第19話 鬼が来たりて笛を吹く

(徳川信康様……!)

「――どうか、ご無事でいてくだされ!」

井伊万千代は、心の中で激しく叫んでいた。

この己(井伊直政)の武勇をもってしても、ほんの一瞬でも気を抜けば、たちまち陣形を崩され、圧殺されかねない――それほどの狂気と苛烈さが、時間を追うごとに戦場を支配していく。

何より恐ろしいのは、先刻からどれほど刃を振るっても、一向に手応えが感じられないことだった。

「手応えの無さ」と評すべきか、あるいは、胃の腑にじっとりとした不快感が溜まっていくような「気持ち悪さ」と呼ぶべきか。

目の前の織田の兵たちが、みな一様に「同じ顔をした化け物」に見えてくるのだ。

我らの苛烈極まる攻めに、彼らは全く動じない。痛みに声を上げることもなく、死を恐れる様子すら一切ない。

織田の兵には、恐怖という感情が無いのか。

どれほど殺し、どれほど首を刎ねようとも、後ろから次々と新しい兵が湧き出てくる。殺せばすぐにその穴が埋まる、圧倒的な兵站の暴力。

(前田利家……お相手にとって不足はねえが、俺が負ける気は毛頭ねえ)

だが、万千代の鋭すぎる野生の勘が、しきりに警告を告げていた。

利家のさらに奥――あのドス黒い影の主が、まるで人形劇の糸を引くように、この戦場すべてを冷徹に操っている。

その時、地響きを震撼させるほどの怒号が、滝川勢の陣から上がった。

(――始まったか!)

恐らく、本多(忠勝)殿が本来の力を取り戻し、本気になられたのだ。

いくら戦上手として知られる滝川一益とはいえ、あの曇りの晴れた本多忠勝の猛攻を正面から受け止めきれるはずがない。

そうなれば、信長とて滝川を救うために兵の供給をそちらへ回さざるを得ない。盤面の潮目が、今まさに変わろうとしている。

「ならば――この好機、逃す手はねえな!」

万千代は、ギラついた眼光で目の前の敵陣を睨み据えた。

滝川に兵が流れた今こそ、目の前で吠える邪魔な忠犬(前田利家)の首根っこを押さえる絶好の機。

「幸いながら、あの犬をへし折れば……その奥にいるご主人の相手を、特等席で楽しめそうだ!」

己が鬼となりて、魔王の笛を叩き割る。

万千代は愛槍を握り直し、前田利家の本陣めがけて突撃の咆哮を上げた。

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