第4章 分類された警告

霧島直哉は、言い訳をしなかった。それが、かえって速水にはきつかった。

検索補助開発部の小会議室には、午後の白い光が差し込んでいた。窓際のブラインドは半分だけ下ろされ、細い影が机の上を斜めに切っている。そこに置かれた霧島のタブレットには、有馬千尋の通報処理履歴が表示されていた。

件名。

受付時刻。

一次確認者。

対象機能。

リスク分類。

対応優先度。

どれも、NEXUSでは見慣れた管理項目だった。人が死んだあとに見るには、あまりに整った画面だった。

霧島は、タブレットを灰原と三枝にも見える角度へ置き直した。

「有馬さんの通報は、昨夜十八時三十分に外部通報窓口へ届きました。自動振り分けで、検索補助開発部の一次確認キューに入っています。僕が確認したのは、その二十分後です」

「十八時五十分」

速水が言った。

「うん」

霧島は頷いた。

「本文と添付資料の一部を確認して、個人名サジェストに関する一時的変動として処理しました」

速水は反射的に言い返しそうになった。だが、口を閉じた。言い返すのは簡単だった。有馬は死んだ。霧島の判断は間違っていた。それだけなら、いくらでも責められる。けれど、霧島が何を見て、どう判断したのかを聞かなければ、これはただの感情になる。


三枝は、警察手帳を閉じて机の上に置いていた。今は聴取ではなく、説明を聞く姿勢だった。灰原はその横で、腕を組むでもなく、ただ静かに霧島を見ていた。

「分類を見せてください」

三枝が言うと、霧島は画面を共有した。そこには、有馬の通報に付けられたラベルが並んでいた。

個人名サジェスト:一時的変動

外部要因:SNS反応

透明性レポート対象外

緊急度:中

速水は、その四行を見た。

たった四行だった。

有馬千尋が送った長いレポート。候補語の記録。検索流入のメモ。東湾トンネル崩落事故。瀬名透。消えた候補語。それらが、この四行に畳まれている。便利な言葉だった。便利すぎる言葉だった。

「なぜ、緊急度を上げなかった」

速水は聞いた。霧島は、速水から目を逸らさなかった。

「当時の情報では、緊急度を高にする条件を満たしていなかった」

「条件?」

「著名人名や登壇者名で候補語が変動することはある。メディア露出やSNSでの話題化が絡んでいる場合、まず一時的変動として扱う。個人名サジェストはセンシティブだけど、すべてを緊急扱いにはできない」

「有馬さんは、ただの著名人じゃない。通報者だった」

「それはわかってる」

霧島の声が少しだけ低くなった。

「でも、あの時点で僕が見たのは、フォーラム登壇者の名前に悪意ある候補語が出ているという報告だった。SNSでも有馬さんの名前は動き始めていた。だから、外部要因ありと見た」

「SNSより候補語が先だった」

速水は言った。

「それを見ていなかった」

霧島は答えなかった。代わりに、画面を少し下へスクロールした。有馬の通報には、複数の添付ファイルがあった。候補語のスクリーンショット。時系列メモ。外部投稿の保存。東湾トンネル崩落事故に関する資料。瀬名透という名前を含むファイル。いくつかのファイルは、未確認のままになっていた。

速水はその表示を見て、喉の奥が詰まるような感覚を覚えた。

「全部は見ていないのか」

「見ていない」

霧島は言った。

「一次確認では、全添付を精査しない。タイトル、本文冒頭、対象機能、スクリーンショット、報告頻度を見て、分類する」

「分類する」

速水の声が固くなった。

「有馬さんは、分類されたかったわけじゃない」

霧島の眉が、かすかに動いた。灰原が、そこで口を開いた。

「速水」

速水は黙った。灰原は霧島へ向き直る。

「霧島さん。あなたは、有馬さんの通報に違和感を覚えた」

霧島は、すぐには答えなかった。会議室の空調音が、小さく響いている。

「覚えました」

霧島は認めた。

「どこに」

灰原が聞く。

「文章が、普通の苦情ではなかった」

「普通の苦情?」

「自分の名前に悪意ある候補語が出て困っている、というだけなら、もっと感情的な文章になります。削除してほしい、名誉を傷つけられた、どうにかしてほしい。そういう書き方が多い。でも有馬さんのレポートは違った。候補語の出方、時刻、拡散前後の差分、出なくなった語の痕跡まで見ていた」

