第3章 逆順の候補語

速水蓮は、朝から三度、同じログを見直していた。

見間違いではない。集計条件を変えても、検索対象を絞っても、時刻範囲を広げても、結果は変わらなかった。

順番が、逆だった。

NEXUS search本社、ランキング開発部。フロアの空気は、表向きには落ち着いていた。誰も大声を出さない。緊急対応を知らせる赤いランプも点いていない。モニターの前に座る技術者たちは、いつもどおりチケットを処理し、モデルの評価結果を確認し、検索品質の数値を見ている。

だが速水には、その静けさが以前より少し薄く感じられた。静かなのではない。静かにしている。

NEXUS searchは、以前よりも多くの言葉で自分たちを守るようになった。監査ルートが増え、透明性レポートが整備され、外部通報窓口も改修された。会議では「再発防止」「説明責任」「ユーザー信頼」という言葉が何度も使われた。

それでも、社内の奥には別の空気が残っている。

もう終わったことにしたい。誰も口には出さない。それでも、速水にはわかった。検索という仕組みは、たいてい見えないところで動いている。だから、見えないものを見ないことにするのも簡単だった。


速水はモニターに表示された検索ログを見つめた。

対象は、有馬千尋。

昨日の夕方から夜にかけて、有馬の名前に結びつく検索語が急増している。それ自体は、不自然ではない。彼女は今日の検索透明性フォーラムに登壇予定だった。報道関係者やSNSユーザーが名前を検索してもおかしくない。問題は、増え方だった。

最初に伸びたのは、有馬の記事や登壇テーマではない。

彼女の仕事の信用を疑わせる言葉だった。調査内容が作りものではないかと疑わせる言葉。本人が炎上しているかのように見せる言葉。金銭関係のトラブルを匂わせる言葉。

自然な関心というより、誰かが最初から疑う方向を揃えていたように見えた。

速水は、ログの時刻を再確認した。悪意ある候補語の一部が確認されたのは、十八時四十二分。その候補語を見た誰かが、SNSに最初の投稿をしたのは、十九時十分。

二十八分。

速水は、画面の端に表示された時刻差を見つめた。たった二十八分とも言える。だが、検索システムにとっては十分な差だった。

SNSで話題になり、それを受けて検索が増え、検索行動が蓄積され、候補語として出る。自然な流れなら、そうなる。

しかし、今回は違う。

候補語が先に出ている。それを見た人間が、SNSに書いた。そして、SNSを見た人間がさらに検索した。

速水は、椅子の背にもたれなかった。

背中を預けた瞬間に、考えが曖昧になる気がした。彼は別のウィンドウを開き、検索語の分布を確認した。自然な炎上なら、言葉はもっと散らばる。怒り方にも、疑い方にも、個人差が出る。ある人は「本当か」と検索し、ある人は「炎上理由」と検索し、ある人は過去の記事名や出演番組名を調べる。

だが今回、初動の検索語は妙に揃っていた。

同じ方向へ向かっている。同じ種類の疑いを、同じ時間帯に抱いたように見える。

偶然かもしれない。システム上の一時的な揺れかもしれない。

外部要因が、まだ見えていないだけかもしれない。

速水は、そう考えようとした。だが、画面の数字は、その考えをすぐに押し戻してくる。以前の事件でも、最初は小さな違和感だった。

数字が少し合わない。表示されるはずのものが表示されない。信頼指標が、説明より先に結論を選んでいる。

あのとき速水は、検索を信じていた。

今も、信じたい。

だが、信じることと疑わないことは違う。

速水はログを保存し、内部メモに短く書いた。

『候補語出現がSNS初投稿より先行。自然拡散ではなく、先行誘導の可能性。』

そこまで打って、手を止めた。

先行誘導。

自分で書いた言葉が、妙に重く見えた。

検索サジェストは、入力を助けるための機能だ。ユーザーが打とうとしている言葉を予測し、補助する。便利な機能。誰もが毎日のように使う、当たり前の機能。だが、予測は中立ではない。

何を出すか。何を出さないか。どの順番で見せるか。そこに少しでも歪みが入れば、人は自分が選んだと思いながら、誰かに選ばされる。

速水の端末が鳴った。

内部監査部からの連絡だった。灰原誠司。短い文面には、ホテルで見つかった有馬の外部通報レポートについて、検索ログ側から確認したい、とだけ書かれていた。相変わらず、無駄がなかった。

