第8章 崩落した告発

事件発覚から二日目の朝、灰原たちは東湾トンネル崩落事故の資料を改めて洗い直していた。

東湾トンネル崩落事故は、五年前の冬に起きた。

湾岸再開発エリアの地下を通す予定だった連絡トンネルで、掘削中の壁面が崩れ、作業員三名が死亡した。ほかにも複数の負傷者が出たが、事故は長く報じられなかった。

報道が短かったわけではない。

事故直後は、テレビも新聞もネットメディアも一斉に取り上げた。

施工会社の記者会見、行政の立入調査、専門家による地盤解説、安全管理体制への批判。毎日のように見出しは出た。だが、短かった。

一週間も経つと、ニュースは次の事故へ移った。一か月も経つと、検索する人間は減った。一年後には、事故名を正確に覚えている人間のほうが少なくなった。

それでも、事故で死んだ人間の家族にとっては、終わっていない。

告発しようとした人間にとっても、終わっていない。

灰原誠司は、NEXUS本社の会議室で、当時の記事を読みながらそう思った。画面に表示されている古い記事の見出しは、どれも似ていた。

想定外の地盤変動。現場判断の遅れ。安全確認手順の不徹底。施工会社の謝罪。

言葉は違っても、結論はほぼ同じだった。事故は、現場で起きた不幸な失敗だった。危険を予見することは難しかった。管理体制には問題があったが、意図的な隠蔽や改ざんは確認されていない。

