第9章 汚された告発者
瀬名透という名前は、NEXUSのログの中で別のものに変えられていた。速水蓮は、モニターの前でその変化を見ていた。
名前そのものは変わらない。
文字列としては、ただの三文字と二文字だ。
検索ログの中では、個人を示す識別子に近い。誰が、いつ、どの環境で、その名前を入力したのか。どの候補語を選んだのか。どのページへ移動したのか。
だが、その名前の横に結びつく言葉が変わると、名前の意味も変わる。
事故直後、瀬名透という名前は、東湾トンネル崩落事故と一緒に検索されていた。現場、告発、安全管理、施工会社、事故前日。人々は、何が起きたのかを知ろうとしていた。しかし、その流れは長くは続かなかった。数週間後には、検索の方向が変わっている。
瀬名が何を訴えたのかではなく、瀬名がどんな人間なのかを疑う言葉が増え始めていた。金銭に関する疑念、会社への逆恨み、虚言癖を匂わせる言葉、退職時のトラブルを想像させる言葉。
速水は、ログを時系列に並べ替えた。変化は、自然に見える。最初は小さい。
ひとつの記事の見出し。匿名掲示板の投稿。短い動画のタイトル。引用されたコメント。誰かの「らしい」という一言。
それらが少しずつ増え、検索語に混ざり、やがて候補語として顔を出す。
人は、候補語を見て検索する。検索されると、候補語はさらに強くなる。やがて瀬名透は、事故前に警告を出していた人物ではなく、信用できない元社員として見られるようになった。
速水は、画面の中で変わっていく線を見つめた。
「人間性に寄っている」
背後から霧島直哉が言った。
速水は振り返らなかった。
「告発内容じゃなく、瀬名本人を疑わせてる」
「典型的だね」
霧島の声は硬かった。
「告発の内容に反論するより、告発者の信用を落としたほうが早い」
速水は頷いた。
それは技術の話ではなかった。だが、検索技術はその流れに形を与える。
瀬名透の名前を入力した人間が、録音や施工日誌に向かう前に、彼は本当に信用できるのかという疑いへ連れていかれる。告発の中身ではなく、告発者の過去を探させられる。検索は、答えを探すためのものだ。
だが、問いが変われば、答えも変わる。
「有馬さんは、これを自分で再現しようとしていた」
速水は言った。
「自分の名前に悪意語が結びつく過程を見て、その裏で瀬名透に起きたことを証明しようとしていた」
霧島は、しばらく黙っていた。
「有馬さんは、強かったんだな」
速水は画面から目を離した。
「強いというより、逃げなかったんだと思う」
霧島は、少しだけ苦く笑った。
「それ、ほとんど同じ意味じゃないか」
「違う」
速水は短く言った。
「強い人間でも壊れる。逃げなかった人間は、壊れても見続ける」
霧島は何も返さなかった。
その沈黙の中で、画面に表示された瀬名透の名前だけが、妙に静かに見えた。
灰原誠司と三枝徹は、大槻航平の自宅へ向かった。
大槻の住まいは、都心から少し離れた古いマンションだった。駅から歩くと十五分ほどかかる。大通りから外れると、古い住宅と小さな工場が混在する地域になる。休日なら静かだろうが、平日の夕方には、車の音と金属を叩く音が薄く残っていた。
大槻は先に帰宅していた。玄関を開けた彼は、会社で会ったときよりもさらに疲れて見えた。作業着から着替えてはいたが、肩の落ち方は変わらない。
「妻は実家に行っています」
大槻は、二人を部屋に通しながら言った。
「子どももいません。話すには、そのほうがいいでしょう」
部屋は狭かったが、整っていた。
ダイニングテーブルの上には、茶封筒が置かれている。その横に、古い外付けハードディスクと、数枚のコピー用紙があった。
三枝が言った。
「任意提出ということでよろしいですね」
「はい」
大槻は椅子に座った。
「ただ、先に言っておきます。これで何かが全部ひっくり返るわけじゃありません」
「わかっています」
三枝は書類を出した。
「証拠品ではなく、参考資料として預かります。必要があれば、正式な手続きを取ります」
大槻は頷いた。
灰原は、テーブルの上の茶封筒を見た。薄い封筒だった。五年前に死者を出した事故の重さを受け止めるには、あまりにも薄い。だが、真実の入口はいつも小さい。
