第6話 千夜子さんの、これからのために

 若葉千夜子は、本を買わなくなっていた。


 昔はよく買った。夫の賢一が生きていた頃は、二人で書店へ行くのが休日の楽しみだった。賢一は歴史小説が好きで、千夜子はエッセイや紀行文を好んだ。レジに向かうとき、お互いの手元を覗き込んで、「また買ったの」と笑い合った。その笑い声を、千夜子はまだ覚えている。


 でも今はもう、本を買う必要がない。


 終活を始めたのは、賢一が逝って半年が経った頃からだ。まず、賢一の遺品を整理した。次に、自分の持ち物を見直した。本棚に並んでいた本を、少しずつ手放した。これだけある本を読み切れないまま逝くのは申し訳ない、と思ったから。残されたものが困るから。


 友人関係も、少しずつ整理した。


 連絡の取り合わなくなっていた人とは、静かに縁を切った。年賀状のやり取りだけになっていた人には、今年から出すのをやめた。残ったのは、ごく近しい数人だけだ。それで十分だ、と思った。この年になって、新しい縁を作る必要はない。


 今日も、街を歩きながら千夜子は考えていた。


 次は何を整理しようか。引き出しの奥の、古いアルバムだろうか。子どもたちが帰ってきたとき困らないように、ラベルをつけておくべきか。通帳の場所を書き留めておくメモを作るべきか。


 商店街の路地を抜けようとして、ふと足が止まった。


 本屋、という看板が目に入った。小さな木の扉に、橙色の光。昔は書店の前で足が止まることがよくあった。でも今は——立ち止まって、また歩き出そうとした。


 そのとき、扉が開いた。


     * * *


「あの、よろしいですか」


 白いエプロンの女性が、顔を出した。若い、透明感のある女性。その目に、千夜子は一瞬だけ驚いた。見知らぬ人の目が、こんなに温かいことがあるだろうか。


「お店の前で、少し立ち止まっていらっしゃいましたので」

「ああ、いいえ、ただ……」

「よろしければ、お入りにならないですか」


 千夜子は断ろうとした。本は買わなくていい。これ以上増やしてどうするのか。でも。


 女性の目が、千夜子を引き留めた。


 咎めていない。急かしてもいない。ただ、千夜子を見ている。今この瞬間の千夜子を、見てくれている目だった。


 いつから、こんな目で見てもらうことがなくなったのだろう。


「......少しだけ」


     * * *


 店の中は、静かだった。


 本棚が壁一面にある。でも本は一冊もない。千夜子は少し可笑しくなった。本屋なのに本がない。なんという店だろう。でもその空の棚が、なぜか悲しくなかった。棚は空でも、この空間には何かが満ちている。見えない何かが。


「こちらへどうぞ」


 テーブルへ通された。椅子に座ると、女性がすぐに温かいものを持ってきた。小さな急須と、白いカップ。注ぐと、薄い金色の液体が揺れた。


 あの、と千夜子は言おうとして、香りで気づいた。


 新茶だ。


「......春摘みの、お茶ですか」

「はい」と女性は嬉しそうに微笑んだ。「よくわかりましたね」

「昔、夫と一緒に、新茶の季節に茶農家さんへ行ったことがあって……あの香りと、よく似ているから」

「まあ」と女性は言った。「素敵な思い出ですわね」


 千夜子はカップを手に取った。口をつけると、爽やかで、でも深みがある味がした。若いお茶の清潔な香りと、少しだけ時間を置いた複雑さが混ざり合っている。


「朝比奈 紬と申します」

「若葉千夜子です」

「千夜子さん」


 紬は、千夜子の名前を、温かく呼んだ。


 若葉千夜子という名前は、賢一がいつも呼んでくれた名前だ。賢一がいなくなってから、この名前を呼ばれることが減った。子どもたちは「お母さん」と呼ぶ。友人たちは「若葉さん」と呼ぶ。千夜子、と呼んでくれる人が、この世界からいなくなってしまった。


「どちらからいらっしゃいましたの」

「この近くです。夫と長いこと住んでいました」

「今は、お一人で?」

「ええ」と千夜子は言った。「昨年、亡くなりまして」

「そうでしたの」


 紬は黙った。余計な言葉を続けなかった。お気の毒に、とも、大変でしたね、とも言わなかった。ただ、静かに頷いた。その静けさが、千夜子にはありがたかった。


「終活をしているんです」と千夜子は言った。自分でも少し驚いた。なぜこんなことを、初めて会った人に話しているのだろう。「持ち物を整理して、友人関係も少なくして。本も……増やすのをやめたから、本屋さんの前で立ち止まったのに、入ろうとしなかったんです」