「なら、なぜ緊急にしなかった」

速水が言った。霧島は、今度は速水を見た。

「違和感と緊急度は別だ」

その言葉は、冷たく聞こえた。だが速水は、霧島がそういう人間だと知っていた。入社一年目のころからそうだった。

速水は、バグの可能性を見ると放っておけなかった。ログの小さな歪み、仕様書に書かれていない挙動、数字の不自然な跳ね方。気づいたらすぐに掘り始め、関係者を巻き込み、会議の空気を悪くすることもあった。そのたびに霧島が間に入った。


速水が尖った言葉で出した違和感を、霧島は社内で通る言葉に変換してくれた。

「仕様外の挙動が再現する可能性がある」と言い換え、「まず再現条件を確認しましょう」と会議を進め、「影響範囲を分けましょう」と論点を整えた。

だから速水は、霧島を信用していた。霧島は、問題を小さくする人間ではなかった。問題を、扱える形にする人間だった。少なくとも、速水はそう思っていた。だが今、目の前の四行は違って見えた。

扱える形にすることと、危険を小さく見せることは、ときどき同じ顔をする。

三枝が、静かに聞いた。

「霧島さん。緊急度を中にしたことで、次に何が起きますか」

霧島は警察官の質問に少しだけ身構えたが、答えた。

「通常確認キューに残ります。翌営業日以降、担当者が追加確認します。必要があれば候補語抑制の審査、ポリシー確認、透明性レポート対象への引き上げを検討します」

「昨夜のうちに、誰かが詳しく見ることはない」

「緊急度高でなければ、原則ありません」

三枝は頷いた。

「つまり、その分類によって、有馬さんの通報は昨夜のうちには深掘りされなかった」

霧島は、わずかに唇を結んだ。

「はい」

速水は三枝を見た。三枝は責めていなかった。責めるのではなく、事実を置いている。警察の質問は、時々残酷だ。感情を抜いた分だけ、逃げ場がない。

灰原が言った。

「通報は増えているのか」

「かなり増えています」

霧島は灰原へ向いた。

「検索結果に関するもの、AI要約に関するもの、広告表示、医療系クエリ、災害情報、政治家名、企業名、個人名。中には正当な指摘もあります。でも、単なる不満や、同じ文面を大量送信したものも多い。見なければならない量は、以前の数倍です」

「人手は」

「増えていません。少なくとも、通報量に比例しては」

灰原は頷いた。

「それで分類した」

「はい」

「処理するために」

霧島は、少しだけ息を吸った。

「そうです」

その言葉を、灰原は追わなかった。速水なら追っていたかもしれない。処理するために人の声を小さくしたのか。なぜ違和感を覚えたのに止まらなかったのか。なぜ、添付資料の中に瀬名透という名前があるのに、そこで手を止めなかったのか。

だが灰原は追わなかった。

灰原は、霧島が答えを持っていないことを見ているようだった。


速水は、画面に残された四行を見た。

個人名サジェスト:一時的変動

外部要因:SNS反応

透明性レポート対象外

緊急度:中

分類としては、間違っていないのかもしれない。

個人名だった。サジェストだった。SNS反応もあった。短時間の変動にも見えた。だから、箱には入った。けれど、有馬千尋が送ってきたものは、箱に入れられるための苦情ではなかった。

候補語の出現時刻。

SNS投稿との順番。

自分の名前を観測対象にした理由。

瀬名透という別の名前。

東湾トンネル崩落事故。

そして、消えた候補語。

そのすべてが、四行のラベルの外側に押し出されていた。

霧島は低く言った。

「分類しないと、処理できません」

「そうだな」

灰原は言った。

「でも、分類した瞬間に、見なくなるものがある」

霧島は何も言わなかった。速水は、その横顔を見た。霧島は悪人ではない。たぶん、本当にそうだ。だが、有馬千尋の警告は、悪意ではなく、処理の中で小さくなった。

その事実は、悪意より軽いわけではなかった。



会議室の外は、ざわつき始めていた。有馬千尋の死亡は、まだ社外には正式発表されていない。だが、フォーラムの延期はすでに関係者へ伝わり始めている。NEXUSの社内チャットでは、きっと憶測が走っているだろう。

何かが起きると、まず情報の空白ができる。その空白を埋めるために、人は言葉を探す。言葉が見つからなければ、誰かが置いた言葉を使う。速水は、霧島の分類ラベルを見ながら思った。

