第7話 過去からの告発状(リベンジ・シグナル)
優しい陽の光に包まれた公園。
それは、幼い少女と両親が手をつないで家に帰る、ありふれた、しかし確かな幸福のワンシーンだった。
「篝、楽しかったか?」
「うん! パパとママと一緒に遊べて楽しかった。また行こうね」
「そうね。パパはまた日曜日に帰ってくるから、楽しみにしましょう。
今度は遊園地にでも行きましょうか?」
篝は目を輝かせ、大好きな両親の顔を見上げた。
「うん! 約束だよ!」
約束の指切りを交わした、まさにその時だった。
世界が一瞬で暗転し、底のない闇に包まれる。
目線の先にあったのは、冷たく薄暗い天井。
そこへ、荒い呼吸と共に、おぞましい男の輪郭が近づいてきた。
「お前もかわいそうになぁ。前の父親は仕事の邪魔だからってお前を捨てたんだよ」
男は薄ら笑いを浮かべながら、小さな篝の身体を組み敷く。
「母親だって男を作って消息不明さ。……ほら、お前もこの状況を楽しめばいい」
篝の身体が、恐怖でガタガタと震える。
「やめて……触らないで……!」
精一杯の声を振り絞るが、その拒絶は上の男には届かない。無慈悲に身体を弄ばれていく。
「やめろ! 私に触るな!!」
◇
はっと目を覚ます。
そこに広がっていたのは、見慣れた暗い執務室の光景だった。
激しい動悸は収まらず、額からは冷や汗が伝う。
どうやら、デスクに突っ伏したまま眠ってしまっていたらしい。気づけば、頬を冷たい涙が伝っていた。
「……またこの夢か」
篝は震える指先で顔を覆う。
「私に幸せな時間なんて、邪魔なだけ……」
低く吐き捨てるような呟き。だが、その独白を拾う静かな声があった。
「また同じ悪夢か?」
いつの間にか室内にいた黒須玲が、痛々しいものを見る目で篝を見つめていた。
玲はその手に2本の缶コーヒーを握っており、そのうちの1本を篝の前にコト、と置く。
「ありがとう。……でも、ノックくらいして欲しいわね」
動揺を隠すように冷淡さを装う篝に、玲は呆れたように肩をすくめた。
「したで? あんたが気づかんかっただけや」
ふと、玲の視線がデスクの片隅に留まる。そこに散らばるいくつかの白い錠剤を見つけ、彼女の眉が悲痛に曇った。
「幻覚、起きてるんか。……また仕事詰めて誤魔化しとるんやろ」
篝はハッとして薬を隠そうとしたが、玲のまっすぐな眼差しに、観念したように息を吐いた。
「……寝ない癖がついてしまっているのよ。そのほうが、身の危険も及ばないから」
「だからって、あんな寝方してたらちゃんと疲れ取れんやろ。今度、うちにおいで」
玲は声音を和らげ、「花梨も篝に会いたい言うてるしな」と付け加える。
その名前が出た瞬間、篝の張り詰めていた表情が、今日初めて微かに和らいだ。
「……花梨の願いなら、仕方ないわね」
「そうや。だからさっさと仕事片付けよ。……と言いたいとこやけど」
玲の視線が、共有の広いデスクに広げられた資料へと向かう。
そこには、仕立ての良いスーツを纏い、輝く歯を見せて自信に満ちた笑顔を浮かべる男の写真があった。
資料のヘッダーには、『次期市議会議員候補 久我誠一』という文字。
玲の表情が、目に見えて険しくなる。
「……こいつが、例の」
「ええ」
篝は口角を吊り上げて笑ってみせた。しかし、その瞳は瞳孔が不自然に開いており、酷くアンバランスで狂気じみている。
「こうやって世に出てくるタイミングを、ずっと待っていたのよ。昔から、野心だけは一丁前にある男だったからね」
篝の声から、一切の体温が消え失せる。
「一番世間が注目している瞬間に引きずり落とす。そうすれば、彼は二度と社会の表舞台には出られない。たとえ法を逃れても、世間が彼を許さないわ」