「終活」と紬は繰り返した。

「ええ。もう六十五ですし、あまり先のことを考えすぎても仕方ないですから。残された時間を、丁寧に閉じていこうかと」


 紬はカップに目を落とした。少し間があった。


「千夜子さん」

「はい」

「今日は、お天気がよかったですわね」


 突然の話題転換に、千夜子は少し面食らった。


「......ええ、よかったですね」

「お出かけになって、気持ちよかったですか」

「それは......まあ、気持ちよかったです」

「美味しいものは、召し上がりましたか」

「いいえ、買い物ついでに歩いていただけで」

「そうですか」と紬は言った。「では今日の新茶が、最初の一つですわね」


 千夜子は紬を見た。


 紬は静かに笑っていた。あの笑い方で。口元だけで、でも目が少し細くなる笑い方で。


「千夜子さんの今日は、まだ途中ですわよ」


     * * *


 奥の扉が開いた。


 男が現れた。


 銀髪の、背の高い男。千夜子は、この年になると人の年齢がわかりにくくなるが、この男は五十代だろうか。静かで、丁寧な人だと、立ち姿だけでわかった。賢一とは全然違う。でも、人の話を聞いてくれる人だ、と思った。賢一もそういう人だったから、わかる。


 男はテーブルの前に立ち、千夜子を見た。


 見られた。


 最近、誰かにちゃんと見てもらった、という感覚がなかった。子どもたちは心配してくれるが、「元気?」という確認の目で見る。友人たちは「大丈夫?」という気遣いの目で見る。でもこの男の目は違う。心配でも気遣いでもなく、ただ——今の千夜子を、見ている。


 名刺を差し出された。


「みこしば じん、と申します」

「若葉千夜子です」


 御子柴は向かいに座った。何も聞かなかった。ただ、千夜子を見ていた。


 千夜子は不思議と、落ち着いていた。


 この沈黙は、責めていない。急かしていない。あなたがそこにいるだけで十分です、というような沈黙だった。千夜子は新茶を一口飲んで、御子柴を見た。


「おかしな店ですね」と千夜子は言った。「本屋なのに本がない」

「そうですね」と御子柴は言った。静かに、でも確かに。

「本は地下にあるそうで」

「はい」

「私に、何か選んでくださるとか」

「はい」


 千夜子は少し笑った。


「もう本は増やすまいと思っていたのですけれど」


 御子柴は、千夜子の目を見た。真っ直ぐに。


「なぜですか」


 千夜子は答えた。


「終活をしているので。持ち物を減らしているんです。本も、これ以上増やしても、読み切れないままになるかと思って」


 御子柴は黙った。少しだけ、考えるような間があった。


「読み切れなかった本は」と御子柴は言った。「誰かの迷惑になりますか」


 千夜子は答えられなかった。


「本は」と御子柴は続けた。「読まれなくても、そこにあることで何かを届けることがある」


 それだけ言って、御子柴は静かに立ち上がった。


「少々、お待ちください」


     * * *


 扉が閉まった。


 千夜子は紬を見た。


「紬さん、さっき......今日はまだ途中、とおっしゃいましたね」

「はい」

「そういう言い方を、久しぶりに聞いた気がして」


 紬は千夜子を見た。


「千夜子さんは、毎日どんなふうに過ごしていらっしゃいますか」

「そうですね......朝起きて、食事をして、片付けをして、少し散歩して、また片付けをして」


「楽しいことは」


 千夜子は少し考えた。


「楽しい......最近はあまり、楽しいことを考えていなかったかもしれません」

「昔は、どんなことがお好きでしたか」

「昔は......」千夜子は遠くを見るような目をした。「旅行が好きでした。夫と、あちこち行って。それから、庭仕事。花を育てるのが好きで。料理も。誰かに食べてもらうのが好きで......誰かがいなくなってから、料理は適当になってしまいましたけれど」


「庭は、今も?」

「庭は......ありますよ。でもこのところ、あまり手をかけていなくて」

「そうですか」と紬は言った。「今、何の花が咲いていますか」


 千夜子は、答えようとして、気づいた。


 最近、庭の花を見ていなかった。毎朝カーテンを開けても、庭を眺める習慣がなくなっていた。終活のことばかり考えていて、庭に何が咲いているか、見ていなかった。


「......見ていませんでした」

「まあ」と紬は言った。「きっと、待っていますわ」


 千夜子は、その言葉を胸に受け取った。庭の花が、待っている。千夜子が見てくれるのを。


     * * *


 足音が戻ってきた。


 御子柴が現れた。手に、一冊の本を持っている。


 柔らかな萌黄色の表紙。春の若葉のような色だった。千夜子は自分の姓を思い出した。若葉。こんな色の本を、この名字の自分が受け取る。


 大きさは文庫と同じくらい。軽い。とても軽い。でも軽さの中に、大切なものが詰まっているような重さがある。


 御子柴は両手で差し出した。


 千夜子は受け取った。


 萌黄色の、軽くて温かい本を。


「タイトルを」と御子柴は言った。


 千夜子はタイトルを読んだ。


 目が、潤んだ。


 老い方の本ではなかった。終わり方の本でもなかった。六十代から始まる、新しい時間についての本だった。夫を見送り、子どもたちが独立し、仕事も終わり、初めて自分だけの時間が広がったとき——その時間をどう生きるかを、静かに、丁寧に、書いた本だった。


