第32話 宣戦布告

鈴音はいつもの定位置に座った。何事もなかったように。


 柚葉はテーブルの反対側に座った。あぐらで。板前のくせに正座じゃないのかと思ったが、柚葉は仕事以外では徹底して砕けている。


 三人で、ちゃぶ台を囲んでいる。


 異様な光景だった。


「柚葉、今日はもう帰るのか?」


「いいえ! しばらく東京にいます。ウィークリーマンションを借りたので」


「……しばらくって」


「先輩が一緒に帰ってくれるまで」


「帰らないけど」


「じゃあしばらくいます!」


 論理が崩壊している。だが柚葉の目は笑っていない。快活な声とは裏腹に、目の奥に決意がある。本気で連れ戻すつもりだ。


 鈴音は黙っていた。俺と柚葉のやり取りを、まばたきもせずに聞いている。


 柚葉がふいに——鈴音を見た。


「氷室さん、でしたっけ。先輩のご飯、よく食べに来るんですか?」


「……はい」


「へえ。先輩の料理、どんな感じですか?」


「……」


 鈴音は三秒ほど沈黙した。それから——


「……美味しい、です」


「美味しいのは当然です。先輩の腕ですから」


 柚葉の声が、少し硬くなった。笑顔は保っているが、どこかに棘がある。


「でも氷室さん、先輩の料理がどれだけすごいか——ちゃんとわかってますか?」


「……」


「先輩の技術は、家庭料理に使うレベルのものじゃないんです。あの人は——結城の跡取りで、十二歳から本格的に板場に立って、十五歳で一番出汁を任されて、十七歳で客に出す八寸まで一人で作れるようになった天才なんです」


 ——やめろ。


「今こうしてボロアパートでハンバーグとか作ってるのは——天才が、逃げてるだけなんですよ」


「柚葉」


 低い声が出た。自分でも驚くほど低い声だった。


 柚葉が口を閉じた。しかし目は謝っていなかった。


 鈴音は——微動だにしていなかった。顔面は蒼白だ。元々白い肌が、さらに血の気を失っている。


 だが——耳は赤くなかった。怒りでも恥じらいでもない。ただ——白い。全部が白い。


 ショックを受けている。


 俺が「ちょっとの手伝い」と言い続けてきた嘘の、本当の中身を突きつけられている。


「……そう、だったんですか」


 鈴音が口を開いた。


「……老舗料亭の、跡取り」


「……ああ」


 もう誤魔化せなかった。柚葉が全部言ってしまった。


「……みなとさんは。……ずっと、隠していたんですか」


「隠していたっていうか——」


「……聞いてません。……和泉さんに聞いてます」


 鈴音の視線が——柚葉に向けられた。あの、食材を鑑定する時の目。切り裂くような眼光。


 柚葉が一瞬、息を呑んだ。


「は、はい。先輩は実家を出る時に、料理関係の仕事に就かないって宣言して——でも実力は本物です。先輩の料理は芸術です。こんなところで腐らせていいものじゃないんです」


「……芸術」


 鈴音が繰り返した。声が、低い。


「……私は、芸術だとは思ったことがありません」


 柚葉が目を瞬いた。


「……みなとさんの料理は。……ただ、あったかいんです」


 沈黙が降りた。


 柚葉はその言葉の意味を量りかねている顔をしていた。「あったかい」。料理人にとって、それは技術評価にならない。温度管理ならともかく、感覚的な「あったかさ」は——板場では何の価値もない。


 鈴音が立ち上がった。


「……おじゃましました」


「鈴音——」


「……今日は自分の部屋で食べます。……おやすみなさい」


 ドアが閉まった。鍵の音は——しなかった。隣の部屋に入る音だけが、壁越しに聞こえた。


 柚葉が俺を見ていた。


「先輩。あの人——」


「帰れ。今日は帰れ」


「……すみません。でも——」


「柚葉。お前の言い分はわかってる。でも今日は帰ってくれ」


 柚葉はリュックを背負って、玄関に立った。スニーカーを履きながら、振り返った。


「先輩。あの人は、先輩の料理を食べてるだけですよ。先輩の隣に立つべき人は——」


「明日来い。今日は無理だ」


 ドアが閉まった。


 六畳間に、一人。


 壁の向こうから——物音がしない。鈴音の部屋が、完全に静まり返っている。


 テーブルの上には、鯛の薄造りの残り皿と、鈴音が座っていた座布団。座布団の端が——少しだけ、ずれていた。


 立ち上がった時に。彼女が去った時に。ほんの少しだけ力が入って、ずれた。


 その座布団を手で直した。元の位置に戻した。


 意味のないことを、していた。

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