第21話 二周目では届かぬ1時間
(信康……生きておれよ……!)
徳川家康は、胸の内で血を吐くような想いで祈り、あるいは己の大いなる読み違えを呪っていた。
羽柴秀吉という男に、ここまで手こずるはずではなかったのだ。
もっと早くに突破の糸口を見つけ、信長の本陣へ突っ込んだ信康や各部隊の救援に駆けつける予定だった。しかし、その目算は完全に狂わされた。
(流石に、次の天下人は強かったのう……)
織田信長の援護があろうとも、二周目の知識を持つ今のわしならば、羽柴軍などものの数ではないとうぬぼれていた。だが、やはり歴史に名を残す二人の英雄を、まとめて相手に出来るほど甘くはなかったようだ。
しかし、その激闘を間近で見ていた家康の旗本衆からすれば、家康の采配こそが神懸かっていた。
秀吉が狂ったように攻め立て、小一郎が鉄壁の構えで守り、そこへ織田家からの増援が矢継ぎ早になだれ込んでくる。並の一流武将であれば、一瞬で精神が崩壊する地獄のような戦場。
だが、圧倒的に兵の少ないはずの徳川軍は、まずその猛攻を受け流し、いなして敵の体勢を崩した。
そして、崩れた局所ばかりを執拗に、正確無比に狙い撃ちにしたのだ。
「あの狸……! まるでわしらが一番嫌がる場所を、あらかじめ知っているかの如く攻めてきよる!」
「この家康を、絶対に親方様(信長)の元に近寄らすな! 何が起こるかわからんぞ!」
何度も、秀吉と小一郎は本気で死を意識した。
敵の猛攻を一身に受け止めた小一郎の超人的な防御と、絶妙なタイミングで入った織田の援軍がなければ、羽柴軍は瞬く間に壊滅していただろう。
羽柴軍は、軍の体裁をかろうじて保ちながら、家康にとって「永遠」にも思える一時間を稼ぎきった。そして、じりじりと撤退行動に移り始める。
今後の徳川の覇権を考えれば、今ここで生唾を込み込んででも手に入れたい秀吉と小一郎の首が、目の前を逃げていく。その首を横目に睨みつければ、今ならまだ、龍の玉(信長の首)を狙える位置に自分はいる。
だが――。
ここまでの戦いで、あの織田信長は戦況を完全に把握したはずだ。
これだけの時間が経ちながら、未だ信長の本陣から「敵将を討ち取った」という鬨の声が上がってこない現実。それこそが、信康たちがまだ必死に持ちこたえている証拠であり、同時に、信長が彼らをじわじわと「お誘い」の罠で締め上げている証拠でもあった。
(これ以上先に、徳川の勝利などない。……潔く、撤退しかあるまいて)
ここで全員が枕を並べて討ち死にする覚悟で突っ込めば、あるいは歴史に一花咲かせられるかもしれない。
だが――。
「花瓶の傷は、酒井忠次のたわけで十分じゃ」
家康は、ぽつりと口惜しそうに呟いた。
一周目の人生で、信康を失い、家臣を失い、割れて修復できなくなったあの壊れた花瓶の傷跡は、もう二度と見たくない。勝たなくていい、これ以上の犠牲を出さず終わらせる。
あわよくば、魔王の首だけでなく、人間力の化け物である「猿の王」の首までまとめてブチ抜き、徳川の圧倒的な武を歴史に刻みたかったが、仕方が無い。
「……最後の仕事じゃ」
家康は、全軍に向けて吠えた。
「徳川の敗走を告げる雄叫びをあげよ!! 浜松城へ向けて、全軍撤退させるのじゃ!!」
家康の無念そのものを体現したかのような怒号が戦場に鳴り響く。
それはまるで、戦の終わりを、そして愛する者たちを救うための敗北を嘆く、孤独な化け物の咆哮であった。
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