灰原は、画面を閉じなかった。

「きれいに終わっているな」

横にいた三枝が言った。

「きれいに?」

「責任の形が、ちょうどよく丸い」

三枝は古い報道資料を眺めたまま、続けた。

「現場判断の遅れ。安全確認の不備。想定外の地盤。誰か一人に強く寄らない。けれど誰も完全には無関係ではない。こういう終わり方をした事故は、あとから掘り返しにくい」

灰原は頷いた。

「全員が少しずつ悪い話は、誰も本気で見なくなる」

「ええ」

三枝は短く答えた。

速水蓮は、別のモニターで有馬千尋の観測ノートを開いていた。

有馬は東湾トンネル崩落事故を、ただの過去事故として見ていなかった。彼女の記録では、事故そのものよりも、ある一人の名前に印が付けられている。

『瀬名透。』

当時の現場監督補佐。事故の数週間前から、安全データの異常を訴えていたとされる人物。事故後に施工会社を退職し、その後、表にはほとんど出てこなくなった人物。

速水が言った。

「有馬さんのメモでは、瀬名透は事故前から複数回、安全データの異常を社内に報告しています」

「報道には出ていないな」

灰原が言う。

「出ていません。少なくとも大手媒体では、瀬名透という名前はほとんど出てこない。出てくるのは匿名の元社員、または関係者という表現です」

「匿名にした理由は」

「名誉保護かもしれませんし、取材源保護かもしれません。ただ、有馬さんは名前を掴んでいた」

三枝が聞いた。

「瀬名は生きているのか」

速水は画面を切り替えた。

「亡くなっています。事故の二年後です。表向きは病死。ただ、有馬さんのメモでは、精神的に追い詰められていた可能性がある、と書かれています」

会議室が、少しだけ重くなった。死者が増えると、事件は過去へ沈む。有馬千尋。瀬名透。東湾トンネルで亡くなった三人の作業員。

名前は違う。時期も違う。だが、灰原には、同じ場所へ向かっているように見えた。

「瀬名の元同僚に会う」

灰原が言った。

三枝はすでに資料を見ていた。

「大槻航平ですね」

「連絡は」

「取れています。会うことには応じました。ただ、警察が来るなら話すことはない、と最初は言っていました」

「警察が嫌いか」

「過去に何かあったんでしょう」

「それは、たいていある」

灰原は立ち上がった。速水もノートPCを閉じようとしたが、灰原が視線で止めた。

「お前はこっちに残れ」

「なぜですか」

「瀬名透の検索履歴と候補語の変化を掘れ。大槻に会うより、お前が見たほうがいいものがある」

速水は少し不満そうにしたが、反論しなかった。

「わかりました」

「三科の資料だけを見るな」

「見ません」

速水は短く答えた。

「有馬さんの順番で見ます」

灰原は頷いた。

それでいい。

人の残した資料には、順番がある。その順番を変えた瞬間に、意味も変わる。



大槻航平が勤めている設備会社は、江東区の倉庫街にあった。

古い二階建ての建物で、一階は資材置き場、二階が事務所になっている。入口には小さな看板があり、空調設備の点検、配管修理、工場内設備保守と書かれていた。

華やかさはない。だが、こういう会社が都市の裏側を支えている。

三枝が階段を上がり、事務所のドアを開けた。中には作業着姿の男が数人いた。奥のデスクに座っていた男が、こちらを見て立ち上がる。

大槻航平。四十歳。

写真で見るより老けて見えた。髪には白いものが混じり、頬はこけている。体格は悪くないが、肩がわずかに丸い。かつて現場にいた人間の体つきだった。机上の仕事だけではつかない、重いものを持ってきた体だ。

「大槻さんですね」

三枝が言った。

「……はい」

大槻は三枝の警察手帳を見たあと、灰原を見た。

「そちらは?」

「NEXUS内部監査部の灰原です」

「NEXUS」

大槻の声に、あからさまな拒絶が混じった。

「俺は、検索会社に話すことなんかありません」

「なら、瀬名透さんの話をしに来た」

灰原が言うと、大槻の顔から表情が消えた。事務所の奥にいた同僚たちが、何となく会話を止める。大槻はしばらく灰原を見ていたが、やがて短く言った。

「外で」

三人は建物の裏手に出た。そこには小さな喫煙スペースがあり、灰皿代わりの缶が置かれている。大槻は煙草を取り出しかけて、やめた。

「有馬さんのことですか?」

大槻は聞いた。三枝は頷かなかった。

「ニュースではまだ名前は出ていないはずです」

「フォーラム関係者から聞きました」

「会っていたんですね」

「一度だけです」

大槻は低い声で言った。

「二週間ほど前に。瀬名のことで」

灰原はその言い方を聞いた。

瀬名さん、ではない。瀬名、と呼んだ。距離が近い。

「瀬名透さんとは、どういう関係でしたか」

三枝が聞いた。

「同じ現場にいました。東湾トンネルの現場です。俺は設備側の担当で、瀬名は現場監督補佐でした」

「事故前から、安全データの異常を訴えていた」

大槻の目が一瞬だけ動いた。

「誰から聞きました」

「有馬さんのメモです」

大槻は、口元を歪めた。

「有馬さんは、そこまで調べていたんですね」

「あなたにも話を聞いた」

「少しだけです」

「少しだけ?」

大槻は両手を作業着のポケットに入れた。

「全部は話していません」

灰原は黙っていた。大槻は、何かを言う前から苦しそうだった。話したくないのではない。話せなかった時間が長すぎて、言葉をどこから出せばいいのかわからないのだと。

「事故の前、瀬名は何を見つけたんですか」

三枝が聞いた。

大槻は、遠くの倉庫の屋根を見た。

「地盤の数値です。詳しいことは、俺も全部はわかりません。ただ、瀬名は変だと言っていた。計測値と現場の感覚が合わない。補強のタイミングが遅れている。水の出方がおかしい。そういうことを何度も言っていました」

