第6話 檻の中の聖域
篝は腕時計を確認して、少し慌てた様子で玲に語りかけた。
「やだ、私としたことが。ごめんなさい、玲。時間が来たわね」
玲も同様に時計を確認して驚く。
「あっ、ほんまや。仕事に入り込みすぎたな」
慌てる玲に、篝は小さく笑った。
「急いであげて。花梨も女性完全保護課の大切な家族なんだから」
「さすが総司令官様。ワークライフバランスやな」
玲が肩を竦める。
そして、まだ血の気の戻らない朱音へ振り返った。
「朱音ちゃんも来る?」
「え?」
「今日あんな目に遭わせてもたし、お詫びさせて。うちでお好み焼き振る舞ったる!」
先程の凄惨なVR研修が脳裏をよぎる。
一瞬ためらったが、玲の屈託のない笑顔に押されるように、朱音は小さく頷いた。
それに、あの臨場感に満ちた恐怖を体験した直後だ。
一人きりで冷たいアパートに帰ることを、本能が拒んでいた。
「お邪魔します」
「よっしゃ、決まりや!」
玲は嬉しそうに声を弾ませた。
◇
玲に付いていった先には、温かみのある花や動物のイラストが飾られた扉があった。
女性完全保護課が運営する託児ルームは、想像以上に温かな空間だった。
柔らかなペールトーンの壁紙に、整然と並んだ絵本棚。
おもちゃの並ぶ小さな机からは、子どもたちの無邪気な笑い声が聞こえる。
その中を、小さな女の子がトコトコと駆けてきた。
「ママー!!」
勢いよく玲の膝へ飛びつく。
「花梨、ええ子にしとった?」
「うん!」
4歳ほどの小さな少女だった。
ふわふわとした柔らかな髪に、こぼれ落ちそうな大きな瞳。
玲が愛おしそうに抱き上げる。
「この人は朱音ちゃん。ママのお仕事のお友達やで」
「おともだち?」
花梨はきょとんとした後、ぱっと顔を輝かせた。
「おねえちゃん!」
ちいさな温かい手が、朱音のスーツの袖をそっと掴む。
その混じり気のない無邪気さに、朱音のこわばっていた頬が自然と緩んだ。
「はじめまして。よろしくね、花梨ちゃん」
「うん!」
花梨の愛らしい笑顔を見ていると、このおぞましい組織が、
本当に“女性と子どもを守るための場所”なのだと思えてしまう。
先ほど植え付けられたばかりの恐怖と、目の前にある温もり。
その矛盾に、朱音は激しい戸惑いを覚えていた。
◇
「はい、お待ち!」
ジュウジュウと音を立てる熱々のお好み焼きが、テーブルへ置かれる。
甘辛いソースと青のりの香ばしい匂いが、部屋いっぱいに広がった。
「わぁ……!」
「関西人の本場の味や! 他で食べれんくなるで」
玲が得意げに胸を張る。
夕食の時間はおどろくほど賑やかだった。
花梨が一生懸命に今日あったことを話し、玲がテンポ良くツッコミを入れる。
職場で見せる冷徹なプロの顔とは違う、どこにでもある“普通の家庭”がそこにはあった。
「朱音ちゃんももっと食べ!」
「はい、いただきます」
口いっぱいに美味しさが広がり、自然と笑みが零れる。
胸を支配していたあの息苦しい恐怖が、少しずつ、穏やかな日常の波に溶けて薄らいでいくようだった。
◇
たっぷりとはしゃいだ後、花梨は布団の中で寝息を立て始めた。
リビングには、静かなジャズだけが小さく流れている。
玲はプシッと缶ビールを開け、グラスの麦茶を飲む朱音に向き直った。
「…今日は、ほんまに申し訳なかったな」
ぽつりと、申し訳なさそうに呟く。
朱音は慌てて首を振った。
「いえ。知らなければいけないことでしたから。私、あまりにも無知だったんだと思います」
朱音は胸の奥の淀みを飲み込み、言葉を選んだ。
「そか」
玲は小さく笑う。
だが、その横顔には、昼間の明るさとは違う深い疲れが滲んでいた。
朱音は場を和ませようと、寝室の方へ視線を向けた。
「花梨ちゃん、本当に可愛いですね。玲さんにそっくりです」
「やろ?」
玲の表情が一瞬で柔らかくなる。
しかし、彼女はグラスを見つめ、少しだけ声を落とした。
「花梨の父親な、『国家出生支援センター』の提供者やねん」
朱音が息を呑む。
「……え」
人工授精による、国が管理する出生支援制度。
その存在は知っていたが、身近に利用者がいるとは思わなかった。
「驚くよなぁ」
玲は自嘲気味に苦笑する。
「うち、昔は普通に結婚しとったんや」
そう言って、玲はぽつりぽつりと過去を語り始めた。
当時の玲は、心から子どもを望んでいた。だが何年経っても授からない。
焦りと不安の中、一人で不妊治療のクリニックに通い続けた。
夫はいつも『仕事が忙しい』
『俺だってプレッシャーなんだよ』と言い訳を並べ、検査をのらりくらりとかわし続けた。
義母もまた、実の息子をひたすら庇い、玲を追い詰めた。
『玲さんの頑張りが足りないんじゃない?』
『もっと優しく接して、その気にさせてあげたら? 男の人って繊細なのよ』
私さえ我慢すれば。
玲は笑って耐え続けたが、心も体もボロボロになり、限界を迎えた。
そんな時に相談に乗ってくれたのが、篝だった。
『国家出生支援センターからの協力を受けない?』
篝は優しく、しかし確信に満ちた声で言った。
『あなたは十分に頑張ったわ。でも、変わる気のない人間を待つ時間は、女性にはないのよ』
離婚と国から提供の精子によるシングルマザーの道を夫に伝えた日、
夫はそれまで見せたこともない形相で激昂した。
『ふざけるな!! 妻がそんな訳の分からない国の制度に頼るなんて、頭がおかしいだろ!
