第5章 顔だけの悪意

葛城玲奈は、逃げなかった。

三枝が電話を入れたとき、彼女は一度だけ沈黙した。そのあとで、低い声で場所を告げた。

「事務所にいます。来るなら、今来てください」

それだけ言って、電話は切れた。

葛城の事務所は、神保町の古い雑居ビルの三階にあった。

出版社と古書店の看板が並ぶ通りから一本奥へ入ると、急に人通りが減る。昼を過ぎても薄暗い階段を上がると、擦り切れたドアに小さなプレートが掛かっていた。

葛城玲奈調査室。

三枝がノックすると、中から「どうぞ」と声がした。部屋は狭かった。

壁一面の本棚には、企業不祥事、公共工事、ネット世論、広報戦略、危機管理に関する本が詰め込まれている。床には資料箱が積まれ、デスクの上にはノートPCと紙の束、赤ペン、付箋、冷めたコーヒーが置かれていた。

その雑然とした部屋の中央に、葛城玲奈は立っていた。三十九歳。

写真で見るよりも、ずっと細い印象だった。化粧気は薄く、黒いニットに灰色のジャケットを羽織っている。髪は無造作に後ろで束ねられ、目の下には疲労の影があった。ただ、目だけは鋭かった。人を見る目ではない。記事の裏取りをするときの目だった。

「警察の方と、NEXUSの方ですね」

葛城は三枝を見て、それから灰原を見た。

「灰原誠司です。NEXUS内部監査部」

「知っています。白鳥事件の人でしょう」

「俺は記事にはなっていない」

「記事には、です」

葛城はそう言って、椅子を勧めなかった。三枝が警察手帳を示す。

「湾岸署の三枝です。有馬千尋さんの件でお話を伺います」

「自殺ですか」

葛城はすぐに聞いた。三枝は答えなかった。

「まだ調べています」

「便利な言い方ですね」

「ええ。便利なので使っています」

葛城は、少しだけ口元を歪めた。

「それで、私が疑われている」

「昨夜、ホテルにいましたね」

三枝が言った。葛城の表情は変わらなかった。

「いました」

「有馬さんと会っている」

「会いました」

「言い争いになった」

「言い争いというほどではありません」

「周囲にはそう見えたようです」

葛城は、ようやくデスクの椅子に座った。

「有馬さんと私が同じ場所にいれば、たいてい言い争いに見えます。私があの人を嫌っていたのは、業界では知られていますから」

「否定しないんですね」

「否定しても意味がありません」

葛城は灰原を見た。

「私は、有馬千尋が嫌いでした」

その言い方に、灰原は少しだけ興味を持った。嫌いだった、と言う人間には、いくつか種類がある。憎しみを隠すために言う人間。自分の潔白を示すために、あえて小さな悪意を認める人間。そして、嫌いだと言うことでしか、相手の存在を認められない人間。

葛城は、三つ目に近かった。

「理由は」

灰原が聞いた。

「顔です」

葛城は即答した。その声には、わずかな棘があった。

「世間は、あの人の記事を読む前に、顔を見る。調査報道ライターではなく、美人ジャーナリストとして扱う。企業不祥事を追っても、炎上ビジネスを追っても、ネット世論の歪みを書いても、見出しには必ず顔がつく」

彼女はデスクの上に置かれた紙束へ視線を落とした。

「それが腹立たしかった」

三枝が聞く。

「有馬さん本人に、ですか」

「違います」

葛城は即座に否定した。そして、少しだけ苦い顔をした。

「いえ、違わないかもしれません。世間に腹を立てていた。でも、その世間に見られているあの人にも腹を立てていた。都合のいい怒りです」

灰原は部屋の本棚を見た。資料の隙間に、有馬の記事がいくつも印刷されているのが見えた。紙の端には赤い付箋が貼られ、本文には線が引かれている。

「よく読んでいたんですね」

葛城の目がわずかに動いた。

「仕事です」

「有馬さんの記事を」

「同業ですから」

「嫌いな相手の記事にしては、付箋が多い」

葛城は答えなかった。灰原は一枚、机の端に置かれた記事を見た。

有馬が三年前に書いた、企業の口コミ操作に関する調査記事だった。本文には赤字で細かくメモが入っている。取材源の扱い、データの出典、見出しの付け方、構成の弱点。その一つひとつが丁寧だった。批判するために読んでいる。だが、読まずに批判している人間の文字ではなかった。

