第18話 神罰の前触れ

「徳川信康様……っ!」

狂気と怒号が渦巻く乱戦のただ中、本多忠勝は信康がもたらした言葉に、不謹慎ながら激しい安堵を覚ていた。

「――その言葉、誠にございますか……!」

じわじわと、膝に力が戻っていく。まるで鉛のようだった身体が、嘘のように軽くなっていくのを忠勝は実感していた。

あの小平次(酒井忠次)を、この手で斬らずに済むのだ。

その言葉を、どれほど待ち侘びていたことか。

小平太(榊原康政)が織田に降る可能性など、万に一つも無い。

ならば、あの酒井忠次討ち死にの報せは、この戦を勝利へ導くための、数正らの大博打。

この戦は、殿のために信長の首を取るだけの戦い。しかし、長年の盟友である忠次をこの手で討ち取らねばならぬかもしれないという極限の恐怖が、忠勝の愛槍『蜻蛉切』の刃に、分厚い曇りをもたらしていたのだ。

忠勝の本質を知らぬ者からすれば、ここまでの彼の戦いぶりは、流石は「徳川の軍神」と称えられるに相応しい猛烈な働きに見えたかも知れない。

しかし、かつてあの武田信玄をも唸らせた真の槍の冴えは、未だこの瞬間まで眠ったままであった。

先程から、信長の指揮によって、こちらの弱い部分を的確に突いてくる織田の小部隊――まるで蝿のように群がる敵を、ひどく鬱陶しく思っていた理由がようやく分かった。

この戦が始まる前から、忠勝は生まれて初めて「傷」を受けていたのだ。

心の傷。

それは、いかなる強者であっても、肉体の傷より遥かに煩わしく、重い。

「ふ、ふはは……っ! ようやく、ようやく本気が出せる……!」

忠勝は、思わず子供のように笑ってしまった。

友を斬る恐れなど、もう無い。

己の槍を阻む迷いなど、どこにも無い。

織田の返り血で真っ赤に染まった軍神の、本当の「底」が、いま底知れぬ漆黒の戦場に晒されようとしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録(無料)

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る