第10章 消えた入口
消えた言葉を探す作業は、出てきた言葉を探す作業よりも厄介だった。
出てきた言葉には、形がある。画面に残る。ログに残る。スクリーンショットに残る。誰かがそれを見たと証言すれば、少なくともその瞬間に存在していたことは確認できる。
だが、消えた言葉には、空白しか残らない。かつてそこにあったはずの入口が、いつ、どのように見えなくなったのか。
それを証明するには、過去の断片を拾い集めるしかなかった。
速水蓮は、NEXUS本社の小会議室で、瀬名透に関する古いログを時系列に並べていた。隣には霧島直哉がいる。いつもの霧島なら、ここで作業を整理し、対象期間を区切り、確認手順を淡々と決める。
しかし今の霧島は、少し違っていた。画面を見る目が、いつもより遅い。分類する前に、立ち止まろうとしている。
「この時期までは、事故の中身に向かう語が出ている」
速水はモニターを指した。
「瀬名透という名前を入力した人は、彼が何を持っていたのかに向かっている。録音、安全データ、事故前日の現場、施工日誌。そういう言葉が」
霧島は画面を見つめた。
「そのあとは?」
「少しずつ薄くなる。完全にゼロにはならない。でも候補語としては出にくくなっている。代わりに、瀬名本人を疑わせる言葉が強くなる」
「検索量の自然減衰では説明できない?」
「そこが問題」
速水は、別のグラフを開いた。
瀬名透という名前の検索量そのものは、事故直後のピークを過ぎて落ちている。そこだけを見れば、候補語が消えることは不自然ではない。関心が薄れれば、候補語も出なくなる。システムとしては普通の挙動だ。
だが、有馬が残した記録は、その単純な説明を許さなかった。
告発の中身に向かう言葉が薄くなる一方で、瀬名本人を疑う言葉は、しばらく残り続けている。全体の関心が落ちているなら、両方とも同じように落ちるはずだった。ところが実際には、残る言葉と消える言葉に偏りがあった。
「人は、残った入口から入る」
速水は言った。
「瀬名透を調べようとした人は、録音や安全データへ向かう前に、瀬名が信用できる人物かどうかを疑う方向へ流される」
霧島は、小さく息を吐いた。
「入口が置き換えられている」
「有馬さんはそう見ていた」
速水は、有馬のメモを開いた。そこには、短い文章が残っていた。出た言葉は、誰かが見せたい言葉。消えた言葉は、誰かが見せたくない入口。
霧島はその一文を、長く見ていた。
「これ、きついな」
「何が」
「通報に入っていたんだよね」
「要約版には入っていた」
「僕は見なかった」
霧島の声は乾いていた。速水は画面を閉じなかった。
「今見てる」
「遅い」
「遅い。でも、見てる」
霧島は何も返さなかった。
会議室の外では、フォーラム延期に伴う対応が続いていた。広報、法務、検索品質、社内コミュニケーション。誰も走ってはいないが、空気だけが急いでいる。
会社は、危機が起きると、まず言葉を整える。
延期。確認中。関係各所と連携。透明性の確保。
どれも間違っていない。
だが、間違っていない言葉の中で、人が見えなくなることがある。
速水は、瀬名透のログに戻った。
「消えた入口を確定するには、複数の時点が必要だな」
霧島が頷く。
「過去のスクリーンショット、有馬さんの保存データ、NEXUS側の候補語ログ、外部投稿の時刻」
「それと、三科さんの資料」
霧島は少しだけ眉を寄せた。
速水は続けた。
「彼の資料は、瀬名透に出ていた悪意語をきれいにまとめている。でも、消えた言葉の扱いが薄い」
「見落としただけかもしれない」
「そうかもしれない」
速水は否定しなかった。
「でも、有馬さんはそこを重視していた。共同研究者なら、普通は同じ場所を見るはず」
霧島は、三科が共有したフォルダを開いた。資料は、やはり見やすかった。
事故の概要、瀬名透の退職、事故後の検索傾向、瀬名本人への悪意語の増加。どこを見れば、瀬名の信用がどう壊されたかがわかるように整理されている。
