第12章 透明性の死角
事件発覚から四日目、NEXUS本社では、外部通報窓口と透明性レポートの処理経路について、改めて確認が進められていた。
透明性という言葉は、明るすぎる場所に似ている。強い光を当てれば、すべてが見えるような気がする。だが実際には、光が強いほど影も濃くなる。
灰原誠司は、NEXUS本社の危機対応会議室で、壁面モニターに映し出された透明性レポートの概要を見ていた。
NEXUS searchは社外向けに大きな約束をした。検索結果の品質評価を定期的に開示する。AI要約の修正履歴を集計する。不当な削除申請への対応件数を公表する。外部通報窓口を整備し、重大な懸念は内部監査にも共有する。
どれも、間違ってはいない。それでも有馬千尋は死んだ。
モニターの前には、黒瀬が立っていた。いつものように隙のないスーツ姿だったが、目元には疲れが濃い。公共政策部長として、彼は今朝からずっと社内外の言葉を整え続けている。
延期。確認中。警察に協力。事実関係を精査。透明性の確保。
灰原には、そのどれもが薄い膜のように見えた。
「現在の透明性レポートで対象にしているのは、検索結果の大規模変動、AI要約の重大誤表示、広告審査の異常、削除申請への対応状況、それから公共性の高いクエリに関する品質問題です」
黒瀬は、声を抑えて説明した。
「サジェストは?」
灰原が聞く。黒瀬は、ほんのわずかに間を置いた。
「対象に入る場合もあります。ただし、個人名サジェストの短期的変動は、原則として通常の品質管理プロセスで扱います。透明性レポートに載せるのは、一定以上の影響範囲が確認された場合です」
「一定以上」
灰原はその言葉を繰り返した。
「便利な線引きだな」
黒瀬は反論しなかった。
「線引きがなければ、レポートは成立しません」
「線の外側に人が落ちる」
「その可能性はあります」
黒瀬は認めた。認めたからといって、何かが救われるわけではない。それでも、認めないよりはましだった。
会議室には、速水蓮と霧島直哉もいた。三枝徹は湾岸署でホテル映像と非常扉ログの照合を進めている。必要な情報は随時共有されることになっていた。霧島は、会議室の端に座っていた。いつものように説明を引き取ろうとはしない。議論を整えようともしない。ただ、手元の資料を見ている。
有馬の通報に自分が付けた分類を。
灰原は、その紙へ視線を落とした。
個人名サジェスト:一時的変動
外部要因:SNS反応
透明性レポート対象外
緊急度:中
この四行は、すでに何度も見た。だが見るたびに、意味が変わる。最初は、ただの社内分類だった。次に、霧島の判断ミスに見えた。今は、制度そのものの死角に見える。
「黒瀬さん」
速水が口を開いた。
「有馬さんの通報が透明性レポート対象外になった理由は、個人名サジェストの短期変動だったからですか」
「それが一つです」
「もう一つは?」
黒瀬はモニターを操作した。外部通報窓口の処理フローが表示される。
検索結果、AI要約、広告、サジェスト、削除申請。それぞれに初期分類があり、重大度の判定があり、担当部署へ割り振られる。
画面は見やすい。見やすいものほど、灰原は信用しない。
「サジェスト関連の通報は、通報者本人の被害申告として扱われることが多いです。名誉毀損、誤解を招く候補語、不快表現、古い情報の残存。もちろん重要ですが、すべてを公開レポートの対象にすることはできません」
「有馬さんは、本人の被害申告だけをしていたわけじゃありません」
速水の声は硬かった。
「自分の名前を使って、サジェスト汚染の再現性を見ていた。瀬名透の件と比較していた。これは個人の苦情じゃない」
「今なら、そう見えます」
黒瀬は言った。
「ですが、受信時点では、そう扱われなかった」
速水は何か言い返しかけた。
霧島が先に口を開いた。
「僕が、そう扱いました」
会議室が静かになった。霧島は、ゆっくり顔を上げた。
「黒瀬さんの説明は正しいです。制度としては、そうなっています。個人名サジェストの短期変動は通常プロセスに入る。SNS反応が絡む場合は、一時的変動として扱う。それで、僕は有馬さんの通報を『緊急度:中』にしました」
速水は霧島を見た。霧島は続けた。
「でも、制度のせいだけにはできません。違和感はありました。あのレポートは普通の苦情じゃなかった。なのに僕は、分類できるところだけを見て、分類しやすい箱に入れた」
その声は、荒れていない。だから、かえって痛かった。灰原は何も言わなかった。霧島は、机の上の紙を指で押さえた。
「僕は、あの通報を処理した」
一度、言葉が止まった。
「処理した、という言葉で片づけた。でも、有馬さんは処理されたかったわけじゃない。見てほしかったんだと思います」
速水は目を伏せた。黒瀬も、言葉を選べずにいるようだった。
灰原は、霧島の顔を見た。
人は、後悔するときにようやく正しい言葉を見つけることがある。だが、正しい言葉は死者には届かない。それでも、生きている者が次に同じ間違いをしないためには、その言葉が必要になる。