「瀬名さんから預かったものですか」
灰原が聞いた。
大槻は首を横に振った。
「預かったというより、押しつけられたんです」
「押しつけられた?」
「瀬名は、俺が逃げることを知っていたんだと思います」
大槻は、封筒に視線を落とした。
「だから、自分がいなくなっても俺の手元に残るようにした。たぶん、そういうことです」
「瀬名さんは、あなたを信じていた」
灰原が言うと、大槻は顔を歪めた。
「信じていたんじゃない。最後の保険にされたんです」
「保険になる相手として選ばれた」
「やめてください」
大槻は声を荒げなかった。その代わり、ひどく小さな声になった。
「そういう言い方をされると、余計につらい」
灰原はそれ以上言わなかった。
三枝が封筒の中身を確認する。施工日誌のコピー。安全確認に関するメモ。事故前日の現場会議の録音データの一部。そして、瀬名透が手書きで残した短いメモ。
三枝は、それを声に出して読まなかった。ただ灰原に向けた。
そこには、震えた字でこう書かれていた。
『数字は残る。でも、数字を見る人間がいなくなれば、数字は黙る。』
灰原は、しばらくその文字を見た。
瀬名透も、有馬千尋と同じことを見ていたのかもしれない。
記録はある。だが、記録が読まれる入口を壊されれば、記録は存在しないのと同じになる。
「瀬名さんは、なぜ告発できなかった」
三枝が聞いた。
大槻は首を横に振った。
「できなかったんじゃない。しようとしたんです」
「しかし、広がらなかった」
「誰も瀬名の話を、事故の話として見なくなった」
大槻の声に、苦いものが混じった。
「瀬名の名前を検索すると、あいつが嘘をついているかもしれない、金の問題で揉めていたかもしれない、会社に恨みがあるかもしれない。そういう話ばかりが先に出るようになった。瀬名が何を持っているかじゃなく、瀬名が信用できるかどうかの話になる」
「あなたは、それを見た」
灰原が言った。
「見ました」
「何もしなかった」
大槻は頷いた。
「何もしませんでした」
部屋の空気が重くなった。
三枝は手を止めず、資料の確認を続けている。警察官の仕事としては、それが正しい。感情で話を受け止めるのではなく、提出物を確認し、時系列を確認し、手続きを残す。
だが、灰原は大槻を見ていた。
「なぜ黙ったんですか」
「怖かったからです」
大槻は、同じ答えを繰り返した。
「会社に潰されるのが怖かった。家族を巻き込むのが怖かった。瀬名みたいになるのが怖かった」
「瀬名みたいに」
「名前を壊されるのが」
灰原は黙った。
大槻は、自分の手を見た。
「検索すると、自分じゃない自分が出てくるんです。瀬名は、それを何度も見ていました。こんなもの誰が信じるんだ、と笑っていました。でも、最後には笑わなくなった」
「瀬名さんは、それを誰かに相談した様子はありましたか」
「俺に」
「あなたは?」
「聞くだけ聞いた」
大槻は言った。
「それだけです」
「有馬さんには、その話をしたんですか」
「しました」
「有馬さんは何と言いましたか」
大槻は少し考えた。
「名前を先に壊されると、証言は届かない、と」
灰原は、その言葉を胸の中で繰り返した。
名前を壊されると、証言は届かない。有馬千尋が、自分の名前で見ていたもの。瀬名透が、五年前に壊されたもの。それは、同じだった。
「有馬さんは、瀬名さんの件で誰を疑っていましたか?」
三枝が聞いた。
大槻は、わずかに目を伏せた。
「施工会社と、その周辺です。事故後の広報対応をしていた会社。外部のコンサルタント。そういう名前をいくつか出していました」
「三科悠介の名前は出ましたか」
大槻は、顔を上げた。
その反応は、予想より大きかった。
「出ました」
「どのように」
「有馬さんは、三科さんを信頼しているようでした。検索行動の解析は、彼がいないと見えない部分がある、と」
「あなたは三科さんに会ったことが?」
「ありません」
大槻はすぐに言った。
「名前は聞きました。でも会ってはいません」
灰原は、その答えを覚えた。
大槻は三科に会っていない。
少なくとも、本人はそう言っている。