「有馬千尋を一番読んでいたのは、あなたかもしれない」

灰原が言うと、葛城は不快そうに顔を上げた。

「嫌味ですか」

「感想です」

葛城は、一瞬だけ笑いそうになった。だが、笑わなかった。


「有馬さんを認めていたんですね」

三枝が言った。葛城は、机の上の赤ペンを指で転がした。

「あの人は、顔だけじゃない」

声は低かった。

「そんなことは、私が一番わかっています」

彼女は赤ペンを止めた。

「だから余計に腹が立つんです」

部屋の空気が、少し沈んだ。三枝はメモを取らなかった。灰原も黙っていた。

葛城玲奈の嫉妬は、わかりやすい悪意ではなかった。有馬が無能なら、ここまで憎まなかったのだろう。有馬がただの飾りなら、切り捨てればよかった。だが有馬は、読めばわかるほど優秀だった。

だから葛城は許せなかった。世間が有馬を顔で見ていることも。自分自身が、有馬を見るとき最初にその顔を意識してしまうことも。

「昨夜、何を話したんですか」

三枝が聞いた。葛城は、少しだけ目を閉じた。

「フォーラムの前日打ち合わせでホテルに行きました。私は登壇者ではありません。取材枠です。ただ、事前に関係者へ話を聞ける時間があった。有馬さんとはラウンジで会いました」

