第15話 魔王の旋律
「徳川家康……」
織田信長は、戦場の喧騒のただ中で、小さくその名を呟いた。
「わしに軍を指揮させる……か。わしが次に直々に軍を率いるとすれば、越後の龍・上杉謙信ぐらいかと思うておったわ」
狂気と怒号が渦巻く戦場にあって、信長の周りにだけは、まるで緩やかな時間が流れているかのように穏やかな空気が満ちている。
「滝川一益と前田利家は、実によく防いでおるが……このままでは破られような」
信長の目は、前線の攻防を冷徹に見抜いていた。
滝川は柔軟な軍の動きで相手の勢いをいなし、井伊直政のあの凄まじい猛攻をかろうじて受け流している。利家は愚直なまでに、わしの本陣の守りを固めている。
そしてこの他に、自由にわしの軍を使いこなし、わしに似た軍略を展開できる羽柴秀吉がいるのだ。
この布陣にて、勝てぬ敵などそうはおらぬ。
だからこそ、わし自身が前線に出ては戦の興が醒めるというもの。
戦というものは、最後まで芥(あくた)どもの死の果てにあるからこそ美しいのだ。
必ず勝つと決まっている退屈な遊びには、とうに飽きておった。
――事実、織田信長自身が直接軍を率いて決戦に臨むことは少ない。
今川義元を討ち取った、桶狭間。
浅井・朝倉に退路を断たれた、信長包囲網。
武田の騎馬隊を迎え撃った、長篠。
そして、自ら先頭に立って突撃した、天王寺砦の戦い。
どれもが、風雲急を告げるほどの圧倒的不利、あるいは絶体絶命の危機の中での指揮であった。
生きているという、確かな実感。
死を間近に感じるがゆえに、逆説的に燃え上がる『生』の輝き。
今の信長にとってこの戦況は、久しく味わうことのなかった極上の蜜を舐めるが如き快楽であった。
松永(久秀)如き、底の浅い玩具(おもちゃ)では決して楽しめなかった。
その空白を、見事に埋めてくれるほどの大輪の花となったか、竹千代。
いつの世も、己の予想を超える「意外」こそが、最も愛おしい。
信長は、低く笑った。
凄惨極まる戦場よりも、なお昏く、殺伐とした本陣の真っ只中で。
そして。
ゆっくりと、戦場にいる誰もが思わず耳を傾け、平伏せざるを得ないほどの絶対的な威圧を込めて、信長は言い放った。
「各将に伝えよ。――『わしが指揮を取る』、と」
その、あまりにも平然とした、何気ない一言。
それこそが、この戦の第ニ幕の幕を開ける、死の合図であった。
織田の兵たちは、まるで信長の手足となったかのように踊り狂い――血煙の戦場に、破滅の旋律を奏で始めた。
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