「三科さんに資料を渡したことは」
三枝が聞いた。
「ありません」
「録音データも?」
「ありません」
大槻の声は、今度ははっきりしていた。
「有馬さんに一部を渡しただけです。三科さんには何も渡していません」
三枝はメモを取った。
「確認のためです」
「わかっています」
大槻はそう言ったあと、少しだけ間を置いた。
「でも、どうして三科さんの名前が出るんですか」
三枝は答えなかった。まだ、答える段階ではない。
「有馬さんは、あなたに最後に何か言いましたか」
大槻は、しばらく黙った。
「全部を出さなくてもいい、と言いました」
「どういう意味ですか」
「怖いなら、入口だけでいい。全部は私が探す、と」
大槻の声が詰まった。
「俺は、その言葉に甘えたんです」
「入口だけ渡した」
「はい」
「それで、有馬さんは死んだ」
大槻は目を閉じた。
「そうです」
部屋の中に、しばらく沈黙が落ちた。
三枝は、提出物の確認を終えると、書類を大槻の前に置いた。
「こちらに署名をお願いします」
大槻は震える手でペンを取った。
署名の文字は、少し乱れていた。灰原はその手を見た。瀬名は声を上げた。大槻は黙った。有馬は見ようとした。そして、死んだ。
人は、自分が沈黙したことを忘れない。忘れられないから、別の言葉で隠す。
生活がある。家族がいる。自分にはできなかった。仕方がなかった。
どれも正しい。だが、正しい言葉はときどき、人を救わない。
NEXUS本社では、速水が瀬名透の名前に関する検索変化をさらに掘っていた。
有馬の観測ノート、三科の公開情報フォルダ、NEXUSに残る過去ログ。三つを突き合わせると、同じ時期に同じ方向の変化が見えてくる。事故直後、瀬名透という名前は、事故そのものと結びついていた。
その後、瀬名が何を告発しようとしていたかへ向かう検索が増えた。録音、安全データ、施工日誌、事故前日の記録。そうした言葉は、少なくとも一度は入口として存在していた。
だが、ある時期から、その入口は細くなっていく。代わりに太くなったのは、瀬名本人を疑う入口だった。
告発の内容ではなく、告発者の人格。
事故前の記録ではなく、退職時の噂。
安全データではなく、金銭や恨みの話。
検索の流れが、事故から人間へずらされている。
速水は、画面の前で息を吐いた。
「瀬名透を検索した人は、瀬名透を調べさせられていた」
霧島が隣で聞いた。
「どういう意味?」
「事故のことを知ろうとしても、先に瀬名が信用できるかどうかを調べることになる。告発の中身へ行く前に、告発者の人格審査を始める」
「それが目的だったと?」
「有馬さんは、そう見ていた」
速水は、有馬のメモを開いた。有馬は短く書いている。
『告発の入口が、人格の入口に置き換えられている。』
霧島は、その一文を見て言葉を失った。
速水は続けた。
「これが自然発生なら、まだいい。でも、もし設計されていたなら」
「誰が?」
霧島が聞いた。速水はすぐには答えなかった。
この質問に名前を出すには、まだ早い。だが、頭に浮かぶ人物はいた。
三科悠介。
検索行動を分析する男。候補語の出現を読む男。何を疑えばいいかを、先に置く装置だと語った男。
「三科さんの過去クライアントを見たい」
速水は言った。
霧島が眉を寄せる。
「彼は社外の人間だよ。NEXUSに全部の記録はない」
「有馬さんの資料にはあるかもしれない」
「灰原さんに確認しよう」
霧島はそう言って端末を操作した。
速水は、瀬名透の古い検索ログへ戻った。そこに、妙な一致があった。瀬名透の信用を疑わせる言葉が増え始めた時期。その直前に、事故後の風評対策を請け負ったPR会社の名前が、複数の記事に出ている。
速水は、その会社名をコピーした。
検索する。
社名と、東湾トンネル事故。
社名と、検索行動分析。
社名と、三科悠介。
すぐに決定的なものは出てこない。だが、何も出ないわけではなかった。三科が過去に登壇した小規模セミナーのアーカイブ。テーマは、企業危機管理と検索行動の可視化。登壇者欄には、三科の名前と、そのPR会社の担当者の名前が並んでいた。
速水は画面を保存した。まだ接点にすぎない。だが、有馬が追っていた道筋に、三科の影が落ち始めている。