「霧島さん」
灰原が言った。
「あなたの判断だけで、有馬さんが死んだわけじゃない」
霧島は顔を上げた。
灰原は続けた。
「だが、あなたの判断は使われた」
霧島の表情が、わずかに固まった。
「使われた?」
「有馬さんの通報がどの箱に入るか。どの部署で止まり、どの程度の速度で見られるか。それを読む人間がいた」
速水が反応した。
「三科さんですか」
灰原はすぐには答えなかった。
「少なくとも、検索サジェストの仕組みを知っている人間なら、通報がどう処理されるかを予測できる」
黒瀬が眉を寄せた。
「外部の人間が、そこまで読めるでしょうか」
「事件後の改善策は、公表されています」
速水が言った。
「全部ではありませんが、外部通報窓口の強化、透明性レポートの対象範囲、サジェストに関する対応方針は、ある程度公開されています。業界の人間なら、どこが対象になり、どこが対象外になりやすいかは推測できます」
霧島が低く言った。
「三科さんなら、読める」
速水は否定しなかった。三科悠介は、検索行動を読む男だ。人が何を疑うかを読む。企業が何を嫌がるかを読む。通報がどこで止まり、どの言葉で小さくなるかも、読めたかもしれない。
灰原は、会議室のモニターに映る処理フローを見た。
制度は、悪ではない。むしろ、制度は善意で作られる。だが善意で作られた仕組みにも、隙間はある。その隙間を読む人間がいる。
「ノイズ報告はどうなっている」
灰原が聞いた。速水がすぐに別画面を開いた。有馬の通報が届いた時間帯の前後、外部通報窓口には異常に多くの報告が流れ込んでいた。
内容はばらばらに見える。サジェストの不快表現、検索結果の誤表示、古い情報の削除依頼、広告への苦情。だが、よく見ると同じ構文や似た言い回しがいくつも混じっている。
人間が一件ずつ読むと、ただの雑多な通報に見える。
システムが見ると、通常より少し多い程度に見える。
だが時刻を細かく揃えると、有馬の通報の周辺だけが妙に濁っていた。
「有馬さんの報告が入る前後に、意味の薄い報告が集中しています」
速水は言った。
「本物の通報を隠すためか」
黒瀬が聞く。
「断定はできません。ただ、効果としてはそうなっています。担当者が緊急性を判断するとき、周囲に似たような報告が大量にあると、一件ごとの異常度は下がって見える」
霧島は目を閉じた。
「僕は、それを見た」
「見た?」
速水が聞く。
「有馬さんの通報の前後に、個人名サジェストの報告が多かった。だから、有馬さんの件もその一つとして見た」
「それ自体が、ノイズだった可能性がある」
霧島は頷いた。
「そうだね」
その声には、もう言い訳がなかった。
黒瀬はモニターを見つめたまま言った。
「つまり、犯人は有馬さんの名前に悪意ある候補語を出しただけではない。通報が大きく扱われないように、周囲も汚した」
「そう見るべきです」
速水は答えた。
灰原は、椅子の背に少しだけ体重を預けた。
見えてきた。有馬千尋の名前に、死ぬ理由に見える言葉を置く。SNSにそれを拾わせる。通報窓口にはノイズを流し、彼女の警告を通常処理に沈める。ホテルの部屋には、彼女自身の名前の検索画面を残す。すべてが同じ方向を向いている。
有馬千尋の死を、自殺として理解しやすくする方向へ。
「透明性レポートは、何を見せるためのものですか」
灰原が聞いた。
黒瀬は答えに詰まった。
「検索品質に関する重大な問題を、社会に説明するためです」
「では、何を見せない」
「……対象外のものです」
「その対象外に、有馬さんは落ちた」
黒瀬は唇を結んだ。
「はい」
灰原はモニターを見た。
透明性の死角。
光を当てる場所を決めれば、光の当たらない場所も決まる。三科がそこを読んだのなら、彼はNEXUSの欠陥を突いたのではない。NEXUSが整えた言葉の境界を、そのまま利用したのだ。
三枝からの連絡は、会議の終盤に入った。灰原が端末を取ると、三枝の声が聞こえた。
「ホテルのラウンジ映像を確認しました」
「三科はいたか」
「十九時半ごろ、有馬さんと会っています。これは本人の供述どおりです。二十時過ぎに有馬さんが席を立つ。そのあと、三科はしばらくラウンジにいます」
「二十二時以降は」
「映っていません」
会議室の空気が変わった。三枝は続けた。
「本人は、ラウンジの隅でメールを処理していたと話していました。しかし二十二時台のラウンジ映像では、三科らしき人物は確認できていません」
「十八階のWi-Fiは」
「速報段階ですが、三科の端末と思われる接続が、二十二時台に十八階東側のアクセスポイントで拾われています。位置精度は低い。ですが、ラウンジにいたという供述とは合いません」
灰原は、速水と霧島を見た。速水の表情が引き締まる。霧島は、息を呑んだように固まっていた。
「非常扉ログは?」
「二十二時十九分ごろに十八階東端。下層側の非常扉にも、その後の開閉記録があります。現在、時刻を照合中です」
