第7話
「篝、本当にかわいいな」
「生まれてきてくれて、本当にありがとう」
幼い篝は、父の大きな腕の中で楽しそうに笑っていた。
柔らかな陽射し。
風に揺れるシャボン玉。
隣では母が優しい眼差しを向けている。
「あなた、あんまり高くしたら危ないですって」
「大丈夫だよ。篝は強い子だからな」
「もう、あなたったら」
三人の笑い声が、公園に溶けていく。
温かい。
優しい。
胸が苦しくなるほど幸せな光景。
——その瞬間だった。
ぱちん、と。
シャボン玉が割れる音がした。
世界が暗転する。
冷たい部屋。
薄暗い天井。
酒臭い息。
「残念だったな」
男が嗤う。
「前の父も母も、お前を捨てたんだよ」
小さな篝の身体が震える。
「違う……」
「違わねぇよ」
男の手が伸びる。
「お前は俺のもんだ」
「やめろ……」
押し倒される。
逃げられない。
恐怖で声が出ない。
「やめろ! 私に触るな!!」
◇
天宮篝は荒い息と共に目を覚ました。
暗い執務室。
机へ突っ伏したまま眠っていたらしい。
胸が激しく上下している。
額には汗。
そして気づけば、頬を涙が伝っていた。
「……またこの夢」
篝は震える指で顔を覆う。
「私に幸せな時間なんて……邪魔だ……」
低く吐き捨てるように呟いた。
その時。
「……また見たん?」
静かな関西弁が背後から聞こえた。
篝が顔を上げる。
入口には、缶コーヒーを二本持った黒須玲が立っていた。
「ノックくらいしなさい」
「したで? あんた気づいてへんかったけど」
玲は苦笑しながら一本を机へ置く。
「相変わらず寝不足やなぁ」
「仕事が多いだけよ」
「嘘つけ」
玲は篝の目元を見つめる。
「昔からや。あんた、夢見ると無理やり仕事し始める」
篝は答えない。
代わりに資料へ視線を落とした。
そこには一人の男の写真。
整ったスーツ姿に、輝く歯を見せる笑顔。
画面下にはテロップ。
『次期市議会議員候補 久我誠一』
玲の表情がわずかに曇る。
「……とうとう見つけたんやな」
「見つけたんじゃない」
篝は静かに言った。
「ずっと待ってたのよ」
「議員選挙のタイミングを?」
「ええ」
篝の声は冷たかった。
「一番世間が注目している時に落とすのが、一番苦しいでしょう?」
玲は何も言えなかった。
篝は画面の男を見つめる。
「殺すだけなら簡単だった」
静かな声。
「でも、それじゃ足りない」
その瞳には、十数年分の憎悪が燃えていた。
◇
「羽村朱音、入ります!」
朝の執務室へ朱音が駆け込んでくる。
しかし空気の重さに思わず動きを止めた。
篝はいつも通り微笑んでいる。
だが、どこか違う。
静かすぎる。
「おはよう、朱音」
「お、おはようございます!」
朱音は慌てて敬礼する。
「今日は特別任務よ」
篝が一枚の資料を差し出した。
「対象は市議会議員候補・久我誠一」
写真を見た瞬間。
朱音は小さく眉をひそめる。
妙な違和感。
篝がその写真を見つめる目が、あまりにも冷たい。
「女性支援を掲げて支持率を伸ばしている男よ」
「……調査対象なんですか?」
「ええ」
篝は微笑む。
「昔から“女の子が好き”だったみたいだから」
その言葉だけ、妙に感情が籠っていた。
◇
その日の午後。
女性完全保護課地下フロア。
玲が大量の化粧品を机へ並べる。
「ほな始めるで〜」
「えっ?」
「潜入や潜入!」
玲は楽しそうに笑った。
「今回、篝が直々に囮やるんや」
「総司令官自ら!?」
「止めたんやけどなぁ……」
玲は小さくため息を吐く。
「絶対自分でやる言うて聞かへんかった」
朱音は不安げに篝を見る。
篝は鏡の前で静かに髪を整えていた。
その横顔は、どこか異様だった。
まるで獲物を前にした狩人みたいに。
◇
一方その頃。
都内某所のカフェ。
一人の女性記者がICレコーダーを確認していた。
東雲真琴。
社会部所属。
女性完全保護課を何度も特集し、“女性の救世主”として天宮篝を記事にしてきた人物だった。
そのスマホへ、一件の匿名メッセージが届く。
『今夜21時。ホテル・クラウン。特大スクープになる』
送り主不明。
だが最後に一文だけ添えられていた。
『女を食い物にしてきた男が堕ちる夜です』
東雲の目が細まる。
「……ったく、あの人記者使いが荒いなあ」
東雲は苦笑しながらスマホを閉じた。
だが同時に、胸の奥がざわつく。
天宮篝が自ら動く時。
それはいつも、“誰かの人生が終わる夜”だった。
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