「時刻は」

「七時前後だったと思います。正確には覚えていません」

「防犯カメラで確認します」

「どうぞ」

葛城の声に、怯えはなかった。

「口論になった理由は」

「私が言いました。あなたは、自分が顔で消費されていることも利用しているんじゃないのか、と」

三枝のペンが止まった。

「それは、強い言葉ですね」

「強い言葉を使いました」

葛城は認めた。

「有馬さんは?」

「怒りませんでした」

「怒らなかった?」

「ええ。あの人は、怒る前に相手を見る人でした」

葛城は唇を噛んだ。

「それも嫌いでした」

灰原は静かに聞いていた。有馬千尋は、怒る前に記録する人間だった。ホテルの客室で彼女のレポートを読んだときに感じた印象が、葛城の言葉で少しだけ輪郭を持った。

有馬は、傷つく前に観察する。怒る前に、記録する。そういう人間だったのだろう。

「有馬さんは、何と言ったんです」

灰原が聞く。葛城はしばらく黙った。

「あなたも、私の顔を見ているんですね」

灰原は、わずかに目を細めた。葛城は続けた。

「そう言われました。責めるような言い方ではありません。ただ、確認するように」

「それで?」

「私は腹が立って、言い返しました。自分の名前でも検索して、世間がどう見ているか確認したらどうですか、と」

葛城の声が、ほんの少しだけ揺れた。

「そうしたら有馬さんは、もう見ています、と言ったんです」

三枝が顔を上げた。

「自分の名前を?」

「ええ」

葛城は頷いた。

「自分の名前で何が出るか。誰がどの言葉で自分を見るのか。それを見ている、と」

灰原は、端末に残された追記を思い出した。

『私は、私の名前を見ていました。』


葛城は、その言葉を事件前に聞いていた。

「そのとき、有馬さんは怯えていましたか」

灰原が聞く。

「いいえ」

「傷ついていた?」

葛城は考えた。

「傷ついていない人間には見えませんでした。でも、追い詰められているようにも見えなかった」

「では、どう見えた」

「観察していました」

葛城は言った。

「私の言葉も、自分への悪意も、たぶん全部」

三枝が静かに聞く。

「あなたはそのあと、SNSに投稿していますね」

葛城は逃げなかった。

「しました」

「有馬さんを指していると受け取れる内容でした」

「名指しはしていません」

「名指ししなくても伝わる書き方でした」

葛城は、そこで初めて苛立ったように三枝を見た。

「それがライターの仕事です」

「人を追い詰めることが?」

「言葉で刺すことがです」

三枝は表情を変えなかった。

「では、刺した自覚はある」

葛城は、すぐには答えなかった。沈黙のあと、彼女は自分のノートPCを開いた。

「これです」

画面に表示されたのは、昨夜の投稿だった。

『調査報道が顔で消費される時代、という話なら、本人が一番詳しいのでは。』

有馬の名前はない。だが、読む人間が読めばわかる。フォーラム前夜。検索透明性。

美人ジャーナリストとして知られる調査報道ライター。その条件が重なれば、誰を指しているのかは明白だった。

「この投稿の後、引用や返信で有馬さんの名前が出ています」

三枝が言った。

「見ました」

「容姿だけを揶揄する言葉も増えた」

「見ました」

「あなたの投稿が、あの言葉を広げる燃料になった可能性があります」

葛城は、画面を閉じなかった。

「でしょうね」

「軽いですね」

「軽くありません」

葛城の声が、初めて鋭くなった。

「軽かったら、消しています」

「消していない」

「消したら、なかったことにできるでしょう。私は、それはしません」

三枝は少し黙った。灰原は、画面に表示された投稿を見た。この投稿は、殺意ではない。だが悪意ではある。

葛城は有馬を殺していないかもしれない。だが、有馬へ向けられた言葉の流れに、手を貸している。それを本人もわかっている。

「有馬さんが亡くなったと知ったのはいつですか」

三枝が聞いた。

「今朝です。フォーラム延期の連絡が来て、そのあと関係者から聞きました」

「その前に、有馬さんと連絡は」

「ありません」

「昨夜、ホテルを出たあとは」

「ここに戻りました。タクシーの領収書もあります。ビルの入退館記録も残っています」

「確認します」

「どうぞ」

葛城は、淡々としていた。淡々としている人間は、二種類いる。嘘を準備している人間。あるいは、自分を裁く材料をすでに机の上に並べ終えた人間。灰原は、後者に見えた。


「葛城さん」

灰原が言った。

「あなたは有馬さんを殺していない」

三枝が横目で灰原を見た。葛城も、少しだけ驚いたように灰原を見た。

「なぜ、そう言えるんです」

「あなたの悪意は、見えるところに出ている」

「見える悪意は人を殺さないと?」

「殺すこともある」

灰原は言った。

「だが今回、部屋に残された理由は、もっと整理されている。あなたの怒りは、あんなに整っていない」

葛城は、少しだけ笑った。

「失礼ですね」

「褒めてはいない」

「でしょうね」

葛城は椅子にもたれた。

「でも、私を疑わなくていいと言われても、楽にはなりません」

「疑いが晴れることと、責任がなくなることは違う」

葛城の目が止まった。灰原は続けた。

「あなたは、有馬さんに言葉を投げた。その言葉は利用されたかもしれない」

「誰に」

「それを聞きに来た」

葛城は目を伏せた。

「私は、有馬さんが何を追っていたか、全部は知りません」

