第30話 二人分の食卓
六月の終わり。二ヶ月と少し。
鈴音との生活は——もう「一緒に住んでいる」と言ったほうが正確だった。
合鍵を渡してからの毎日は、以前とは質が変わった。俺が帰ると鈴音がいる。「おかえりなさい」がある。一緒に食材を洗い、一緒に料理を仕上げ、一緒に食べ、一緒に洗い物をする。
住所は別。寝る場所は別。けれどそれ以外の——食に関するすべてが、二人で一つだった。
◇
土曜日の朝。
鈴音が来る前に、台所の整理をしていた。
棚を開けて、ふと気づく。皿が増えていた。
俺が一人暮らしを始めた時に百均で揃えた最低限の食器——大皿一枚、中皿二枚、茶碗一つ、味噌汁椀一つ、湯呑み一つ——だったのが、今は全て二つずつになっている。
いつ増えたのか。
鈴音が少しずつ追加していたのだ。サラダ油を持ってきた時から始まって、タッパー、調味料、そして食器。一つずつ、一つずつ。
俺の部屋の台所が——二人分の厨房に変わっていた。
◇
九時。鍵が回る音。
「……おはようございます」
「おはよう」
鈴音がエコバッグを持っていた。中身は——卵、ねぎ、豆腐。
「……朝ごはんの材料、買ってきました」
「ありがとう。じゃあ今日は——豆腐と卵の味噌汁にしようか。ネギは薬味に」
「……はい」
二人で台所に立つ。もう狭さは気にならない。鈴音が豆腐を切る——いや。
「鈴音。豆腐、俺が切るよ」
「……自分で、やってみます」
初めてだった。鈴音が包丁を持つのを見るのは。
取り出した包丁は、俺のものだ。彼女は持ち方だけは知っていた。右手で柄を握り、左手は猫の手で上から押さえる。基本は正しい。
だが刃が入る角度が——定まらない。手元が揺れている。
俺は背後に立った。
「力を入れすぎてる。包丁は自重で落とすんだ。押さないで、引く」
「……引く」
「そう。手首を使って——」
左手を伸ばして、彼女の右手を軽く上から添えた。
鈴音の体が、一瞬硬直した。
二秒。
硬直が解けた。手のひら越しに、彼女の手の甲の温度が伝わってくる。細い指。小さな手。
「……こう、ですか」
「そう。もっとゆっくり。焦らなくていい」
包丁が豆腐の表面に触れる。引く。白い豆腐が、少し不揃いに切り分けられた。
完璧ではない。むしろ相当不格好だ。だがこれでいい。鈴音が自分の手で切った豆腐だ。
「上手いよ」
「……嘘です。ガタガタです」
「最初はみんなそうだ。俺もガタガタだった」
「……みなとさんが?」
「五歳の時にな。親父に包丁持たされて、大根の輪切りで三時間特訓させられた」
口が滑った。
五歳で包丁。三時間の特訓。それは——「ちょっとの手伝い」では済まない。
鈴音が振り返った。顔が近い。三十センチもない距離に、彼女の目がある。
「……五歳で、三時間」
「……まあ、うちは、ちょっと厳しかったから」
「……ちょっと」
まただ。鈴音がそっと境界線に触れてくる。踏み込まず、しかし——確認する。
俺は手を離した。あの手の甲の温度から離れた。二歩下がって、味噌の準備に移る。
鈴音は何も言わなかった。ただ、切り終わった豆腐を味噌汁の鍋にそっと落とした。
不揃いな豆腐が、出汁の中に沈んでいく。
◇
朝食。豆腐と卵の味噌汁。焼き鮭。だし巻き卵。白飯。ぬか漬け。
並んだ品数に——鈴音が目を見開いた。
「……朝ごはんに、これだけ」
「やりすぎたか」
「……いいえ。……すごい」
二人で食べた。鈴音が切った不揃いの豆腐が入った味噌汁を、俺も飲んだ。
美味い。出汁は俺が引いた。味噌は俺が溶いた。だが——豆腐だけは、鈴音が切った。
一人で作ったものとは、違う味がする。
「……みなとさん」
「ん」
「……この味噌汁の豆腐、不格好ですよね」
「うん」
「……でも」
「でも?」
「……出汁が美味しいと、豆腐の形は……あまり、気にならないですね」
そう言って——味噌汁を、もう一口啜った。
◇
午後。鈴音は文庫本を読んでいた。俺は夕飯の仕込みをしていた。
ふと窓の外を見た。雨が上がっていた。六月にしては珍しく、雲間から光が差している。
「鈴音」
「……はい」
「散歩、行かないか」
「……散歩」
「食後の運動。近所の公園まで」
鈴音は文庫本を膝の上に置いて——立ち上がった。何の躊躇もなく。
二人で外に出た。アパートの階段を下りて、路地を歩く。水溜りが残っていて、鈴音がそれを避けて歩く。小さな歩幅で。
公園のベンチに座った。紫陽花が咲いていた。青と紫の、雨に濡れた花弁。
「……綺麗、ですね」
「うん」
二人で紫陽花を見ていた。特に何も話さなかった。ベンチの上で、手と手の間は——十センチくらいだった。
その十センチを縮めるかどうかは——まだ、わからない。
わからないまま、紫陽花の色を眺めていた。
◇
帰り道。
「……みなとさん」
「ん」
「……来月の前期試験期間、どうしますか」
「勉強しないとやばいな」
「……ごはんのあとも、ここで一緒に勉強して……いいですか」
「いいな。やろう」
「……はい」
アパートの階段を上がる。鈴音が合鍵で俺の部屋のドアを開けた。
「……おかえりなさい」
「……いや、一緒に出て一緒に帰ってきただろ」
「……それでも。おかえりなさい」
入った。
二人分の食器が並ぶ台所。二人分の箸が置かれたちゃぶ台。
二人分の、食卓。
この日常が——この二ヶ月の、全てだった。
隣人が飯を食いに来るだけだった関係が、いつの間にか——「二人分の暮らし」に変わっている。恋人ではない。告白もしていない。何も言っていない。
でも——合鍵があって、おかえりがあって、味噌汁の豆腐を一緒に切っている。
それを何と呼ぶのかは——まだ、名前をつけないでおく。
名前をつけた瞬間、壊れるものがある気がするから。
今はただ——二人分の飯を作る。それだけでいい。
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