速水は画面を閉じ、ノートPCを持って立ち上がった。



検索補助開発部は、ランキング開発部とは別フロアにあった。

NEXUS searchの中でも、検索補助開発部は少し特殊な場所だった。ユーザーが検索窓に言葉を入れる前後の体験を扱う部署。サジェスト、関連検索、入力補助、トレンド表示、誤字補正。

検索結果そのものではなく、検索に至るまでの道筋を作る場所だ。速水は、エレベーターの中で自分のノートPCを抱え直した。

灰原は、検索補助開発部の会議室にいた。いつものように、スーツの上着を脱がず、姿勢も崩していない。机の上には紙の資料と端末が並んでいる。

技術者の会議室にいるには、少し異物のように見える。だが速水は、もうその違和感に慣れていた。

「また検索ですか」

速水が言うと、灰原は顔を上げた。

「お前の会社だ」

「あなたの事件です」

「死体が出たら、俺の管轄に見えるだけだ」

以前と変わらない返しだった。そのことに、速水は少しだけ安心した。


会議室には、灰原のほかに三枝徹がいた。湾岸署の刑事で、灰原が警察にいた頃の後輩にあたる男だ。警察の人間がNEXUS本社にいることに、フロアの社員たちは少なからず緊張しているはずだった。

三枝は速水に軽く頭を下げた。

「速水さん。ホテルのログは警察で押さえています。検索側の時刻を見たい」

「わかりました」

速水はノートPCを開き、画面を共有した。表示したのは、整理済みのログだった。すべてを見せる必要はない。むしろ、すべてを見せると本質が埋もれる。

灰原が画面を見る。

「有馬さんの名前に、悪意ある候補語が出始めたのは十八時四十二分です」

速水は言った。

「最初にSNSでそれを取り上げた投稿は、十九時十分」

三枝が目を細める。

「二十八分差」

「はい」

「普通はどうなる」

速水は少し考えた。

警察に技術説明をするとき、正確さだけでは足りない。相手がどこで証拠として扱えるかまで考えなければならない。

「普通は、先に外部で話題になります。SNS、ニュース、掲示板、動画、何でもいいです。その話題を見た人が検索する。検索が一定量発生して、候補語に反映される」

「今回は」

「候補語が先です」

灰原が言った。

「順番が逆、ということか」

速水は頷いた。

「順番が逆です」

その言葉を口にすると、ログの違和感がさらに明確になった。

「炎上したから候補語が出たんじゃありません。候補語が出たから、炎上したように見えている」

会議室が静かになった。三枝は腕を組んだまま、画面を見ていた。

「それは、誰かが候補語を先に出したという意味ですか」

「断定はできません」

速水はすぐに答えた。

「サジェストは一つの要因だけで出るわけではありません。検索量、関連語、地域、端末、過去の検索傾向、トレンド、いろいろな要素が絡みます。ただ、今回の初動は不自然です」

「不自然というのは」

「検索した人数より、検索語の揃い方が不自然なんです」

速水は、もうひとつのグラフを開いた。

有馬千尋の名前と一緒に検索された語の分布。自然な関心なら、言葉はばらけるはずだった。だが初動では、有馬の信用を疑わせる方向に言葉が寄っている。

速水は、候補語そのものを必要以上に羅列せずに説明した。

「彼女の記事の内容を調べる語よりも、彼女が嘘をついているのではないかと疑う語のほうが先に伸びています。さらに、金銭トラブルや炎上を連想させる語も、同じ時間帯に出ている」

「同じ方向へ疑わせる動きがある」

三枝が言った。

「はい」

速水は頷いた。

「少なくとも、そう見えます」

灰原は黙って聞いていた。

三枝が言う。

「誘導する方法はあるんですか」

「あります。ただし、簡単ではありません」

「簡単でないなら、誰でもできるわけではない」

「はい」

速水は画面を切り替えた。

小規模な掲示板やSNSで、特定の語を含む短文を先に置く。動画タイトルや記事見出しに同じ語を散らす。少数でも、同じ言葉で短時間に検索させる。そうすれば、大きな炎上が起こる前に、検索側へ一定の偏りを作れる可能性がある。

