第6話 「失敗したな…。」
「失敗したな…。」
原因は昨夜の晩ご飯、妻が作った熱々の
神田はテレビのスポーツニュースによそ見をしながら、不覚にも素手で土鍋の縁に触れてしまい、右手の人差し指と中指の間を盛大にやけどしてしまったのだ。
「ちゃんと見て触ればよかったじゃないの。」
妻からの至極もっともな正論に、神田は小さくなって頷くしかなかった。
今朝起きると、二本の指はじんじんと赤く腫れ上がり、絆創膏を二枚重ねで貼る羽目になっていた。いつもの百均の軍手をはめようとしたが、患部が圧迫されて激痛が走る。
(今日だけは、右手の軍手は諦めるしかないな……。)
しかし、右手だけ素手というのもなんだか格好がつかない。
それに左手だけ軍手をつけていても、ひょっとしたら右手で満員電車の吊り革を触ることになるかもしれない。
やはり、感染症対策(吊り革に直接触りたくない)としては片手だけでは意味が薄いだろう。
神田は玄関先で三十秒ほど悩み、
「よし、今日は両手とも外そう。」
と決めた。
怪我をしている日くらい、仕方がない。
そう思いながら、神田は晴れやかな素手で家を出た。
◇◇◇◇◇◇◇◇
午前七時五十二分。
通勤電車の三番ドアから倉田誠一が乗り込んだ瞬間、彼の「自称・スパイの第六感」が猛烈な違和感を察知した。
いや、「察知した」どころではない。
斜め向かいのドア際を見た瞬間、倉田の全身に激しい電流が走った。
ホワイトグローブが——素手だった。
しかも、両手とも。
トレードマークであるはずの白い軍手が、どこにも見当たらないのだ。
(……な、なんだと……!?)
倉田の脳内にあらゆるスパイの知識(すべてスパイ映画で得た情報)が、流れて、その間、コンマ一秒だけ倉田の動きが完全に停止した。
(なんだ、これは。一体どういうことだ……!?)
この数年、倉田が「ホワイトグローブ」と名付けて観察してきたこの男が、軍手をしていなかった日は一度もなかった。
倉田に出す合図のため(実際は神田は定期入れを取り出すため)右手だけ外すことはあっても、両手とも素手など——倉田のスパイキャリアの中で前代未聞の事態だった。
倉田は文庫本を取り出し、周囲の一般客(ノン・オフィシャル・カバー)に怪しまれぬよう、懸命に表情を制御した。
(落ち着け。焦るな。彼ほどのプロが、何の意味もなく『軍手』を解除するはずがない。これには必ず、重大な暗号的意味があるはずだ。)
倉田の脳内で、愛読しているスパイ小説から引用された解釈の候補が、猛スピードで生成され始めた。
【解釈その一:「武装解除」のサイン】
軍手は外部の脅威からの防護を意味する。それを両手とも外したということは——「すべての防衛を解いた、完全な丸腰状態」を示しているのではないか。つまり「私は今、敵に追い詰められて無防備だ。至急の援助を必要としている」という、極めて深刻なSOSコードか……!?
(しかし、ホワイトグローブの現在の表情は——。)
倉田はさりげなく視線を向けた。
神田は小さく折りたたんだ朝刊を広げ、ごく平穏な顔でスポーツ欄を眺めている。
昨日のプロ野球で応援しているチームが勝ったらしく、いつもより機嫌が良さそうだ。
(……表情に焦りはない。敵を欺くための高度な演技か。ならば別の解釈か?)
【解釈その二:「完全任務完了」のサイン】
すべての防具を脱ぎ捨て、素の状態に戻る。それは長い地下潜入戦が終わり、ついに平和が訪れたことを示す——いわば「勝利宣言」ではないか?
(しかし、まだ私の元に組織からの撤退命令はおろか何の命令も届いていない。敵は依然として動いているはずだ。)
倉田は首を振り、この解釈を保留した。
そして浮上した【解釈その三】。
これこそが、倉田にとって最も恐ろしい可能性だった。
【解釈その三:「二重スパイへの転向」のサイン】
白い軍手は「こちら側(正義の組織)」の証だった。
それを外した。
両手とも。
これは「私はもうあなたたちの仲間ではない。闇の組織に寝返った」という、取り消しのきかない裏切りの宣言ではないのか……!?
(バカな。そんなはずは……あのホワイトグローブが……!)
しかし倉田は、この可能性を完全に排除することができなかった。
この数年、毎朝同じ車両で無言の信頼関係を築いてきた(と倉田が思っている)男だ。
しかし、彼が観てきた映画の世界では、どれほど優秀なスパイが、どれほど親密な仲間に裏切られてきたことか。
(ホワイトグローブよ、お前は……!)
近くで若きサラリーマンが人生最大のシリアスなサスペンスに身を震わせているなどとは夢にも思わず、神田浩二は朝刊を読みながら、「右手の絆創膏がずれていないか」を地味に確認していた。
指先がまだじんじんする。昨夜の鍋での不覚が恨めしい。
本当に、それだけのことだった。
電車が次の駅に着いた。
倉田は固榻を飲んで、ホワイトグローブの動きを注視した。
いつもなら、この後、駅を通過したタイミングで右の軍手を外すルーティンを行う。
しかし今日は最初から素手だ。もう外すべき軍手がない。
では代わりに何をするのか。それこそがサインの核心だ。
神田は朝刊をパッとたたみ——左のズボンのポケットに手を入れた。
(……このタイミングで、左ポケット……だと!?)