「会社には」

「上げていました」

「反応は」

「現場の判断で処理しろ、と」

大槻は短く笑った。

「よくある言葉です。現場判断。安全確認。想定外。事故が起きたあとに並べるには便利な言葉ばかりだ」

灰原は、その声の底にあるものを聞いた。

後悔だ。怒りではない。怒りは、とっくに燃え尽きている。残っているのは、自分に向けられた後悔だった。

「瀬名さんは内部告発しようとしていた」

三枝が言った。

大槻は唇を結んだ。

「していました」

「あなたは協力したんですか」

大槻は答えなかった。沈黙が長くなった。灰原は待った。

やがて、大槻は言った。

「しませんでした」

それは、小さな声だった。

「瀬名は声を上げた。俺は黙った」

風が資材置き場のビニールシートを揺らした。

大槻は続けた。

「瀬名は、録音を持っていました。現場会議の一部です。安全データの話をしている。上がどう言ったかも入っている。施工日誌のコピーもありました。事故前日のメモも」

「それを有馬さんに渡した」

三枝が聞いた。

「一部だけです」

「なぜ一部だけ」

大槻は、笑わなかった。

「怖かったからです」

その答えには、飾りがなかった。

「もう五年も経っている。それでも?」

「五年経っても、生活はあります。家族もいる。今の会社にも迷惑をかける。俺はあのときも、そうやって黙りました」

灰原は大槻を見た。

「瀬名さんは、あなたを責めましたか」

「いいえ」

大槻はすぐに答えた。

「責めなかった。それがきつかった」

「責められたほうが楽だった」

大槻は何も言わなかった。

それが答えだった。

三枝はメモを取りながら、声を低くした。

「瀬名透さんについて、事故後に悪い噂が出ていましたね」

大槻の顔に、はっきりと嫌悪が浮かんだ。

「噂じゃない。作られたんです」

「作られた?」

「瀬名が金を持ち逃げしたとか、会社に逆恨みしているとか、虚言癖があるとか。そんな話が、いつの間にか検索すると出るようになっていた。俺が最初に見たときは、吐き気がしました」

灰原は、その言葉を受け止めた。

検索すると出る。大槻はそう言った。それは、ただのネット上の噂ではない。人が何かを調べようとしたとき、最初に差し出される印象だった。

「瀬名さんは、本当にそういう人物だったんですか」

三枝が聞いた。

大槻は、三枝を睨むように見た。

「違います」

「確認です」

「違います」

大槻はもう一度言った。

「瀬名は面倒なやつでした。細かいし、融通が利かないし、上に煙たがられるタイプです。でも、金に汚いとか、嘘をつくとか、そういうやつじゃない」

「有馬さんにもそう話した」

「話しました」

「有馬さんは何と言いましたか」

大槻は目を伏せた。

「名前を壊されると、人は証言まで読まれなくなる、と」

灰原の胸の奥で、何かがつながった。有馬千尋は、自分の名前でそれを観測していた。瀬名透に起きたことを、自分の名前で再現しようとしていた。名前が壊されると、証言は読まれない。

検索する前に、その人間の信用が崩される。


「有馬さんは、瀬名さんの名誉回復をしようとしていたんですか」

灰原が聞いた。

大槻は首を振った。

「それだけじゃないと思います」

「どういう意味です」

「瀬名の名誉を戻すだけなら、記事を書けばいい。でも有馬さんは、なぜ瀬名の名前がああなったのかを追っていました。誰が言葉を置いたのか。なぜ、別の言葉が出なくなったのか」