俺への当てつけか!? 世間体が悪すぎる!』
義母も冷ややかな目で玲を責め立てた。
『玲さん、落ち着いて考えなさい。子どもは授かりものよ?
そんな人工的なやり方、不自然でおかしいわ。第一、息子のプライドを傷つけて楽しいの?』
その修羅場の最中、玲の背後に控えていた篝が、静かに一歩前に出た。
篝の視線は冷徹そのものだった。
『ですが、そうやってプライドを盾に、2年間も検査から逃げ続け、
玲さんを一人でクリニックに通わせ、精神的に追い詰めていたのは息子さんですよね。
不誠実だったのはどちらですか?』
『っそれは、俺にだって心の準備が…』
『相手を変えられないから、玲さんは自分で前へ進む行動に出るんです。
話し合いの余地すら作らなかった方に、彼女を責める資格はありません』
論理的に逃げ道を塞がれ、夫はみるみる青ざめていった。
そして、それまでの威圧的な態度から一転して、縋るように玲の手を握ろうとしてきた。
『玲、頼むから考え直してくれ。俺が悪かった。
これからはちゃんと協力する。子どもは焦らなくていいだろ?
もう少し、もう少しだけ待ってくれ!』
震える声。必死に保とうとする男のプライド。
だが、玲はその手を静かに振り払った。
『その言葉、あと何回聞かなあかんの?』
夫が固まる。
『うち、2年信じて待ったんやで。
クリニックの待合室で、周りの夫婦を見るたびに、自分がどれだけ惨めやったか。
こんなんじゃ、子育ても一緒にできるわけないわ』
◇
「それで離婚して、私は花梨を産んだんや」
語り終えた玲は、缶ビールをぐっと傾けた。その声に、微塵の後悔もなかった。
「篝はな、ほんまに女性の苦しみに寄り添ってくれる。
元夫みたいに、口先だけで不妊治療から逃げる男に苦しめられて、
センターに助けを求める女性はたくさんおるんよ」
玲は愛おしそうに寝室の扉を見つめる。
「花梨のことも、篝は家族のように大事にしてくれる。
保育施設も福利厚生も、うちは女性完全保護課に何度も助けられてきた」
だがそこで、玲の言葉が途切れた。少しだけ表情を曇らせ、視線を落とす。
「ただな」
リビングの淡い間接照明に照らされた玲の横顔に、かすかな影が落ちる。
「篝は時々力が入るあまりに、見落としてるもんもありそうで心配なんよ。
正義を急ぎすぎとるっていうか。
うちは花梨がおるから、どんなに仕事が過酷でも、人間として道を踏み外さずにいれる。
ブレーキになってくれるからな」
玲は苦笑する。
「でも、篝にはそういう存在がおらんのや」
その言葉が、朱音の胸の奥深くへ、冷たい鉛のように沈んでいった。
篝は多くの女性を救っている。それは紛れもない事実だ。
玲がここで幸せに暮らしているのが何よりの証拠だ。
だが同時に、誰も彼女を止められないまま、狂気とも呼べる
「絶対的な正義」の深淵へ突き進んでいる気もする。
もし本当に、あの聖母のように優しく微笑む上司が、道を踏み外して暴走した時——。
一体、誰が彼女を止めるのだろう。
朱音は静かに、冷えたグラスを握りしめた。
新人の自分に何ができるのか。その答えを、朱音はまだ、見つけられずにいた。
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