さらに、異常報告フォームに意味の薄い報告を大量に流せば、本物の通報は埋もれやすくなる。

三枝は、そこで少し表情を変えた。

「異常報告フォーム?」

「ユーザーが検索結果やサジェストに問題を報告する窓口です。外部通報ルートとあわせて強化されました」

灰原が短く言った。

「強化した窓口を、逆に使われた可能性がある」

速水は頷いた。

「まだ可能性です。ただ、ノイズが多すぎます。有馬さんに関する報告の周辺に、意味の薄い報告が大量に流れている。人間が見ると、重要度が下がる」

三枝は小さく息を吐いた。

「警察でもあります。通報が多すぎると、本当に危ないものが埋もれる」

「検索でも同じです」

速水は言った。

「ただ、検索の場合は、埋もれるだけじゃない。埋もれた結果、人の疑い方が変わる」

灰原が速水を見る。

「お前は、これは自殺の理由が後から作られたと言いたいのか」

「自殺かどうかは、僕にはわかりません」

速水は正直に言った。

「でも、少なくともネット上の流れは自然ではありません。有馬さんが追い詰められたから候補語が出た、という説明は成り立たない。候補語のほうが先にある」

灰原は、しばらく何も言わなかった。その沈黙が、速水には少し重く感じられた。


以前、速水は灰原に何度も検索ログの説明をしたことがある。灰原は技術の細部をすべて理解したわけではない。

だが、どこで人間が嘘をつくのかを見抜いた。今回も同じだった。速水が見るのはログだ。灰原が見るのは、ログの向こうにいる人間だ。

「ホテルの部屋には、自殺の理由が揃っていた」

灰原が言った。

「PCに有馬さんの名前。悪意ある候補語。SNSの批判。最後の追記」

「追記?」

速水が聞き返す。灰原は端末を操作し、有馬の最後の一文を見せた。

『私は、私の名前を見ていました。』

速水はその文を見た。

短い。だが、妙に冷たい。絶望の言葉というより、観測記録に近い。

「この文をどう読む」

灰原が聞いた。

速水は少し迷ったあと、答えた。

「自分への中傷を見ていた、という意味にも読めます」

「そうだな」

「でも……」

「でも?」

「検索サジェストを調べていた人なら、別の意味にも読めます」

速水は画面から目を離さずに言った。

「自分の名前を、観測対象として見ていた」

灰原はわずかに頷いた。

「俺もそう感じた」

三枝が二人を見比べた。

「つまり、有馬さんは自分への悪口を見て死んだんじゃなく、自分の名前を使って何かを調べていた」

「可能性です」

速水は言った。

「ただ、その場合、部屋に残された検索画面はおかしい」

「なぜ」

「本当に観測していたなら、もっとログや記録を見ます。候補語が出たかどうかだけではなく、いつ、どこで、どの環境で、どの順番で出たかを見るはずです」

灰原が続けた。

「なのに、部屋には結果だけが残されていた」

速水は頷いた。

「はい。あれは、調査画面というより、見出しです」

三枝が言った。

「死ぬ理由の見出し」

灰原は三枝を見た。

「お前も言うようになったな」

「現場で覚えました」

三枝は表情を変えずに言った。

会議室の扉が軽く叩かれた。入ってきたのは、眼鏡をかけた男だった。三十代前半。清潔感のあるシャツに、紺色のカーディガン。技術者らしいラフさはあるが、だらしなさはない。手にはタブレットを持っている。

速水の表情が、わずかに変わった。

「霧島」

男は、速水を見て小さく頷いた。

「蓮」

名前で呼んだ。灰原は、その一言で二人の距離を理解した。社内でただの同期が、全員の前で下の名前を使うことは多くない。少なくとも、関係が浅い人間同士の呼び方ではなかった。

霧島直哉。

検索補助開発部、サジェスト品質評価チーム。速水とは入社時からの同期だと、事前に聞いていた。霧島は灰原と三枝へ向き直った。

「検索補助開発部の霧島です。有馬さんの外部通報について、処理履歴を持ってきました」

声は落ち着いていた。説明に慣れた声だ。技術者でありながら、会議で相手を迷子にしないタイプの話し方。速水とは違う。


霧島がタブレットを机に置く。

「昨夜十八時三十分に届いた追加レポートは、検索補助開発部の一次確認対象に入りました。個人名サジェストに関する通報として処理されています」

「処理したのはあなたですか」

三枝が聞いた。

霧島は、少しだけ間を置いた。

「はい。一次分類は僕です」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る