第11章 裏側の画面
事件発覚から三日目の午後、有馬千尋のノートPCについて、警察の鑑識から一次解析の報告が上がった。
灰原誠司は、湾岸署の一室でその報告を待っていた。NEXUS本社ではなく、警察署。その場所にいるだけで、空気が変わる。
NEXUSの会議室には、いつも言葉が多すぎる。説明責任、透明性、ユーザー信頼、再発防止。どの言葉も正しく、どの言葉も少しずつ現実から距離を取っている。
警察署には、別の種類の言葉がある。
検視。鑑識。供述。保全。照合。任意。
どれも硬い。だが、その硬さは現場から逃げるためではなく、現場を崩さないためにある。
三枝徹は、紙の資料を持って部屋に入ってきた。
「PCの一次解析が出ました」
灰原は顔を上げた。
「早いな」
「灰原さんが急がせたんでしょう」
「俺にそんな力はない」
「あるように見せるのはうまい」
三枝はそう言って、資料を机に置いた。
部屋には速水蓮もいた。警察が押さえたPC操作履歴と、NEXUS側に残る検索ログを照合するため、技術説明役として呼ばれていた。警察の解析だけでは、検索画面の意味までは読み切れない。だが、NEXUS側のログだけでも、PCに残された操作の意味は確定できない。
だから、両方を突き合わせる必要があった。
速水は警察署の空気に慣れていないのか、椅子に浅く座っている。NEXUS本社にいるときより、少しだけ肩に力が入っていた。
「警察署は苦手か」
灰原が聞くと、速水は小さく首を振った。
「苦手というより、ログが少ない場所なので」
三枝が眉を上げる。
「人間のログなら、たくさんありますよ」
「それが一番扱いづらいです」
「正直ですね」
三枝はそう言ってから、資料を開いた。
「有馬さんのPCですが、事件当夜の操作履歴に不自然な点があります」
速水の目が変わった。
「前面に出ていた検索画面の操作時刻ですか」
「ええ」
三枝は資料の一部を指で押さえた。
「ホテルの客室で発見されたとき、PCの画面には有馬さん自身の名前を検索したページが表示されていました。問題は、その画面が前面に出された時刻です」
「いつですか」
「二十二時十五分前後」
速水は息を止めた。灰原も黙った。
二十二時五分。
有馬は外部通報レポートに短い追記を残している。
『私は、私の名前を見ていました。』
その十分後に、客室PCの前面画面が切り替えられている。
三枝は続けた。
「もちろん、本人が操作した可能性もあります。ですが、有馬さんの直前の作業内容を見ると、前面に出ていた検索画面とは別のタブを長く見ていた形跡があります」
速水が身を乗り出した。
「瀬名透ですか」
三枝は頷いた。
「そうです」
資料には、ブラウザのタブ履歴がまとめられていた。前面に残されていたのは、有馬自身の名前の検索画面。だが、その直前まで開かれていたタブには、瀬名透に関する検索結果、保存された候補語の比較表、東湾トンネル崩落事故の資料が並んでいた。
有馬が見ていたのは、自分への中傷ではなかった。少なくとも、最後に集中していたのは、瀬名透の名前だった。
速水は、資料を見ながら言った。
「有馬さんは、自分の名前に出た悪意語を見て絶望していたんじゃない」
「そう見える」
三枝が答える。
「彼女は瀬名透の資料を見ていた。そのあと、誰かが有馬さん自身の検索画面を前面に出した」
「誰かが、とはまだ言えません」
三枝は即座に言った。
「本人が前面に出した可能性も残ります」
「残ります。でも、理由が弱い」
速水は言った。
「本当に調査中なら、瀬名透のタブを閉じる理由がありません。むしろ、保存するか、比較表を開いたままにするはずです」
灰原は、黙って資料を見ていた。ホテルの客室で見たPCの角度。入口から見えやすいように置かれた画面。死ぬ理由を並べすぎた現場。その違和感が、ようやく形を持ち始めていた。
「あの画面は、有馬さんが最後に見ていたものではない」
灰原が言った。
三枝は頷いた。
「その可能性は高くなりました」
「誰かが、見せたい画面を前に出した」
「そこも、可能性です」
三枝は慎重だった。
その慎重さは、灰原にとって苛立たしいものではない。むしろ、必要な重さだった。
警察官は、違和感をそのまま事実にはしない。灰原が拾ったものを、三枝は証拠の形へ変えようとしている。
速水は、PC解析資料の別の箇所を見ていた。
「この時刻、二十二時十五分前後にマウス操作がありますね」
「あります」
「キーボード入力は?」
「ほとんどありません。既存のタブを前面に出した可能性が高い」
「それなら、操作した人間は、検索語を新しく打ったわけじゃない。すでに開いていた画面を選んで見せた」