だが、録音や施工日誌、安全データといった言葉が、どの時期から見えにくくなったのかについては、注釈程度にしか触れられていなかった。
しかも、その説明は「関心低下に伴う自然減衰の可能性」と処理されている。
速水は、その一文を見た。
自然減衰。便利な言葉だった。何かが消えたとき、人はそれを自然なものだと思いたがる。関心が薄れた。時間が経った。話題が移った。
その説明は、たいてい正しい。だが、正しい説明は、ときどき隠れ蓑になる。
「ここ」
速水は言った。
「有馬さんは、ここを自然減衰とは見ていなかった」
「三科さんは、自然減衰の可能性として扱っている」
「そう」
「意見の違い?」
「意見の違いなら、資料に議論の跡があるはず。でも三科さんの資料では、ここだけ妙に浅い」
霧島は黙って画面を見ていた。
三科悠介は、よく喋る男だった。必要以上に説明するのではない。相手が次に何を疑えばいいかを、自然に置いていく。
その男が、ある部分だけを浅く扱っている。速水には、それが偶然には見えなかった。
灰原誠司が会議室に戻ったのは、三枝徹からの連絡を受けたあとだった。
三枝はまだ警察側に残り、大槻航平から提出された資料の保全手続きを進めている。録音データは正式な手続きを通して解析に回されることになった。すぐに中身を自由に聞けるわけではない。
それでも、施工日誌のコピーと安全データ異常メモの概要だけで十分だった。
瀬名透は、何もないところから騒いだわけではない。少なくとも、彼が事故前に異常を訴えていたことを示す入口は存在していた。
その入口が、検索上では見えにくくなっていた。
灰原は、速水と霧島の説明を聞き終えると、三科の資料に目を落とした。
「見せたいものは、よく見える」
灰原は言った。
「見せたくないものは、自然に見えなくなる」
速水が頷く。
「三科さんの資料では、瀬名透に出ていた悪意語は詳しいです。でも、瀬名透から消えた候補語は軽く扱われている」
「有馬さんは逆だった」
「はい」
速水は、有馬のメモを開いた。
出てきた言葉は、人を疑わせる。消えた言葉は、人を辿れなくする。灰原はその文を読んだ。
有馬千尋は、検索窓の中で人がどう疑うかを見ていた。だが同時に、人が何を辿れなくなるかも見ていた。かつて灰原は、検索結果の最上部で答えが歪められるのを見た。
だが今回は、その手前だった。
答えではない。問いにたどり着く入口が、別のものに置き換えられている。灰原は、ホテルの客室で見た未完成のスライドを思い出した。
表示された候補語ではなく、消えた候補語を――。
途中で切れたあの一文は、今なら少しだけ続きが見える。表示された候補語ではなく、消えた候補語を見る。なぜなら、そこに誰かが閉じた入口があるからだ。
「速水」
「はい」
「瀬名透から消えた言葉を、時刻付きで並べられるか」
「完全には難しいです。古いログなので、現在ほど細かく残っていません。ただ、有馬さんの保存データとNEXUS側の過去ログを合わせれば、大まかな消失時期は出せます」
「頼む」
「やっています」
「霧島」
霧島が顔を上げた。
「はい」
「自然減衰として処理された根拠を見たい。三科の資料ではなく、NEXUS側の当時の判断があるならそれも」
霧島は一瞬だけ黙った。
「五年前の案件なので、検索補助側のアーカイブを掘る必要があります。権限申請も必要です」
「できるか」
「やります」
「分類する前に?」
霧島は、少しだけ苦い顔をした。
「見ます」
灰原は頷いた。
それでいい。人は、同じ間違いをすぐには取り戻せない。だが、同じ動きを止めることはできる。
夕方、三枝がNEXUSへ戻ってきた。
手には紙の封筒と、警察用の資料ファイルがある。顔には疲れがあったが、目は鈍っていなかった。
「大槻の資料は、正式に保全しました」
三枝は椅子に座る前に言った。