「三科が非常階段を使った可能性は」
「可能性としては出てきました」
三枝は、あくまで慎重だった。
「ただ、映像はまだ不鮮明です。Wi-Fiだけでは位置を断定できません。供述と矛盾する材料が出た、という段階です」
「十分だ」
「十分ではありません」
三枝は即座に返した。
「ですが、次に聞くべきことは決まりました」
「三科が二十二時台にどこにいたか」
「はい」
通話が切れた。灰原は端末を机に置いた。
黒瀬が言った。
「三科さんが、ホテルの非常階段に?」
「まだ可能性です」
速水が答えた。その声は、わずかに震えていた。恐怖ではない。点が線になり始めるときの緊張だった。
灰原は、霧島を見た。
「三科は、有馬さんの通報処理を予測できた。彼女の実験も知っていた。瀬名透の消えた候補語も知っていた。ホテルでは、二十二時台の所在に空白がある」
霧島は黙っていた。
灰原は続けた。
「それでも、まだ犯人ではない」
霧島が顔を上げる。
「なぜですか」
「証拠が足りない」
灰原は言った。
「三科が有馬さんを非常階段へ誘導した理由が必要だ。三科がそこにいたことを、もっと固める必要がある。そして、彼が何を隠したかったのかを見なければならない」
速水が低く言った。
「東湾トンネル」
灰原は頷いた。
「そこへ戻る」
黒瀬が、静かに息を吐いた。
「NEXUS内部の犯行ではない、ということですか」
灰原は黒瀬を見た。
「そう思いたいのか」
黒瀬は、すぐには答えなかった。
「正直に言えば、そうです」
「だろうな」
「でも、NEXUSが無関係とは思えません」
黒瀬の声は硬かった。
「彼女の通報を沈めたのは、こちらの仕組みです。候補語が出た場所も、検索窓です。外部の人間が仕掛けたとしても、舞台はNEXUSです」
灰原は、その言葉を少し意外に思った。黒瀬は会社を守る人間だ。だが、会社を守ることと、会社の責任を消すことは同じではない。少なくとも彼は、その違いを理解している。
「その認識は持っておけ」
灰原は言った。
「発表文にも?」
「発表文には、どうせ入らない」
黒瀬は苦い顔をした。
「入れられる範囲で入れます」
「なら少しはましだ」
霧島は、会議が終わっても席を立たなかった。速水も残っていた。灰原は会議室を出ようとして、足を止めた。霧島が、モニターに映った有馬の通報処理画面を見ている。
個人名サジェスト。
一時的変動。
SNS反応。
対象外。
緊急度、中。
霧島は、独り言のように言った。
「僕は、これを見やすいと思っていました」
速水は何も言わない。
霧島は続けた。
「問題を分類して、担当を決めて、優先度をつける。そうしないと回らない。ずっとそう思っていた。今も、それ自体は間違っていないと思う」
「間違っていない」
速水が言った。
「うん」
霧島は頷いた。
「でも、分類した瞬間に、見なくなるものがある」
灰原は、ドアのそばで聞いていた。
霧島は画面を閉じなかった。
「有馬さんのレポートには、見てほしいものが書いてあった。僕は、分類に必要なところだけ見て、残りを後回しにした。後回しにできると思った」
「誰でもやる」
速水が言った。
霧島は首を横に振った。
「それを慰めにしたら、またやる」
その言葉に、速水は黙った。霧島は、ゆっくり椅子から立ち上がった。
「検索安全性レビュー室に異動希望を出す」
速水が驚いたように顔を上げた。
「今?」
「今じゃないと、ただの反省で終わる」
「逃げるんじゃないよな」
「逃げないためだよ」
霧島は、少しだけ笑った。
「次は、分類する前に見る。嫌になるまで見る」
速水は、しばらく霧島を見ていた。
「嫌になるぞ」
「もうなってる」
霧島の笑みは、すぐに消えた。
「でも、たぶん足りない」
灰原は、二人の会話を最後まで聞かなかった。
静かに会議室を出る。廊下には、夜のNEXUS本社の光が伸びていた。ガラスの向こうに、東京湾の暗い水面が見える。
透明性。
その言葉は、今日も社内のどこかで使われ続けている。だが透明であることは、すべてが見えていることではない。どこに光を当て、どこを影に残すかを決めることでもある。
有馬千尋は、その影を見ていた。
瀬名透の名前から消えた入口を見ていた。
そして、自分の名前が同じ仕組みに飲まれていくのを見ていた。
灰原の端末が震えた。三枝からの短いメッセージだった。
「三科悠介に再聴取をかけます。大槻航平の名前を出します。」
灰原は画面を見たまま、しばらく動かなかった。
大槻航平。瀬名透の元同僚。有馬に入口を渡した男。三科には何も渡していないと言った男。もし三科が、有馬を非常階段へ誘導するために大槻の名前を使っていたなら。そこに、初めて明確な嘘が生まれる。
灰原は端末を閉じた。
透明性の死角は、見えた。
次は、その死角を読んだ男を見る番だった。
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