第5話 共感の地獄(シンパシー・ヘルス)
木崎は今までの絶望した表情から一転、蜘蛛の糸を見つけたような笑みを朱音に向けた。
「そうだよな……!」
木崎が拘束されたまま、朱音へ縋りつくように顔を上げた。
「話が分かるやつもいるじゃないか。俺はここまでされるようなことしてないよな!?」
その目には涙が浮かんでいた。助けを求めるような、必死の視線。
だが、朱音の胸に湧き上がったのは、同情ではなくどす黒い嫌悪であった。
つい先ほどまで、被害生徒や同僚の教員への陰湿な報復を口にしていた浅ましい男。
それなのに今は、自分だけが理不尽な被害者のような顔をしている。
こんなやつを許してはいけない。朱音がそう強く思ったその時だった。
「連れて行きなさい」
篝が静かに命じる。
女性職員たちが無言で木崎を拘束し直し、奥の重厚な扉へと引きずっていく。
「ま、待ってくれ!!」
木崎が狂ったように暴れる。
「俺は何も悪くない!! 放せ、あの部屋だけは嫌だ、やめろぉぉおお!!」
その見苦しい悲鳴は、厚い金属扉が閉まると同時に完全に遮断され、部屋には一瞬で静寂が落ちた。
篝は穏やかな笑みを携えて、ゆっくりと朱音へ向き直った。
「あなたの初任者研修を始めましょうか……玲、お願いね」
そう言われた玲は、軽く手を挙げる。笑っているのか困っているのか分からない、どこか曖昧な表情であった。
案内された先は、小さな白い部屋だった。
机も窓もない。ただ中央に、ポツンと椅子が一つだけ置かれている。
「ここで……研修を?」
朱音が不安げに呟く。
「まあ座ってや」
玲に促され、朱音は硬い椅子へ腰掛けた。
「ちょっと特殊やけど、うちの部署では一番大事な研修やから」
玲はそう言いながら、銀色のケースから重厚な機械を取り出す。
黒い、フルフェイスに近い形状のゴーグル。
内部には複数のセンサーと、不気味に明滅する針のような電極が埋め込まれていた。
「最近のVR技術ってすごいんよ。脳の神経に直接、信号を送れるレベルやから」
「VR……?」
朱音が問い返した瞬間だった。
「堪忍な、朱音ちゃん」
玲の表情から、一切の笑みが消える。
「この部署の使命を、骨の髄まで理解してもらわなあかんから」
次の瞬間。朱音の首筋に、鋭い注射の衝撃が走った。
薬液が流れ込む感覚とともに、強烈な目眩が襲う。
視界がグニャリと歪んだ。
「……え」
そのまま、朱音の意識は急速に暗転していった。
——冷たい風。
気づくと、朱音は見知らぬ夜道に突っ立っていた。
暗い。街灯もなく、人気がまったくない。
朱音は激しい混乱と、首筋に残るチクりとした痛みを覚えながら辺りを見回す。
「ここ……どこ……?」
その時。背後から、複数の足音が近づいてくるのが聞こえた。
心臓が耳元でうるさく跳ねる。
振り返るとそこには、大きな男の影が3つ。
彼らの顔にはモザイクのようなノイズがかかっている。
だが、その口元だけが、歪んだ笑みを浮かべてこちらに向かって走ってくるのが分かった。
(待って、このシチュエーション……木崎の被害生徒の、裏サイトの書き込みと一緒だ——)
本能的な恐怖が身体を貫いた。
逃げなきゃ。そう思った瞬間、背後から髪を掴まれ、地面に引きずり倒された。
「っ!!」
打ち付けた全身に、鈍い激痛が走る。
振り払えないほどの強い力で、何本もの腕が朱音の身体を押さえつけていく。
「おい、暴れるな。お前が悪いんだろ?」
耳元で囁かれた低い声。それは、紛れもない木崎の声だった。
息が苦しい。別の男の手が、朱音の口と鼻を強引に塞ぐ。
「や……やめ……っ!」
喉が震える。助けを呼ぼうとしても、肉の壁に阻まれて声にならない。
周囲には誰もいない。誰も助けてくれない。指先一つ動かせない。
圧倒的な暴力と絶望。恐怖で脳の思考回路が真っ白に焼き切れていく。
「静かにしろ。誰も来ねえよ」
衣服が引き裂かれる音。衣服越しに触れる、男たちの生々しい体温。
朱音の視界が涙で滲み、完全に暗闇に染まりかけた、その時だった。
ピピッ、と無機質な電子音が響き、視界が突然真っ白に弾けた。
「——起きた?」
柔らかな、現実の声。
朱音は過呼吸寸前の荒い息を吐き出しながら、ガバッと目を開けた。
視界に飛び込んできたのは、先ほどの白い部屋の壁。
目の前には先ほどの男たちの姿はなく、心配そうに見下ろす玲と、静かに佇む篝がいた。
頭部を締め付けていた重い機械を、篝が滑らかな手つきで外す。
「科学の進歩はすごいわね」
篝はいつもと変わらぬ穏やかな笑みを浮かべている。
「木崎の被害生徒の『記憶データ』をもとに、VRで“疑似体験”してもらったの。
脳が直接知覚する恐怖は、現実と何も変わらないでしょう?」
朱音は言葉を失った。
呼吸がどうしても整わない。身体の震えが止まらない。
これがただの仮想現実で心底よかったと、すがるように思い込もうとする。
しかし、男たちに押さえつけられた両腕の、あの生々しい肉の感触が、
今も皮膚にべっとりと張り付いて離れなかった。
「……怖かったでしょう?」
篝が静かに、慈しむように問いかける。
朱音は過呼吸のまま、何も答えられない。
「被害者はね、その恐怖を、誰にも消してもらえないまま一生抱えて生きるの」
篝の声は怒っていなかった。どこか、深い慈悲と悲しみに満ちてすらいた。
「夜道が怖い。男の声が怖い。誰かの視線が怖い……。人生のすべてを破壊されるのよ」
篝は床にへたり込む朱音の前へ、ゆっくりとしゃがみ込む。
そして朱音の濡れた頬を、温かい手で優しく包み込んだ。
「それでもあなたは——あの男に、酌量の余地があると思える?」
朱音の喉がヒクリと震える。
頭の中では、まだ先ほどの木崎の声と、襲撃の恐怖が激しく反響していた。
しかし、この胸を締め付ける恐怖の正体が、幻の男たち(木崎)なのか、
それとも、目の前で聖母のように優しく微笑む篝なのか——。
今の朱音には、もう区別がつかなくなっていた。
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