淡々と、しかし確実に相手を仕留めるための言葉。篝は手にしたペンを、久我の顔写真に迷わず突き立てた。
「殺すだけなら簡単だけど、それじゃ足りない。……生きながらの地獄を味わわせないと」
プラスチックのペン先が軋む。その瞳の奥には、十数年分のドロドロとした憎悪が、静かに、激しく燃え盛っていた。
◇
「羽村朱音、入ります!」
翌朝。執務室のドアを勢いよく開けて駆け込んできた朱音は、室内に漂う異様な空気の重さに、思わず足を止めた。
デスクの奥に座る篝は、いつも通りに柔らかな微笑を浮かべている。
「おはよう、朱音」
「お、おはようございます!」
朱音は慌てて背筋を伸ばし、敬礼する。篝の圧倒的な手腕によって、管轄内の性犯罪率を「10分の1」にまで激減させ、今や警察上層部からも独立した権限を与えられている『女性完全保護課』。そのトップである篝は、朱音にとって「生ける伝説」であり、憧れの対象だった。
「今日は特別任務よ」
篝が一枚の資料を差し出す。
「対象は市議会議員候補・久我誠一。女性支援を大々的に掲げて、急速に支持率を伸ばしている男よ」
朱音は手渡された写真を見つめたが、次の瞬間、胸の奥に冷たい違和感を覚えた。篝の横顔が、いつもと違う。
「……調査対象、なんですか?」
「ええ」
篝はやはり微笑んでいる。だが、その口から漏れた言葉は、朱音の肌を粟立たせるほど冷徹だった。
「昔から――“女の子”が、大好きな男だからね」
その言葉にだけ、形容しがたい、すさまじい感情の質量が籠もっていた。
◇
その日の午後。
女性完全保護課の地下フロアへ、篝、玲、朱音の3人は降りていった。
玲が、プロ用の大量の化粧品をデスクへ手際よく並べていく。
「ほな、始めるでぇ〜」
「えっ? 何がですか?」
「潜入や、潜入!」
玲はいたずらっぽく笑った。
「今回、篝が直々に囮やるんや」
「総司令官自らですか!?」
驚愕する朱音に、玲は苦笑しながら小さくため息を吐く。
「止めたんやけどなぁ……絶対自分でやる言うて聞かへんかった。頑固な司令官やで、ほんま」
朱音は不安を隠せない目で篝を見た。
篝は鏡の前に座り、静かに髪を整えている。その横顔は、普段の慈愛に満ちた司令官のものではなかった。
それはまるで、確実に獲物を屠る瞬間を待つ、冷酷な狩人の姿そのものだった。
◇
一方、その頃。
都内某所の落ち着いたカフェ。
一人の女性記者が、コーヒーを片手にICレコーダーの音声をチェックしていた。
東雲真琴。大手新聞社の社会部記者であり、女性完全保護課の成果を何度も特集し、篝を“女性の救世主”として世に知らしめた張本人だ。彼女が書いた篝の特集本はベストセラーとなり、ジャーナリストとしての地位を不動のものにしている。
その真琴のスマートフォンが、短いバイブレーションを震わせた。
画面に表示されたのは、一件の匿名メッセージ。
『今夜21時。ホテル・クラウン。特大スクープになる』
送り主の電話番号は非通知だったが、末尾に添えられた一文を見た瞬間、真琴の脳裏に一人の女の顔が浮かんだ。
『女を食い物にしてきた男が堕ちる夜です。Kより』
真琴は目を細め、小さく息を吐き出す。
「……ったく。相変わらず記者使いが荒いんだから、あの人は」
苦笑しながらスマホの画面を消す。
真琴が篝の取材に応じる代わりに、真琴は篝の指示で探偵さながらの実動(裏取りや追跡)を行う――それが二人の、誰にも言えないギブ&テイクの絆だった。
しかし、苦笑の後に続くのは、決まって胸の奥をざわつかせる冷たい予感だ。
天宮篝が自ら動き、自分にカメラを持たせる時。
それはいつも――“誰かの人生が、跡形もなく終わる夜”だった。
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