第3章 かつての妹弟子と、初めての嫉妬
第31話 ドアを蹴破る女
七月に入った。
前期試験の期間が近づいている。鈴音と「ごはんの後に勉強する」というのが習慣に加わり、ちゃぶ台の上には食器と教科書が交互に並ぶようになった。
鈴音は意外と記憶力がいいらしい。一緒に勉強していて気づいたが、ノートは取らないのに、一度読んだ文章はほぼ暗記している。「講義中も居眠りしているように見えますが、実は全部聞いています」と本人が自慢げに言っていた。
俺はといえば、出席点でギリギリ生き延びている科目が三つほどある。
「……みなとさん、このマクロ経済の部分。……IS-LM分析は、利子率と国民所得の均衡を——」
「ちょっと待って。まだインフレのところ」
「……それは三ページ前です」
容赦がない。
そんなテスト前の日常が続いていた六月最後の土曜日のことだった。
◇
午前十一時。鈴音はまだ来ていない。土曜日の午前中は一人の時間だ。
昼飯の仕込みをしようと冷蔵庫を開けたとき——
ドアがドン、と叩かれた。
ノックではない。拳が、ドアを殴っている。
「湊先輩ーーーーーっ!! いるんでしょ!! 開けてください!! いるのはわかってます!!」
女の声。高くて張りがあって、遠慮という概念を搭載していない声。
——この声。
知っている。知りたくなかった。
ドアを開けた。
小柄な女が立っていた。ショートボブの黒髪。日焼けした肌。動きやすそうなTシャツにジーンズ。スニーカー。背中にはリュック。手にはスーパーの袋を三つ。
満面の笑顔。
「湊先輩! お久しぶりです! 柚葉です! 和泉柚葉! 覚えてますよね!?」
「……覚えてるよ。忘れたくても忘れられない」
「ひっどーい! でもそういうところ変わってなくて嬉しいです!」
和泉柚葉。十九歳。俺の実家——老舗料亭「結城」の見習い板前。妹弟子。
なぜ——ここにいる。
「柚葉。なぜここに」
「大将から聞きました。湊先輩のアパートの住所」
親父ーーーーーっ。何で教えた。
「あ、先輩。台所借ります。お昼作りますから」
「は? いや待——」
もう靴を脱いでいた。スーパーの袋を三つ抱えて、ずかずかと上がり込んでくる。
「……ボロいアパートですね。壁薄そう。でも台所は……あ、意外と道具揃ってる。包丁は三本? いい砥石使ってますね。出汁昆布の在庫も申し分ない」
俺の台所を二秒でスキャンした。板前の目だ。厨房を見ればその料理人の力量がわかる——親父の教えを忠実に再現している。
「おい。柚葉」
「はい?」
「なぜ来た。理由を言え」
柚葉はスーパーの袋をキッチンのシンクの横に置いた。振り返って、俺をまっすぐ見た。
猪突猛進。この女を形容するなら、それしかない。
「迎えに来ました。湊先輩を、料亭に連れ戻しに来ました」
「——断る」
「即答!? 早い!!」
「この話は何回もしただろ。俺は料亭を継がない。大学を卒業して、普通に就職する」
「それは認められません。湊先輩の腕は——」
「柚葉」
「はい」
「昼飯、食うか食わないかだけ答えろ」
沈黙。二秒。
「食います!」
満面の笑みが戻った。切り替えが早い。それも——変わっていなかった。
◇
柚葉が台所を占領した。
袋の中からは、鯛、穴子、帆立、京野菜の数々——スーパーの袋だと思ったが、中身はどう見てもデパ地下の高級食材だった。
「先輩、包丁借ります」
「勝手に使え」
柚葉は俺の包丁を手に取って——三秒で、刃先を確認した。親指の腹を軽く触れさせて、研ぎの具合を読んでいる。
「……いい研ぎですね。先輩がやったんですか」
「週に一回」
「週一で、この刃。やっぱり先輩は——」
「料理の話は後にしろ。作るなら作れ」
柚葉は頷いて、仕事に入った。
速い。
鯛の三枚おろしが三十秒で終わった。骨に身が残っていない。中骨を抜く手つきが流れるように美しい。穴子を開いて、目打ちを使わずに背骨を外す。技術がある。十九歳で、この手際。
京野菜は水に晒しながら飾り切り。桂剥きではなく、薄造りの刺身用に薄く引いている。柚葉は和食の板前だ。俺と同じ修行を受けた人間。
料理が出来上がるまで十五分。
テーブルに並んだのは——鯛の薄造り、穴子の白焼き、帆立の刺身と京野菜のあしらい。
料亭の昼懐石と呼んで差し支えない品が、六畳間のちゃぶ台の上に現れた。
「どうぞ! 先輩の口に合うかわかんないですけど」
謙遜するほど下手じゃない。見ればわかる。
鯛の薄造りを一切れ、箸で取って口に入れた。
——うまい。
身のしめ方が完璧だ。昆布締めにする前に軽く塩を振っている。鯛の甘みが、塩と昆布の旨味に橋渡しされて、舌の上で広がる。
「どうですか」
「上手くなったな。昆布締めの塩加減が安定してる」
「本当ですか!? うれしい!!」
柚葉が飛び跳ねた。文字通り、跳ねた。地面から浮いた。
——この女、本当に変わらないな。
◇
食事が終わって、洗い物をしていた時だった。
鍵の回る音がした。
合鍵だ。
ドアが開いた。
「……おじゃまします」
鈴音の声。いつもの声。いつもの——
鈴音が、台所を見た。
俺の横に立っている柚葉を見た。
テーブルの上の——自分の知らない料理の残骸を見た。
空気が、凍った。
鈴音。柚葉。俺。三人が、六畳間の中で石のように固まった。
先に動いたのは柚葉だった。
「あ、お客さんですか? 湊先輩の友達?」
先輩。
鈴音の瞳孔が、微かに収縮した。「先輩」という呼び方が引っかかったのだろう。一年以上先輩——つまり、俺を「先輩」と呼ぶ間柄。
「……私は」
「俺の隣に住んでる、氷室鈴音。こっちは——」
「和泉柚葉です! 湊先輩の妹弟子で——」
妹弟子。
鈴音の箸を持つ手——いや、今は何も持っていない。けれど右手の指が、無意識に握りしめられていた。
「——あ、もしかして、先輩がいつもご飯作ってあげてる人ですか?」
沈黙。
「先輩、実家から連絡もらったんです。最近、誰かにご飯を作ってるらしいって。大将が心配して——」
「柚葉。それ以上は」
「え? あ、はい」
遅い。もう言ってしまった。
鈴音は——無表情だった。いつもの、人形のような無表情。
けれどその手だけは——白くなるほど、強く握られていた。
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