「録音データは解析に回します。施工日誌のコピーと安全データ異常メモの一部は、こちらで概要確認済みです」
「瀬名透の告発には根拠があった」
灰原が言う。
「少なくとも、そう見るべき材料はあります」
三枝は言った。
「ただし、過去事故の再捜査は簡単ではありません。まずは有馬さんの死亡事件との関係です」
「わかっている」
「大槻は、三科悠介に資料を渡したことはないと言っています」
速水が顔を上げた。霧島も反応する。灰原は三枝を見た。
「録音も?」
「渡していないと明言しました。三科とは会ったこともない、と」
「有馬さんには渡している」
「一部だけ」
三枝はファイルを机に置いた。
「大槻の証言では、有馬さんは『入口だけでいい』と言ったそうです。全部を出すのが怖いなら、入口だけでいい、と」
灰原は目を伏せた。
入口。この事件では、その言葉が何度も出てくる。
検索の入口。
告発の入口。
真相へ向かう入口。
そして、誰かが閉じた入口。
有馬千尋は、入口を探していた。自分の名前を使って、瀬名透の名前から消えた入口を探していた。
「大槻の資料は、決定打にはならない」
三枝が言った。
「ですが、瀬名透が告発しようとしていた内容に実体があったことは示せる。そうなれば、瀬名の信用を壊す動機を持つ人間がいたことにもつながる」
「施工会社か」
灰原が言う。
「施工会社、その周辺の広報、危機管理、外部コンサルタント」
三枝はそこで速水を見た。
「三科の名前は、まだ証拠としては弱い」
「わかっています」
速水は答えた。
「でも、接点はあります」
速水は、保存していたセミナーアーカイブを表示した。
東湾トンネル事故の後、風評被害対策を請け負ったPR会社の担当者が登壇した小規模セミナー。その同じ回に、三科悠介の名前がある。テーマは、企業危機時における検索行動の可視化。直接的に東湾事故へ関与したとは言えないが、同じ周辺にいたことはわかる。
三枝は画面を見た。
「接点ですね」
「はい」
「でも証拠ではない」
「はい」
三枝は少しだけ頷いた。
「追う価値はある」
速水は、少しだけ息を吐いた。
三枝の言葉は、速水にはありがたかった。疑いを持つことと、証拠として扱うことを分けている。警察のその分け方が、今は必要だった。
灰原は三科の資料を見たまま言った。
「三科は、出た言葉より消えた言葉を見ろと言った」
「はい」
速水が答える。
「だが、自分の資料では、消えた言葉を軽く扱っている」
三枝が言った。
「矛盾ですか」
「まだ、癖だ」
灰原は言った。
「人は、隠したいものを完全には消せない。たいていは、軽く扱う。そこに意味がないように見せる」
霧島が静かに聞いた。
「それも、分類ですか」
灰原は霧島を見た。
「そうだな」
霧島は視線を落とした。
自分に向けられた言葉だと受け取ったのだろう。
実際、半分はそうだった。
だがもう半分は、三科へ向いている。
分類は、人を救うこともある。だが、分類は、人を隠すこともある。
速水は、瀬名透の消えた候補語を、可能な限り時系列で並べた。
最初に薄くなったのは、録音に関する入口だった。
事故前の現場会議の記録へ向かう言葉が、検索候補から見えにくくなっている。次に、安全データに関する入口が細くなった。数値の異常、補強判断、事故当日の記録へ向かう言葉が、関連検索の奥へ沈んでいる。
そのあと、施工日誌と内部告発者としての瀬名透へ向かう言葉が弱くなった。
代わりに残ったのは、瀬名本人を疑う入口だった。
速水は、それを説明としてまとめた。だが、画面には言葉を並べすぎなかった。すべての候補語を羅列すれば、かえって意味が薄くなる。重要なのは、言葉の数ではなく、向きだった。
瀬名透へ向かう検索は、事故の中身から、瀬名本人の人格へ向きを変えられている。それが、速水の結論だった。
「有馬さんの件と同じ構造です」
速水は言った。
「有馬さんの場合は、悪意語が先に出て、それをSNSが拾った。瀬名透の場合はもっと長い期間で、告発内容へ向かう入口が細くなり、本人への疑いが太くなっている」