これもまた、言葉だ。有馬の通報をどう見るべきか。それをどの大きさの問題として扱うべきか。誰の担当にし、いつ動くべきものとして処理するのか。ラベルは、社内の検索サジェストのようなものだった。

次に何を考えるべきかを、先に決めてしまう。

灰原が言った。

「霧島さん。有馬さんの通報には、瀬名透という名前がある」

霧島の表情が変わった。

「はい」

「見たのか」

「ファイル名は見ました。本文の中にもありました。ただ、一次確認では東湾トンネル崩落事故との関係までは追っていません」

「なぜ」

「対象機能がサジェストだったからです。事故そのものは、検索補助開発部の担当外です」

「担当外」

灰原はその言葉を繰り返した。霧島は、言ってから自分でも気づいたように目を伏せた。

「便利な言葉だな」

灰原が言う。霧島は何も返さない。

三枝が低く言った。

「警察でも使います。管轄外、所轄外、民事不介入。便利だからこそ、人が落ちる隙間になります」

灰原は三枝を見た。

「経験者の言葉だな」

「ええ。嫌になるくらい」

霧島は、机の上のタブレットを見つめていた。

「霧島」

速水は言った。

「有馬さんの通報を見直したい。添付資料も全部」

「アクセス権限が足りないだろ」

「だから、開けてくれ」

霧島はすぐに返事をしなかった。社内規定では、外部通報の添付資料には閲覧制限がある。個人情報、未公開情報、法務リスク、報道関係者の取材源。見られる人間は限られている。速水はランキング開発部であり、検索補助開発部の通報管理者ではない。