 これは始まりの本だ、と千夜子は思った。


 終わりの準備をしていた自分に、これは始まりの本だと言っている。


「お買い上げありがとうございます」


 御子柴の声が、低く静かに落ちた。


「あなたに最高のひとときを、お約束します」


 千夜子は顔を上げた。


 御子柴を見た。この人は、千夜子が終活をしていると知っている。本を増やすまいと思っていたことも、知っている。それでも、この本を選んで、両手で渡してくれた。


「......ありがとうございます」


 声が震えた。泣かなかった。でも、声が少し震えた。


「一つだけ、聞いてもいいですか」

 御子柴が静かに頷いた。「この本を......読み終わったら、どうすればいいんでしょう」


 御子柴は少し間を置いた。


「またいらしてください」


 それだけだった。


 それだけで、十分だった。


     * * *


 帰り際、紬が萌黄色の本を和紙の袋に包んでくれた。


「千夜子さん」

「はい」


「お庭の花、今度いらしたときに教えてくださいな。何が咲いていたか」


 千夜子は微笑んだ。


「約束しましょう」

「ふふっ」と紬は笑った。「楽しみにしておりますわ」


 扉を出た。


 夜の路地は、涼しかった。でも、来るときより空気が違った。千夜子は萌黄色の本を胸に抱えて、空を見上げた。星がいくつか見えた。


 庭に何が咲いているだろう。


 明日の朝、カーテンを開けてみよう。そう思った。終活のメモを書く前に、庭を見よう。花に水をやろう。それから、お茶を一杯淹れよう。新茶がまだ売っているなら、買ってこよう。


 そして、この本を読もう。


 賢一が好きだった椅子に座って、陽の光の中で。


 終活は、少し待ってもらおう。

 まだ今日は、続いているから。


     * * *


## 御子柴 尋 —— 独白


 「読み切れなかった本は、誰かの迷惑になりますか」


 答えを求めて聞いたのではない。ただ、その問いを置いてみたかった。


 終活という言葉が、最近よく聞こえてくる。物を減らす、縁を整理する、先を決める。それは正しいことだと思う。でも、終わりの準備が、生きることより先になるとき——何か大切なものが、逆転する。


 棚の前に立った。


 今夜の一冊は、すぐにわかった。萌黄色の、軽い本。ある人が六十二歳のときに書いた、これからの時間についての本。「人生の後半は、初めて自分のものになる時間だ」という言葉から始まる。


 渡したとき、千夜子さんはタイトルを読んで、目が潤んだ。


 泣かなかった。それでいい。泣くより大切なことが、今夜の彼女にはあった。


 「またいらしてください」と言った。


 これは儀礼ではない。本当にそう思ったから言った。この店は、一度来た人の続きを、待っている。千夜子さんが庭の花の名前を教えてくれる日を、紬さんが待っている。


 彼女が「読み終わったらどうすれば」と聞いた。


 その問いの中に、すでに答えがあった。読み終わる、という未来を、彼女はもう想像している。終わりの準備をしていた人が、本を読み終えた先を、想像している。


 それで十分だ。


 紬さんが新茶を選んでいた。


 春摘みの、始まりの味。終活を考えていた人に、始まりの味を渡す。紬さんは何も言わなかったが、その選択に、彼女への敬意があった。あなたはまだ始まりの側にいます、という。


 賢一という人が、どんな人だったか、私には知る術がない。でも千夜子さんの話し方に、その人の痕跡があった。一緒に新茶を飲みに行った人の、痕跡が。


 人は、誰かを失っても、その人が好きだったものを通して、また世界とつながれる。


 新茶が美味しければ、賢一さんのことを思い出す。でもその記憶は、悲しいだけじゃない。美味しかった、という記憶も、一緒にある。


 萌黄色の本が、今夜の千夜子さんに言う。


 あなたの庭には、まだ花が咲いている。あなたの手には、まだ水をやる力がある。あなたの胸には、まだ誰かに食べてもらいたいという気持ちがある——と。


 終わりは、まだ来ていない。


 今日が、また明日につながる。


 それで、十分だ。


     * * *


## ✦ 第一章 完 ✦


     * * *


この店は、今日も開いている。

本は、地下に眠っている。

次に扉を開けるのは、誰だろう。


     * * *

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