「短期と長期の違いか」
灰原が言う。
「はい。手法は違って見えます。でも構造は似ています」
三枝が聞いた。
「同じ人間がやったと言えますか」
「まだ言えません」
速水は首を振った。
「ただ、同じ種類の知識を持つ人間です。検索行動、候補語の出現条件、外部投稿との関係、どの言葉が残りやすく、どの言葉が消えやすいか。そこを理解している」
「三科悠介は理解している」
「はい」
「他にも理解している人間はいる」
「います」
速水は認めた。
「NEXUS内部にも、外部のSEO業者にも、危機管理会社にも。ただ、有馬さんの実験を知り、瀬名透の件にも接点があり、検索行動の可視化と設計に関わる人間となると、かなり絞られます」
霧島が画面を見たまま言った。
「三科さん」
誰も否定しなかった。
その名前が会議室に残った。
そのとき、三枝の端末が鳴った。三枝は画面を確認し、少しだけ表情を変えた。
「ホテルからです」
灰原が顔を上げる。
三枝は通話に出た。
「三枝です。……はい。……時刻は。……映像も保全を。……わかりました。こちらから捜査員を向かわせます」
通話を切った三枝は、ゆっくり端末を机に置いた。
「ホテルの廊下カメラの速報です」
会議室の空気が変わった。
「二十二時台前半、十八階東端の非常口方向へ向かう有馬さんらしき人物が映っています」
速水が息を止める。
「一人ですか」
三枝は首を振った。
「映像が不鮮明です。廊下の角度の問題で、はっきりとは言えない。ただ、有馬さんの少し後ろに、別の人影がある可能性がある」
灰原は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「三科か」
「まだ言えません」
三枝は即座に言った。
「ただし、三科の退館記録の照合も進んでいます。本人は二十三時前後にホテルを出たと言っている。そこは記録と合う可能性が高い」
「合うなら問題ないのでは」
霧島が言った。三枝は首を横に振った。
「退館時刻が合っても、途中でどこにいたかは別です。ラウンジで別れたという供述が正しいかどうかを見ています」
灰原は頷いた。
三科は、ホテルにいたことを隠していない。有馬と会ったことも隠していない。退館時刻も大きくは嘘をついていない可能性がある。
なら、問題はそこではない。
ラウンジで別れたのか。客室へ行ったのか。非常階段へ向かったのか。そこが争点になる。
速水は、有馬のPC解析ログを開いた。
「有馬さんのPC、もう少し詳しく見られますか」
灰原が見る。
「何を見る」
「最後に前面に出ていた検索画面です。あれが有馬さん自身の操作で出されたのか、誰かが見せるために前面へ出したのか。操作時刻を確認したい」
三枝が頷いた。
「鑑識経由で解析を急がせます」
「お願いします」
速水は画面を閉じた。
消えた入口を追っていたはずだった。だが、その入口は現在のホテル現場へ戻ってきた。有馬が本当に見ていたものは何だったのか。部屋に残された検索画面は、誰のためのものだったのか。
灰原は、ホテルの客室で感じた違和感を思い出した。
あのPCは、座って見ていた人間のためではなく、入ってきた人間に見せる角度で置かれていた。
見せられた名前。
見せられた理由。
そして、消された入口。
灰原は言った。
「有馬さんのPCを洗い直す」
三枝が頷いた。
「次は、画面の裏側ですね」
速水は、その言葉を聞いてモニターを見た。
画面には、瀬名透の名前がまだ残っている。
五年前に消された入口。
昨夜、見せられた有馬の名前。
その二つをつなぐものが、PCの中に残っているかもしれない。有馬千尋は、自分の名前を見ていた。
だが、最後に本当に見ていたのは、別の名前だったのかもしれない。
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