倉田の目が細くなった。
いつもは右ポケットから定期券を出すホワイトグローブが、今日に限って一駅前のタイミングで左ポケットを使った。
これはつまり——「通常ルートの閉鎖」を意味するに違いない。
「右が使えない、右に罠がある、左へ迂回せよ。」
という緊急の迂回サイン(バイパス・コード)だ。
しかも、一駅早いということは速やかにという事か?
神田の手がポケットからICカードを取り出した。
彼はそのまま、ドアの方へと移動していく。
(——どういうことだ?乗り換えか! いつもはこの駅では降りないのに!)
倉田は脳内で愕然とした。
軍手なし、左ポケットからの定期券、かつ一駅早いルート変更。
これはもはや——組織の存亡に関わる重大事態だ。
しかし、神田浩二が今日この駅で降りる理由は、単純だった。
昨日、この駅の近くにある得意先に、営業用の資料をうっかり忘れ物してきたのだ。
今朝、出社前に取りに寄る必要があった。
それだけのことだった。
ドアが開き、神田は朝刊を脇に抱えてホームへ降り立った。
右手の絆創膏がまたずれてきた気がして、気になりながら歩いた。
倉田は、ホワイトグローブがホームの闇(普通の通勤ラッシュ)へ消えていくのを、ドアの隙間から見送った。
電車のドアが閉まり、車内に静寂が戻る。
(……行ってしまった。)
倉田は文庫本を胸に抱えたまま、しばらく窓の外を流れる景色を見ていた。思考が嵐のように荒れ狂っている。
(何が起きているんだ。ホワイトグローブは一体、どこへ向かったのか。SOSか、勝利宣言か、裏切りか——それとも、私のスパイ技術ではまだ読めていない、まったく別の第四の意味があるのか……?)
当然、答えは出なかった。
倉田は文庫本のページをめくった。内容は一行も頭に入ってこなかった。
午前九時ちょうど。
あれからはホワイトグローブ以外は普段どおりであり、何も起きなかった。
倉田がホワイトグローブの動きに思考しながら、深刻な顔のままデスクについた瞬間、隣の席の高瀬あかりが声をかけてきた。
「おはようございます。……って、倉田さん、今日なんか顔色悪くないですか?」
「そうですか?私はいつも通りですが。」
口にはそう出すが、内心はかなり慌てている。
「いや、なんかあったでしょ?すごい険しい顔してますよ。」
「……少し、組織の行く末について考えていることがあって」
「そしき……?」
高瀬がじっと倉田の顔を見た。
その目は、からかい半分ではなく、本当に彼の体調を心配しているような優しい目だった。
「大丈夫ですか?会社のことを考えているんですか? 無理しないでくださいね?」
「大丈夫です。」
倉田はそう答えて、パソコンを立ち上げた。
(大丈夫かどうか、自分でもわからない。ホワイトグローブのあのサインの意味を、まだ解読できていないのだから……。)
しかし、仕事をしなければならない。
一般市民としてのカバー(擬態)を維持しなければならないのだ。倉田はキーボードに指を置き、真剣な顔で起動したExcelの画面を見つめた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
午後。
昼休みが終わり、倉田が外回りからデスクに戻ると、高瀬が缶コーヒーをひとつ、倉田の机の端にそっと置いた。
「なんか午前中、元気なさそうだったので。」
高瀬はそれだけ言って、照れ隠しのように素早く自分の仕事に戻った。
倉田は缶コーヒーを見た。
(……これは?)
差し入れ。
気遣い。
倉田の脳内でスパイ的な解釈プログラム(ハニートラップの警戒)が動き始めかけた——が、その瞬間に、止めた。
今日だけは、これを「裏のあるサイン」として読み解く気になれなかった。理由は、自分でもよくわからなかった。
倉田は缶コーヒーを手に取り、プルタブを開け、一口飲んだ。
思ったより、温かかった。
◇◇◇◇◇◇◇
その夜。
自宅の部屋で、鍵付きのノート(市販の5年日記)を前にして、倉田は長い時間、ペンを走らせることができなかった。
結局、映画の主人公になった気分でこう書いた。
【本日の諜報記録】
ホワイトグローブ: 本日、両手とも軍手なし。前代未聞の事態。解釈を三通り検討したが、いずれも確信に至らず。左ポケットからの定期券取り出し、かつ通常と異なる駅で下車。右ルートの封鎖による緊急迂回の可能性を示唆するも——確証なし。本日の記録は「保留」とする。
高瀬あかり: 缶コーヒーを差し入れてきた。温かかった。……解釈は、保留。
倉田は満足げにノートを閉じた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
その夜、島津物産の普通のサラリーマン、神田浩二は、自宅のソファで缶ビールを飲みながら、妻に向かって言った。
「忘れ物、無事に回収できたよ。朝は焦ったなぁ。」
「良かったじゃない。で、指の調子はどう?」
「まだちょっとじんじんするよ。」
「だから言ったじゃない、ちゃんと気をつけてねって。」
「……そうだな。」
神田は右手の絆創膏をそっと押さえながら、缶ビールをもうひとくち飲んだ。
(明日はやけどが治って、またいつもの軍手をはめられるといいな……。)
自分の「ただのやけど」が、同じ車両の若きサラリーマンに「世界崩壊レベルの国家機密サスペンス」を与えているとは、この善良な男は今夜も夢にも思いもしないのであった。
長年、スパイとして潜入していた、ようやく仲間達が積極的に連絡をとってきた〜ある妄想スパイの日常〜 鍛冶屋 優雨 @sasuke008
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