三枝が速水を見る。
「それは重要ですか」
「重要です」
速水は即答した。
「有馬さんの名前の検索画面は、もともと観測用に開かれていた可能性があります。だから、画面自体が存在したことは不自然じゃない。でも、それを最後に前面に出したことは別です」
灰原が続けた。
「見ていた画面ではなく、見せる画面として使われた」
速水は頷いた。
「はい」
三枝は資料を閉じず、次のページを出した。
「それと、非常扉ログとの照合です」
部屋の空気が、少し変わった。
「十八階東端の非常扉が開いたのは、二十二時十九分ごろです。誤差はありますが、PC操作の数分後になります」
「PC画面を前面に出してから、非常階段へ向かった」
灰原が言った。
「そういう流れは考えられます」
三枝は、まだ断定しない。
「ただし、誰が操作したかはPCだけではわかりません。有馬さん本人かもしれない。あるいは、部屋にいた別の人物かもしれない」
「別の人物がいた証拠は」
「まだ薄いです」
三枝は言った。
「廊下カメラには、有馬さんらしき人物が非常口方向へ向かう姿が映っています。その少し後ろに、人影らしきものもある。ただ、映像は不鮮明です。顔までは確認できない」
「三科は?」
灰原が聞いた。
「ホテル側の退館記録では、三科悠介は二十三時過ぎに正面側から出ています。本人の供述と大きくは矛盾しません」
速水が眉を寄せた。
「供述と合うなら、逃げていないように見えますね」
「だから厄介なんです」
三枝は言った。
「三科はホテルにいたことを隠していない。有馬さんと会ったことも隠していない。退館時刻も大きく外していない。争点は、ラウンジで別れたあと、どこへ行ったかです」
灰原は、低く言った。
「客室に入ったか。非常階段へ行ったか」
「はい」
三枝は頷いた。
「そこを固めます」
速水は、PC解析資料のコピーをNEXUS側のログと照合するため、本社へ戻ることになった。灰原も同行した。
湾岸署を出ると、夕方の光はすでに鈍っていた。空には低い雲がかかり、湾岸道路を走る車の音が湿って聞こえる。タクシーの中で、速水は膝の上のノートPCを開いたまま黙っていた。
灰原は窓の外を見ていた。
「何を考えている」
灰原が聞くと、速水は少し遅れて答えた。
「画面の順番です」
「PCの?」
「はい」
速水は画面に視線を落としたまま言った。
「有馬さんは、瀬名透を見ていた。そのあと、自分の名前の検索画面が前面に出された。これだけなら、ただの画面操作です。でもホテルの部屋では、PCが入口側へ向けられていた」
「見せるためだ」
「はい」
「お前は、そこを信じるか」
速水は少し考えた。
「信じるというより、他の説明が弱いです」
「いい言い方だ」
「褒めていますか」
「少しだけ」
速水は苦笑しなかった。
「僕は、ずっと検索画面を、ユーザーが見るものだと思っていました」
「違うのか」
「見るものです。でも同時に、見せるものでもある」
速水は、ゆっくり言った。
「候補語も同じです。出ている言葉は、ユーザーが選ぶための補助に見える。でも、誰かがそれを見せるために置いていたら、意味が変わる」
灰原は答えなかった。
速水は続けた。
「有馬さんのPC画面も同じです。検索結果として残っていたんじゃない。誰かが、発見者に見せるために置いた」
「誰に見せる」
「警察。ホテル。NEXUS。報道。残された全員です」
灰原は、窓の外を見たまま小さく頷いた。
死体が見つかる。部屋にPCがある。そこには、死者自身の名前と、死ぬ理由に見える言葉が並んでいる。それを見た人間は、答えに近づいたと思う。本当は、誰かが置いた問いを見ているだけなのに。
「三科さんの資料と似ています」
速水が言った。
灰原は視線だけ向けた。
「見やすい。順番が整っている。何を疑えばいいかが、先に置かれている」
「三科は、答えを言わない」
「問いを置く」
速水は灰原の言葉を引き取った。
「そうです」
タクシーが信号で止まった。
速水は、少しだけ声を落とした。
「でも、三科さんが本当にやったなら、なぜあんなに協力的なんでしょう」
「協力すれば、見る順番を置ける」
灰原はすぐに言った。
速水は黙った。その答えは、嫌なほど腑に落ちた。
犯人が逃げるとは限らない。
現場から離れるとは限らない。
情報を隠すとは限らない。
むしろ、情報を出すことで、相手の視線を動かすこともできる。
三科悠介は、まさにそれができる男だった。
NEXUS本社に戻ると、検索補助開発部の小会議室では霧島直哉が作業を続けていた。
