第22話 各々が選ぶ者
(家康様……!)
徳川信康は、戦場の爆音の中で何度も意識を失いかけていた。
だが、これしきのこと、この程度の衝撃で倒れるわけにはいかん――。
薄れゆく意識の淵で、熱い心があの世の門から無理やり身体を押し戻す。此度の戦で犠牲になった数多の英霊たち、そして徳川の宝であった酒井忠次の魂が、ここで諦めることなど絶対に許してくれなかった。
引き連れてきた手勢二千のうち、果たして何人が生き残っているだろうか。
悪夢は、あの一瞬から始まった。
我が父・家康様が羽柴秀吉を、本多忠勝が滝川一益を、井伊直政が前田利家を、それぞれ優勢に戦い、押し進めていたあの瞬間。
前線に生じた一筋の道。魔王の懐へと一気に潜り込める、千載一遇の好機。
そこへ突っ込んだ瞬間だった。
数多の銃撃による凄まじい爆音の直後、大地が、足元の地面が文字通り大爆発を起こしたのだ。
織田信長の本陣は、もう目の前だというのに。視界は激しく歪み、言葉は耳鳴りにかき消されて何も聞こえない。
かつて、妻である徳姫との祝言の席で見せられた顔。
義理の父である、織田信長の顔がそこにあった。愉悦に混じり、楽しそうに、酷く歪んだ笑みを浮かべる顔――。
あまりの恐怖と爆発の衝撃。落馬した肉体は鉛のように重く、自由が利かない。
二十二歳の若武者が対峙するには、織田信長という存在はあまりにも巨大すぎた。腰が抜けるほどの戦慄が全身を支配するのも、無理はなかった。
(だが――私には、果たすべき役目がある!)
命を賭して戦場を駆ける仲間たちと交わした、固い誓い。
「父上の撤退の合図があるまでは、各々が信長の首を狙う飢えた獣となり、一歩でも前へ進む」
そして、合図が響いた後は、一目散に浜松城へ向けて――。
『生きて』
その城門をくぐることだけが、我らに課された絶対の命。
すでに愛馬は死に、周囲の兵も数知れず倒れた。ここから生きて帰れる見込みなど、限りなく薄い。
ならば、作戦をどこまでも遂行するまで。
一歩でも前へ進み、あの魔王の首を手向けにするために、私は喜んで「二度目の死地」へと赴こう。
本来の天寿よりは若干早い死になるやも知れぬが、あの世へ持っていく手土産が、私の命の百倍も高い「信長の首」であるならば、親父殿もきっと私のことを誇ってくれよう。
「おおおおおっ!!!」
火事場の馬鹿力とでも言うべきか。不思議と身体がふわりと軽くなり、槍もまた思い通りに鋭く動いた。
まったく無駄の無い、極限まで研ぎ澄まされた動きで信長へと肉薄していく信康の姿は、まるで魔王の命をリアルに刈り取りに現れた「死神」そのものであった。
その凄絶な美しさに、信長は思わず見惚れ、指揮を執ることをしなかった。
いや――正確には、忘れていたのだ。
信康が落馬してから今に至るまで、信長はその姿に完全に目を奪われ、暫く思考が追いついていなかった。信康が放つ純粋な殺意の輝きに、ただただ酔いしれていた。
まさに、信長が持つ最大の悪癖――「お気に入りのオモチャ」を前にした時の油断が出たのだ。
だが、その後方に控えていた小平太(榊原康政)は、その一瞬の空白を絶対に見逃さなかった。
先ほどまで戦場を覆っていたあの不気味な気持ち悪さは、霧散して消えている。永遠にも近い、魔王のほんの一瞬の油断。小平太はそのすべてを、信康の首を取るためではなく、その「救出」のために注ぎ込んだ。
(我が御主臣の命――これで、よろしゅうございますな?)
手を伸ばせば、信長の首という歴史に一生残る手柄が届いたかもしれない。
だが小平太は、その色好い果実を捨て、徳川の未来を繋ぐための「若君の命」を引っ掴んで駆け出した。
これこそが、撤退の咆哮を上げた家康、そして今の徳川家の揺るぎない総意なのだと、榊原康政は確信していた。
信長は、目の前で鮮やかに奪われた信康の背中を見つめながら、ひどく残念そうな顔で低く告げた。
「……逃すな。殺せ」
その冷酷な命令の裏で、どうか死んでくれるなと、その命の火が消えぬことを願いながら。
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