第9話 命の鼓動
「徳川家康様!」
「この様な大役を、この万千代にお任せいただけると申されましたか!」
後に『井伊の赤鬼』と称されることになる井伊直政――万千代は、歓喜に身体を震わせていた。
日頃より徳川を格下の家臣のごとく扱う織田軍。
あの最強と謳われた武田の赤備えすら蹂躙した、怪物じみた織田軍。
決して挑んではならぬと、本能で自制をかけていたその織田軍と、真っ向からやれるのだ。
しかも、逃げるのではない。
徳川の誇りを打ち立て、正面からその腑(はらわた)を食い破る。
その最高の大誉を、徳川の軍神こと本多忠勝殿ではなく、この万千代に御命令いただけるとは。
思わず口元が吊り上がるのを抑えきれない。
全身の血が、マグマのように湧き立ち、沸騰するような歓喜で爪先まで震えた。
あの最強織田軍の血を全身に浴びられるのなら、この命など安いものよ。
同時に湧き上がるほんの少しの死への恐怖が、逆に澄み渡るような頭の冴えを運んでくる。
今までの徳川には無い、苛烈極まる戦略。
「穿ち抜け」
相手の陣に深く穴を開け、その背後へと回り込む奇策。
なぜか御嫡男である信康様は、戦う前からこの作戦の全容を知っておられた。
なんでも、遥か九州の雄である、島津の得意戦術らしい。
(九州の一大名の作戦まで網羅されているとは……信康様の見識の広さ、恐るべし)
万千代は、若き主君の底知れなさに思わず心の中で唸り声をあげた。
しかし、現実は甘くない。
酒井忠次が城を出てからというもの、怒濤のような家康様の指示にて軍備を整えたものの、未だ家臣たちはその目まぐるしい変化に対応できずにいた。
我が軍全体の士気は、お世辞にも高いとは言えない状態。
唯一の希望であった「織田軍の非武装」というアドバンテージも、続々と武具が集まってきているとの知らせが、既に忍びから届いていた。
家康様の圧倒的な威風の力に押され、なんとか戦の形を保っている――それが瀬戸際の現実だった。
だが、先ほどの軍議でのことである。
御嫡男である信康様が、毅然とした態度で言い放ったのだ。
「各々方、何をされている!」
「今回、織田から嫌疑をかけられたのは、この信康と母上であろう?」
「我らが首を差し出し、丸く収めるべきじゃ! 徳川を救うためなら、我が母上と共に、喜んでその礎となろう!」
元々は、家臣団の誰もが「そうなるしかない」と考えていた結末だった。
だが、若様自身の口から出たあまりにも悲壮な自己犠牲の精神に、多くの三河武士が顔を伏せ、声を失った。
その重苦しい静寂の中、割り込んだのは地響きのような声だった。
「息子の命一つ救えぬ君主に、誰が従おうぞ」
静かだが、絶対的な威圧感を孕んだ家康様の声。
しかし、一周目の地獄を知る若様も負けてはいなかった。
「乱世のことわりをお忘れか! 強者に従い、機が至るを待つ。それもまた乱世の処方! それが分からぬ父上ではありますまい!」
(そうだ……あの時のように、私は死なねばならないのだ……!)
信康様はある種の悟り、いや、狂気すら孕んだ凄みで食い下がる。
しかし、家康様はそんな息子の言葉を聞き、フッと不敵に笑われた。
「このわしに乱世を説くとは、片腹痛いわ」
そして、王者の風格を纏い、至極真っ当な理不尽との決別を告げるように、天を仰いで宣言された。
「こんな二十代の若者に救われねば生き残れぬ、徳川では無いわ! それが乱世の宿命と言うのなら――世の中の常識すら力尽くで変える、三河武士の強さを歴史に刻み込んでやろうぞ!」
その圧倒的な覇気に、信康様の目が見開かれる。
「わしは……また戦場を駆けて良いのか?」
「生きたいと、生きたいと口にして良いと言うのか……っ! 父上!」
(歴史が変わっていく……私の知る手から、離れていく……!)
信康様は、ガクリと膝をついた。それは絶望ではなく、救済の涙だった。
この親子の魂のぶつかり合いに、いよいよ三河武士たちは抑えきれなくなった。
天を衝くほどの咆哮が、地鳴りのように城内に響き渡る。
先ほどまでの恐怖に怯えた顔は消え去り、全員が獲物に牙を剥く飢えた獣の顔へと変わっていた。
徳川という『虎』が、織田という『龍』の喉元に噛み付く。その開戦の合図の雄叫びであった。
万千代は、その熱狂の中で静かに刃を研ぐ。
「主お二方、三日会わざれば刮目して見よ、とはよく言ったもの。ほんの僅かの間に、とんでもない化け物になられた」
「ならば某も、お二人の主に相応しい鉾となるため――武田をも超える、真の修羅になってみせようぞ」
信康様の顔に、熱い血の赤みが戻っていく。
徳川の意地と逆襲を見せる刻(とき)は、すぐそこまで迫っていた。
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