「別の言葉」

「録音とか、安全データとか、施工日誌とか。瀬名が本当に持っていたものに繋がる言葉です」

三枝が灰原を見た。灰原は何も言わなかった。大槻の証言は、有馬のメモと重なっている。

出た言葉だけではない。消えた言葉。

有馬が見ていたものの輪郭が、また少し濃くなった。

「大槻さん」

三枝が聞いた。

「あなたが有馬さんに渡した資料は、今どこにありますか」

「有馬さんにはコピーを渡しました。元のデータは、まだ俺が持っています」

「提出できますか」

大槻はすぐには答えなかった。その沈黙は、拒絶ではない。怖さだった。

灰原は言った。

「あなたが今ここで黙れば、有馬さんも瀬名さんも、同じ場所に戻ることになります」

大槻は灰原を見た。

「脅しですか」

「違う」

「じゃあ何です」

「確認です」

大槻の顔が歪んだ。

灰原は続けた。

「瀬名さんのとき、あなたは黙った。有馬さんにも全部は話さなかった。今度も黙るなら、それは自分で選んだということです」

大槻は、拳を握った。

「簡単に言いますね」

「簡単ではない」

灰原は言った。

「だから、選ぶんです」

大槻は何かを言い返そうとして、言葉を飲み込んだ。

三枝は黙っていた。

警察官として急かすこともできただろう。だが今は、急かさなかった。大槻はゆっくりと煙草の箱を握り潰し、ポケットに戻した。

「瀬名は、最後まで言っていました」

誰にともなく、大槻は言った。

「数字は嘘をつかない。嘘をつくのは、数字を見せる人間だって」

数字は嘘をつかない。嘘をつくのは、数字を見せる人間。検索も同じだ。候補語そのものが嘘をつくわけではない。誰かが、嘘をつくように見せる。

大槻は、ようやく顔を上げた。

「資料は出します。ただし、家にあります。今すぐここにはない」

「警察で受け取りに行きます」

三枝が言った。

「任意提出という形でいいですか」

「構いません」

大槻は頷いた。

「でも、これで全部がわかるわけじゃありません」

「わかっています」

三枝は言った。

「入口です」

大槻は、その言葉に少しだけ反応した。

「有馬さんも、同じことを言っていました」

「入口?」

「はい」

大槻は言った。

「瀬名の名前に、本当の入口が残っていない、と」



そのころ、NEXUS本社では、速水が瀬名透の検索履歴を掘っていた。

有馬の記録と、三科の資料と、NEXUSに残る古いログ。それらを突き合わせると、事故直後から数か月のあいだ、瀬名透という名前に結びつく言葉の変化が見えてきた。

最初は、事故や安全管理に関する言葉が多かった。

瀬名が何を見つけたのか。事故前日の現場で何が起きたのか。録音や施工日誌があるのか。

そうした、告発の中身へ向かう検索が存在していた。

だが、ある時期から様子が変わる。瀬名本人の信用を疑わせる言葉が増えた。金銭問題を匂わせる言葉。会社への逆恨みを連想させる言葉。発言そのものを虚言として扱う言葉。

さらに、告発の中身へ向かう言葉は、徐々に見えなくなっていた。


速水は画面の前で、息を止めた。単に検索量が減ったのではない。関心が薄れたのでもない。誰かが、入口を入れ替えている。

瀬名透を検索した人間は、彼が何を告発しようとしたのかへ向かう前に、彼が信用できる人物かどうかを疑わされる。

その疑いに足を取られているうちに、録音や施工日誌、安全データへ向かう言葉は遠ざかっていく。

速水は、有馬のメモを思い出した。

『出てきた言葉は、人を疑わせる。消えた言葉は、人を辿れなくする。』

まさに、その通りだった。

霧島が、速水の背後に立った。

「どう?」

速水は画面を見たまま答えた。

「ひどい」

「そんなに?」

「瀬名透は、告発の中身じゃなく、人間性を検索されるようになってる」

霧島は黙った。

速水は続けた。

「有馬さんはこれを見て、自分の名前で再現しようとしたんだと思う。悪意ある候補語が出ることだけじゃない。真相に近づく言葉が消えることまで」

霧島はモニターを見つめていた。

「僕は、それを一時的変動にした」

速水は、すぐには返事をしなかった。責めたい気持ちはある。だが、いま必要なのは霧島を責めることではない。

「まだ終わってない」

速水は言った。

「有馬さんが見ていたものは、まだ残ってる」

霧島は低く答えた。

「残っているうちに見ないといけない」

速水は頷いた。

そのとき、画面の端に新しい通知が出た。

三枝から共有されたメモだった。

大槻航平、任意提出に同意。瀬名透の録音データの一部、施工日誌コピー、安全データ異常メモを保管。速水はその文字を見た。

決定打ではない。おそらく、それだけで過去の事故がひっくり返ることはない。

だが入口にはなる。有馬千尋が見つけようとしていた入口。

速水は、瀬名透の古い検索ログをもう一度開いた。画面には、過去に出ていた候補語と、今は見えなくなった言葉の痕跡が残っている。

瀬名透。その名前の周囲で、何かが壊されていた。

そして五年後、有馬千尋は同じ仕組みを自分の名前で見ようとした。

速水は、静かに呟いた。

「これは、有馬さんの事件だけじゃない」

霧島は答えなかった。

その沈黙の中で、瀬名透という名前が、画面の中央に残っていた。

まるで、五年前からずっと、誰かに見つけられるのを待っていたように。

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