机には空になった紙コップが二つ置かれている。霧島は上着を脱ぎ、シャツの袖をまくっていた。普段より少し疲れて見える。
「おかえり」
霧島は速水に言った。
「何か出た?」
「有馬さんのPC、裏タブで瀬名透を見ていました」
速水が答える。
霧島の手が止まった。
「ホテルで見つかった画面は?」
「最後に前面に出されただけの可能性が高い。操作時刻は二十二時十五分前後。その数分後に、十八階東端の非常扉が開いています」
霧島は、椅子の背にもたれた。
「それ、ほとんど偽装じゃないか」
「ほとんどな」
速水は言った。
「まだ誰がやったかは出ていない」
霧島は灰原を見た。
「三科さんですか」
灰原は答えなかった。
霧島は、自分で言ってから少し顔を歪めた。
「すみません。早いですね」
「早いが、遅すぎるよりはいい」
灰原は会議室の椅子に座った。
「三科の資料で、裏タブに関係するものはあるか」
「瀬名透関連の比較表ならあります。ただ、彼の資料では、有馬さんが最後に見ていたものが瀬名透だったことは強調されていません」
速水が画面を開いた。
三科が共有した資料では、有馬の名前に出た悪意語と、瀬名透に出た悪意語が中心に整理されている。
瀬名透から消えた候補語は浅く扱われていた。そして、有馬のPCで瀬名透のタブが開かれていたことには触れていない。
もちろん、三科はPC解析の結果を知らなかったはずだ。そこだけ見れば、不自然ではない。だが、有馬と共同研究していたなら、彼女が最後にどの資料を重視していたかを知っていてもおかしくない。
灰原は霧島へ聞いた。
「三科は、有馬さんが瀬名透の消えた候補語を重視していたことを知っていたか」
「共同研究者なら、知っていたと思います」
「思う、ではなく、ログ上は?」
霧島はすぐにキーボードを叩いた。
「共有履歴では、三科さんは瀬名透関連の比較表にアクセスしています。特に、候補語の消失をまとめたファイルには複数回アクセスがあります」
「最後はいつだ」
「事件前日です」
速水が顔を上げた。
「有馬さんが死ぬ前日?」
「うん」
霧島は画面を拡大した。
「昨日の午後、三科さんのアカウントでアクセスがあります。ただし、彼の所有する外部アカウント経由です。共同研究の共有フォルダなので、不自然ではありません」
「不自然ではない」
灰原が繰り返した。
霧島は苦い顔をした。
「はい。不自然ではありません」
不自然ではないことが、いくつも積み重なっている。
三科がホテルにいたことは不自然ではない。有馬と会ったことも不自然ではない。瀬名透の資料にアクセスしていたことも不自然ではない。検索行動の解析ツールを持っていることも不自然ではない。
だが、そのすべてが同じ場所に集まっている。
「三科さんは、消えた候補語を知っていた」
速水が言った。
「知っていたはずです」
霧島が答える。
灰原は、低く言った。
「なら、なぜ資料では軽く扱った」
誰も答えなかった。
PC解析の追加データが届いたのは、その直後だった。
有馬のブラウザ履歴には、二十二時前後に開かれていたタブの順番が残っていた。完全な復元ではないが、最後にどのタブがアクティブだったか、どのファイルが参照されていたかはわかる。
速水は、そのログを画面に表示した。二十二時前後、有馬は瀬名透の比較表を開いている。続けて、東湾トンネル事故の保存資料を開いている。そのあと、外部通報レポートの追記欄にアクセスしている。
二十二時五分、追記が送信されている。
私は、私の名前を見ていました。そして、その数分後。有馬自身の名前を検索した画面が前面に出されている。
速水は、そこで手を止めた。
「おかしい」
灰原が見る。
「何が」
「追記の直前、有馬さんは瀬名透の比較表を見ています。なのに追記は、自分の名前を見ていた、です」
霧島が言った。
「自分の名前と瀬名透を比較していたからじゃない?」
「そうです」
速水は頷いた。
「だから、あの一文は自分への悪意に絶望した言葉じゃない。瀬名透との比較を見て、自分の名前を観測していたと記録した言葉です」
灰原は、画面を見た。
「つまり、あの追記は自殺の遺書ではない」
「はい」
速水は言った。
「調査メモです」
三枝がいれば、まだ断定するなと言っただろう。だが、この場にはいない。灰原は何も言わなかった。
速水は続けた。
「有馬さんは、あの時点で何かに気づいた可能性があります。自分の名前に起きていることと、瀬名透に起きたことが同じ構造だと」
「それをNEXUSへ送った」
「はい」
「そのあと、PC画面が前面に出され、非常扉が開いた」