霧島が、その画面を見た。
「これだけじゃ弱い」
「わかってる」
速水は言った。
「でも、有馬さんはこの接点を見ていたはずだ」
「なぜ」
「三科さんを信頼していたなら、逆に確認すると思う。彼が本当に見つける側の人間なのか」
霧島はしばらく黙った。
「蓮」
「何」
「君、三科さんを疑ってる?」
速水はすぐには答えなかった。
疑っている。だが、それを言葉にした瞬間、何かが進みすぎる気がした。
「三科さんの説明は正しい」
速水は言った。
「正しいのに、気持ち悪い」
「灰原さんみたいなことを言うね」
「嫌だな」
霧島は少しだけ笑った。その笑いは、すぐに消えた。
「でも、わかる」
「霧島も?」
「うん」
霧島はモニターを見た。
「正しい言葉が、正しい方向にだけ使われるとは限らない」
速水は黙った。
灰原の言葉が、霧島にも残っている。
正しさの使われ方を疑え。
速水は、その言葉の意味を、少しずつ理解し始めていた。
灰原と三枝がNEXUSへ戻ったのは、夕方を少し過ぎたころだった。
三枝は、大槻から受け取った資料を警察側の手続きに回し、コピーを確認用として灰原たちへ共有できる範囲で提示した。
録音データは、すぐに全員で聞けるものではなかった。権利関係、証拠保全、関係者の個人情報。手続きが必要になる。
だが、施工日誌のコピーと安全データ異常メモの一部は、概要だけ確認できた。
そこには、事故前日の水圧変化、支保工の追加判断、地盤補強の遅れを示すような記載があった。専門的な内容は精査が必要だったが、少なくとも瀬名透が何もないところから騒いでいたわけではないことはわかる。
三枝が言った。
「瀬名透は、ただの問題社員ではなかった」
速水は頷いた。
「検索上では、そう見えるようになっていました」
「現実と検索上の印象が違う」
「はい」
「それは、証拠になりますか」
速水は少し考えた。
「それだけではなりません。でも、誰かが意図的に誘導したなら、痕跡はあるはずです」
灰原が聞いた。
「どこに」
「時刻と順番です」
速水は答えた。
「有馬さんの件と同じです。自然に広がったなら、外部投稿、検索行動、候補語の出現に一定の順番がある。でも設計されたなら、順番が崩れる」
「瀬名透でも、逆順があるか」
「調べています」
速水はモニターに古いログを表示した。そこには、瀬名透という名前の周辺で起きた検索行動の変化が映っている。
三枝は画面を見た。
「正直、半分くらいしかわかりません」
「だろうな」
灰原が言った。
「ですが」
三枝は続けた。
「瀬名透という人間が、事故の話から切り離されていったことはわかります」
速水は頷いた。
「それが、有馬さんが追っていたことです」
「そして、有馬さんにも同じことが起きた」
「はい」
灰原は、画面に表示された瀬名透の名前を見ていた。
汚された告発者。
その言葉が頭に浮かんだ。瀬名透は、告発の中身ではなく、名前を汚された。有馬千尋は、それを見つけた。
自分の名前で再現しようとした。そして、同じように名前の横へ悪意を置かれた。だが、有馬は瀬名とは違うものを残していた。自分の名前を見ていた、という追記。
未完成のスライド。消えた候補語へのメモ。そして、瀬名透へ戻る入口。
灰原は言った。
「次は、消えた言葉だ」
速水が顔を上げる。
「瀬名透から、何が消えたかを確定します」
「確定できるか」
「やります」
速水は短く答えた。
霧島も頷いた。
「僕も見る。今度は、分類する前に」
灰原は二人を見た。
速水は違和感を掘る。霧島は分類する。その二人が同じ方向を向けば、少しは見えるものが増えるかもしれない。
三枝が、灰原の横で言った。
「人の動きは、こちらで追います。大槻の資料、ホテルのログ、三科の退館時刻。全部合わせます」
灰原は頷いた。
言葉の動き。人の動き。過去の事故。現在の死。
点は増えている。だが、まだ線ではない。
その線を引くために必要なのは、出てきた言葉ではなかった。
消えた言葉だった。
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