「一部は知っている」

「ええ」

「自分の名前を観測していたこと」

「それと、もう一つ」

葛城はデスクの引き出しから、一枚の紙を取り出した。有馬の記事のプリントだった。記事の余白に、葛城の赤字がびっしり入っている。灰原は紙を受け取った。


記事のタイトルは、検索サジェストと告発者の信用失墜に関するものだった。本文の中で、有馬はある過去の事故を例に挙げている。ただし、記事では具体名が伏せられていた。

葛城は言った。

「この匿名事例。私は、東湾トンネル崩落事故だと思っていました」

三枝の目が動く。

「なぜ」

「業界では、あの事故のあとに告発者が潰されたという噂がありました。公式には、ただの元社員の逆恨み扱いです。でも、有馬さんはそこを追っていた」

「瀬名透」

灰原が言うと、葛城は静かに頷いた。

「そこまで知っているんですね」

「有馬さんのレポートに名前があった」

「なら、私が話すまでもないかもしれません」

「あなたの見方が聞きたい」

葛城は、しばらく黙った。それから、ゆっくりと言った。

「有馬さんは、自分の名前を見ていたんじゃありません」

「どういう意味ですか」

三枝が聞く。

「自分の名前を使って、別の名前に起きたことを再現しようとしていた」

灰原は、手元の紙から顔を上げた。

「瀬名透か」

「たぶん」

葛城の声は、少し低くなった。

「あの人は、瀬名透に何が起きたのかを、自分の名前で試していた。悪意ある言葉がどう出て、どう広がり、何が消えるのか」

「何が消える?」

葛城は、デスクの上の赤ペンを手に取った。だが、何も書かなかった。

「有馬さんが言っていました。人は出てきた言葉ばかり見る。でも本当に怖いのは、出なくなった言葉だと」

灰原の頭に、ホテルの客室で見た未完成のスライドが浮かんだ。

『表示された候補語ではなく、消えた候補語を――。』

途中で途切れていたあの一文が、いま葛城の証言と静かにつながった。やはり、そこにつながる。

「葛城さん」

灰原は言った。

「昨夜、有馬さんと話したとき、彼女は他に誰かの名前を出しましたか」

葛城は考えた。

「出しました」

「誰です」

「三科さん」

その名前が、部屋に落ちた。

「三科悠介」

葛城は言った。

「有馬さんの共同研究者です。検索行動の解析をしている人。あの人なら、データのことは全部わかるはずです」

三枝がメモを取った。

「あなたは三科さんと面識が?」

「少しだけ。何度か取材現場で見ました。話がうまい人です」

「どういう意味で」

葛城は少し眉を寄せた。

「質問に答えているようで、いつのまにか別の問いを渡してくる人です」

灰原の目が、わずかに細くなった。

「別の問い」

「ええ。こちらが何かを聞いているのに、気づくと、次に疑うべきものを提示されている。話していると、自分で考えているような気になる。でも、あとから考えると、見せられた方向へ歩かされている」

灰原は黙っていた。葛城は続けた。

「私は、ああいう人が苦手です」

「有馬さんは?」

「信頼していたと思います」

葛城の声には、苦さがあった。

「有馬さんは、人を見る目があるようで、時々、自分の知性を信じすぎるところがあった。自分と同じ速度で考えられる人間を、簡単には疑わない」

「三科悠介は、その一人だった」

「少なくとも、有馬さんにとっては」

部屋の外を、車の音が通り過ぎた。灰原は、葛城の机の上に並ぶ有馬の記事を見た。

憎んでいた。読んでいた。認めていた。そして、傷つけた。

葛城玲奈の中にある感情は、どれか一つではなかった。

三枝が立ち上がった。

「昨夜の行動確認はさせてもらいます。投稿のログも提出をお願いします」

「わかりました」

「任意です」

「出します」

葛城は、画面を閉じた。

「私は有馬さんを嫌っていました。でも、あの人の記事は読んでいました」

その声は、自分に言い聞かせるようだった。

「顔だけだと本気で思っていたら、あんなに腹は立ちません」

灰原は何も言わなかった。葛城は、最後に小さく呟いた。

「私が投げた言葉が、誰かに使われたんですね」

三枝は答えなかった。灰原も答えなかった。

答えは、まだ早かった。



事務所を出ると、神保町の空は曇り始めていた。三枝は階段を下りながら言った。

「葛城は、犯人に見えますか」

「見えやすい」

「答えになっていません」

「見えやすい人間は、たいてい見せられている」

三枝は少しだけ苦笑した。

「灰原さんらしい言い方ですね」

「褒めていないな」

「ええ」

ビルの外へ出ると、灰原の端末が震えた。速水からだった。

『三科悠介について確認したいことがあります。有馬さんの共同研究者です。彼の分析ツール、見つける側だけではないかもしれません。』

灰原は、画面を見つめた。

葛城は言った。三科は、答えではなく、次に疑うべき問いを渡す人間だ、と。

有馬は言った。検索する前に、問いは誰が決めているのか、と。

灰原は端末を閉じた。

「三枝」

「はい」

「次は三科悠介だ」

三枝は頷いた。

「ようやく協力者の登場ですか」

「協力者かどうかは、会ってから決める」

灰原は、通りの向こうを見た。検索窓に言葉を入れる前から、問いは始まっている。

その問いを置いた人間が、どこかにいる。

そして有馬千尋は、その人間に近づきすぎたのかもしれない。

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