会議室に沈黙が落ちた。時刻が並び始めている。有馬は、二十二時五分に追記を送った。その十分後、誰かがPC画面を整えた。さらに数分後、非常階段へ向かう扉が開いた。
点は、線に近づいていた。
だがまだ、三科へは届かない。
三枝から連絡が入ったのは、夜に差しかかる頃だった。灰原はスピーカーにはせず、端末を耳に当てた。
「何かわかったか」
三枝の声は、少し雑音を含んでいた。
「ホテルのWi-Fi記録です。まだ速報ですが、三科悠介の端末と思われる接続が、二十二時台に十八階周辺で拾われている可能性があります」
灰原は、視線だけで速水と霧島に合図した。
「場所は」
「客室階の東側。非常口に近いアクセスポイントです。ただし、Wi-Fiの位置情報は正確ではありません。近くにいた可能性を示す程度です」
「それで十分だ」
「十分ではありません」
三枝はすぐに言った。
「ですが、追う価値はあります」
灰原は小さく笑った。
「俺の言い方が移ったか」
「悪影響です」
三枝は淡々と返した。
「それと、三科の退館記録は二十三時過ぎで確定しそうです。本人の供述と大きくは合います。ただし、二十二時台にどこにいたかは、本人の説明だけでは埋まりません」
「ラウンジで仕事をしていた、と言っていた」
「ラウンジ周辺の映像には、二十二時以降の三科らしき姿がまだ確認できていません。今、映像を洗っています」
灰原は、ゆっくり息を吐いた。
三科は退館時刻では嘘をついていない。だが、その前の空白が問題になる。
「三枝」
「はい」
「三科は、客室に戻らずに偽装できるか」
「どういう意味です」
「有馬さんのPC画面を整えたあと、非常階段へ同行し、そのまま客室へ戻らずにホテルを出た可能性だ」
三枝は少し黙った。
「あり得ます」
やがて、そう答えた。
「PC操作が二十二時十五分。非常扉が二十二時十九分ごろ。そのあと非常階段を使って低層階側へ降りれば、客室へ戻らずに別動線へ抜けられます。ホテルの構造上、業務区画側へ出る扉もあります」
「ログは」
「下層側の非常扉ログを確認中です」
「頼む」
「言われなくても」
通話は切れた。灰原は端末を机に置いた。
速水が聞く。
「三科さんのWi-Fiですか」
「可能性だ」
「十八階?」
「東側。非常口に近い」
霧島は、顔を強張らせた。
「ラウンジじゃない」
「まだ確定ではない」
灰原は言った。
「だが、三科の供述には空白がある」
速水はモニターを見た。
有馬のPC操作時刻。非常扉ログ。Wi-Fi接続。退館時刻。瀬名透の裏タブ。有馬の追記。
数字と記録が、少しずつ三科の周囲に集まっている。だが、それでも足りない。
殺害を証明するには、まだ遠い。
三科が非常階段にいたことを証明しなければならない。そして、そこへ有馬を誘導した理由も必要だった。
灰原は言った。
「三科は、有馬さんをなぜ非常階段へ連れ出せた」
速水は考えた。
「彼女が信じる情報を持っていたから」
「何だ」
「瀬名透の件。録音。安全データ。大槻さんからの資料」
霧島が顔を上げた。
「でも大槻さんは、三科さんに資料を渡していない」
「そうです」
速水は言った。
「もし三科さんが、大槻さんから預かった何かがあると言ったなら、それは嘘になる」
灰原は黙っていた。
大槻は三科に会っていない。資料も渡していない。だが有馬は、大槻からの入口を重視していた。三科がそこを使えば、有馬を動かせる。
「大槻に確認する」
灰原が言った。
「三科が自分の名前を使ったことがあるか」
速水は頷いた。
そのとき、霧島が小さく呟いた。
「三科さんは、知っていたんだ」
灰原が見る。
「何を」
「有馬さんが何を信じるかです」
霧島は画面を見たまま言った。
「有馬さんは、構造を疑っていた。でも、入口を持っている人間は信じた。大槻さんの資料、瀬名透の録音、施工日誌。そういうものを見せると言われたら、動いたかもしれない」
速水は、霧島の言葉を聞いていた。
分類する前に見る。霧島は今、それをしている。少し遅い。だが、確かに見ようとしている。
灰原は立ち上がった。
「裏側の画面は見えた」
速水が顔を上げる。
「次は?」
「画面の外だ」
灰原は言った。
「有馬さんを部屋から出した言葉を探す」
会議室のモニターには、まだ有馬のPC解析ログが表示されていた。
前面に出された、自分の名前。裏側で開かれていた、瀬名透の名前。有馬千尋が最後に見ていたものは、表の画面にはなかった。
真相は、画面の裏側から、非常階段へ続いていた。
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