川の二代目になるつもりなど無いかのような話しぶりが、数正の胸に少しばかりの奇妙な引っかかりを残した。――と、その時だった。

「信康、傷の具合はどうじゃ」

信康の寝所に、足音もなく家康様が姿を現された。

信康様は即座に上座を譲ろうと身を起こしかけたが、家康様はそれを手で制し、「そのままで良い」と自ら隣へ腰を下ろした。そうして、仲睦まじく並んで座る実の親子の姿があった。

数正は、その固い絆で結ばれた二人の姿に、些かの嫉妬に似た温かい感情を覚えながらも、表情を引き締め、本題を切り出した。

京都にて、命がけで密命を果たしてきたことの報告。

そして、今回の織田家との停戦の詔(みことのり)を、一体いかなる手段で帝から受けることができたのか。その工作に費やした、莫大な経費についての話である。

数正はまず、深く平伏して頭を下げた。

「……殿。まずは、今回殿の明確な許しを得ぬまま、独断にて織田家との停戦協定を帝に直接依頼いたしました件、誠に申し訳ありませんでした。徳川を裏切る行為と言われても仕方のなき大罪。それをお咎めなしの無罪放免とし、再びこうして徳川の末席にお加えいただきましたこと、感謝の言葉もございません」

すると、家康様は穏やかに、しかし重みのある声で笑った。

「何を言うか。数正はわしの親代わりじゃ。お主が徳川を裏切るなどと、最初から一微塵も思うてはおらぬよ」

家康様は、一呼吸置いてから言葉を続けた。

「それに……お主が何も言わずに、ただ徳川の未来のために独断で動くのは――あの羽柴秀吉を警戒し、秘密裏に情報を集めている件と合わせて、これで『二回目』じゃからの」

「っ……!?」

数正の背筋に、瞬時に冷たい戦慄が駆け抜けた。

自分が織田信長だけでなく、あの羽柴秀吉の動向まで徹底的に警戒し、情報を収集していたこと――それが、完全に家康様に看破されていたのだ。

織田信長は、あまりにも世に悪評を高めすぎている。あの男はきっと、長くは生きられない。ならば、織田が倒れた後に徳川の前に立ち塞がる真の敵は、あの人間力の化け物、羽柴秀吉ではないか。数正はそう考えていた。

しかし、我が手飼いの優秀な忍びだけを使い、絶対の機密として動いていたはずの布石が、なぜ殿に漏れていたのか。家康様の底知れぬ慧眼に、数正はただただ恐ろしさを覚えるしかなかった。

さらに家康様は、数正と、あの本多正信の二人が裏で立てていた朝廷工作の策についても、大凡の全貌をご存じの様子であった。

今、信長が築きつつある安土城――あれは、天皇をも超える存在となり、日の本のすべてを我欲で牛耳らんとする企みの象徴であるという噂を、公家たちの間に流したこと。

そして、我ら徳川は元来、尊皇の志を持つ実直な武士の家。天皇家への変わらぬ忠誠を誓う旨を伝え、徳川のなけなしの蓄えのすべてを朝廷へ献上し、公家たちを仲間に引き入れたこと。

『織田殿がどれほど莫大な金を積もうとも、朝廷は決して操れませぬ。しかし我が徳川は、何かの際には朝廷のために一番に働くことをお約束いたします――』

その代償として、いつか訪れるその時に、家康様を「征夷大将軍」へと任命いただくという絶対の密約を、朝廷との間に結びつけてきたのだ。

「酒井忠次が、己の命で無念を背負うてくれた。……数正、徳川の未来のために、ようやってくれたな。心から感謝する」

家康様からかけられた、至上の褒め言葉。

数正の目から、熱いものが溢れそうになった。忠次の死を無駄にせず、この手で徳川の新しい覇道をこじ開けることができたのだ。

(わしも……この後はもう、二度と家康様の側を離れぬ。どこまでもこの命を賭して、殿のために策を出し続けよう)

京都から吹き込んだ、徳川を救う一陣の風。数正は静かに、しかし生涯変わらぬ忠義を、主君の横顔に誓うのであった。

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