第16話 イナゴが覆う三河の地
「信康様……っ」
徳姫は、側女から次々にもたらされる戦況の報告を聞き、その場に絶句した。
織田と徳川、両軍による緒戦の報せが、嵐のように京の彼女の元へと舞い込んできている。
序盤は、凄まじい執念と勢いに勝る徳川軍が、圧倒的少数の不利を覆して優勢に進めていた。我が夫・信康様をはじめ、井伊直政、榊原康政といった徳川の誇る若き名将たちが、織田の誇る滝川一益や前田利家の陣を文字通り「貫いた」のだ。その返す刀で、徳川の軍勢が一気に織田の本陣へと雪崩れ込むかと思われた。
しかし――その絶頂の最中、織田の陣営に決定的な異変が起きたという。
織田の本陣から、まさしく大地を震わせる悪魔のような咆哮が轟いたかと思うと、総崩れになりかけていた織田の兵たちが、まるで死者蘇生でもしたかのように命を吹き返し、凄まじい逆襲を始めたのだという。
信長が仕掛けた作戦は、至って単純、かつあまりにも残酷なものだった。
「兵数で勝っている」という絶対の理だけを使い、3人がかりで1人の徳川兵を確実に、確実に殺していく。
ゆっくりと、そして執拗に。
父・信長は、まるで遥か上空から盤面を見下ろす神の如く、徳川のわずかな綻び(弱い部分)を見抜いては、そこへ容赦なく兵を流し込み、徳川の命をただ刈り取っていく。
――父は、やはり恐ろしい。
人の命をただの「数字」のように扱い、実った稲穂を鎌で能率よく収穫していくかのような、血の通わぬ機械的な戦。
この戦の当事者、そして織田の娘であるはずの私が、到底あずかり知れぬ冷徹な世界の中で。
次々に消えていく無数の命の重圧に、私の心は今にも押しつぶされそうだった。
私のこの命を奪うことになっても、あのイナゴの群れは決して止まらないのだろう。
あの狂気に満ちた大群は――。
この三河の地を真っ赤な血で染め上げ、すべてを喰い尽くして飽き果てた時、ようやくこの地を去るのだろうか。
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