だが、今は人が死んでいる。霧島はタブレットを閉じた。

「僕の権限で、君に直接開けることはできない」

速水の表情が硬くなる。霧島は続けた。

「でも、灰原さんと内部監査部経由ならできる。僕は検索補助側の確認担当として、資料の解放申請を出す」

速水は少しだけ目を細めた。

「逃げるのかと思った」

「逃げたいよ」

霧島は静かに言った。

「でも、逃げたら本当に僕が処理しただけになる」

速水は何も言えなかった。



三枝の端末が鳴った。ホテル側からの連絡だった。三枝は短く応答し、相手の報告を聞く。その表情が、わずかに変わった。

「わかりました。ログは保全してください。原本コピーは捜査員が取りに行きます」

通話を切ると、三枝は灰原へ向き直った。

「ホテルの非常扉ログ、速報が来ました」

速水と霧島も、自然と三枝を見る。

「昨夜二十二時台、十八階東端の非常扉に開閉記録があります。正確な時刻はまだ照合中ですが、有馬さんの最後の追記よりあとです」

「二十二時五分のあとか」

灰原が聞く。

「はい」

「誰が開けたかは」

「扉だけではわかりません。ただ、客室階の廊下カメラとエレベーター記録を合わせます」

三枝はそこで一度、霧島のタブレットに視線を落とした。

「検索側の時刻と、現場側の時刻。両方必要になります」

速水は頷いた。有馬が残した短い追記と、候補語が出現した時刻。その候補語を見た誰かがSNSに投稿した時刻。

そして、ホテルの非常扉に残った開閉記録と、客室階のWi-Fi接続履歴。

だが、これらのパーツが揃えば、ばらばらに見えていたものが同じ方向を向くかもしれなかった。

点は増えている。だがまだ、線にはなっていなかった。灰原は言った。

「三枝。ホテルのラウンジと十八階のエレベーターホールも押さえてくれ」

「すでに手配しています」

「早いな」

「灰原さんの違和感で、昔、何度か助かった現場がありますから」

三枝は淡々と言った。

「ただし、今回は俺の仕事です」

灰原は少しだけ口元を動かした。

「わかっている」

そのやり取りを、速水は不思議な気持ちで見ていた。

灰原と三枝は、信用し合っている。だが、馴れ合ってはいない。

元先輩後輩という関係がありながら、今は別々の立場で同じ現場を見ている。

速水と霧島も、そうなれるのだろうか。仲が良い。入社時から互いを知っている。だが今、二人の間には有馬千尋の通報がある。処理された警告がある。



その日の午後、検索補助開発部の小会議室で、資料解放の手続きが進められた。

黒瀬真紀も一度だけ顔を出した。対外対応の責任者として、外部通報資料を警察とどこまで共有するか確認するためだった。

「法務確認は必要です」

黒瀬は言った。

灰原は即座に返す。

「人が死んでいる」

「それは理解しています」

「理解しているなら早くしてくれ」

黒瀬は灰原を見た。

「灰原さん。会社を守るために言っているだけではありません。取材源や第三者の個人情報が含まれている可能性がある。雑に出せば、有馬さんの調査そのものを傷つけます」

灰原は一瞬だけ黙った。黒瀬の言い分は正しかった。そして、正しい言い分は厄介だった。

「必要最小限でいい」

灰原は言った。

「警察と内部監査が、事件性に関わる範囲だけを見る。公開はしない」

黒瀬は頷いた。

「その条件なら、通します」

彼は霧島へ視線を向けた。

「霧島さん。対象ファイルの抽出を」

「はい」

黒瀬が去ったあと、霧島は小さく息を吐いた。

速水が言う。

「黒瀬さん、相変わらずですね」

「会社側の人だよ」

霧島は言った。

「でも、今のは正しい」

「わかってる」

速水は短く答えた。正しいことが多すぎる。霧島の分類も、黒瀬の確認も、三枝の証拠主義も、全部正しい。それでも有馬は死んだ。

速水は、自分の中に湧く苛立ちを持て余した。灰原は、その苛立ちを見透かしたように言った。

「速水」

「はい」

「正しさを疑うな」

速水は灰原を見た。灰原は続けた。

「正しさの使われ方を疑え」

その言葉に、速水は返事をしなかった。ただ、モニターに表示された有馬のファイル一覧を見た。

瀬名透。

東湾トンネル崩落事故。

安全データ。

候補語記録。

そして、別のファイル名があった。

『self_name_observation』

速水は、その英語の文字列を見つめた。

自分の名前の観測。有馬千尋は、ただ傷ついていたのではない。自分の名前に何が結びつけられるのかを、見ていた。だが、その観測は誰かに利用された。

速水はクリックしようとして、手を止めた。灰原と三枝と霧島が見ている。ここから先は、ただのログ確認ではない。有馬千尋という人間が、何を見ていたのかを開くことになる。

霧島が、静かに言った。

「開けよう」

速水は霧島を見た。

「いいのか」

「見るしかない」

霧島は、自分に言い聞かせるように言った。

「今度は、分類する前に」

速水は、マウスを動かした。ファイルが開く。画面に、有馬千尋の観測ノートが表示された。


そこには、彼女自身の名前と、いくつかの観測語が記録されていた。調査報道ライターとしての信用を疑わせる言葉。炎上を示す言葉。金銭をめぐる不信を誘う言葉。

速水は画面を読み進めた。

そして、ホテルのPC画面に出ていたはずの言葉のうち、一つだけ、このノートに含まれていないことに気づいた。

彼女の仕事ではなく、容姿だけを切り取るあの言葉。

「……これ、有馬さんの観測語に入っていません」

灰原が顔を上げる。

「何が」

「ホテルのPCに出ていた候補語です。彼女の仕事ではなく、容姿を攻撃するあの言葉」

霧島も画面を覗き込んだ。

「ない」

速水は頷いた。

「有馬さんが観測していた語じゃない」

三枝が言った。

「外から混ざった」

「はい」

速水は、喉の奥で声を押さえるように答えた。

「誰かが、有馬さんの実験に別の悪意を足している」

灰原は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。

「その言葉を最初に広げたのは誰だ」

速水は検索ログを開き、SNS保存データと照合する。数秒後、一つの投稿が表示された。投稿者の名前を見て、霧島が呟いた。

「葛城玲奈」

三枝は、その名前を繰り返した。

「同業ライターか」

有馬千尋に嫉妬していた女。まだ姿の見えないその名前が、会議室の空気を少し変えた。

霧島の分類した警告。速水の見つけた逆順の候補語。三枝が押さえた非常扉ログ。

有馬の観測ノートにない、外から足された悪意。

点はまだ線になっていない。だが、次に見るべき場所は決まった。

灰原は言った。

「葛城玲奈に会う」

速水は画面を閉じなかった。

有馬の観測ノートには、まだ続きがある。

だが今は、その外から混ざった一語を追うべきだった。

検索する前に、問いは誰が決めているのか。

その問いの周囲に、少しずつ人間の顔が浮かび始めていた。

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