第2章 追記された名前

有馬千尋の外部通報レポートは、NEXUSの内部監査部にも転送されていた。正確には、転送されるようになっていた。

あの事件のあと、NEXUS searchは外部からの通報窓口を再整備した。検索品質、AI要約、広告表示、ランキング操作、不正な削除申請、透明性レポートへの疑義。そうしたものを受け付ける窓口を一本化し、一定の条件に該当するものは、法務、広報、検索品質部門、内部監査部へ同時に共有される仕組みに変えた。

表向きには、再発防止策だった。だが灰原には、それがどこか、傷跡の上に貼られた透明なフィルムのように見えていた。

傷は見える。処置をしたことも見える。ただし、それで治ったかどうかは別の話だ。

三枝は少し離れたところで、部下に指示を出している。灰原は端末の画面に視線を戻した。

『予測入力による疑惑語増幅の異常について:追加資料』

送信時刻は、前日の十八時三十分。有馬千尋が死んだのは、その数時間後だ。少なくともこの時点で、彼女はNEXUSへ資料を送り、翌日のフォーラムで何かを話そうとしていた。自分の死を準備していた人間の動きには見えない。

もちろん、人はいつでも死ぬことができる。資料を送った直後に、絶望することだってある。だが灰原は、死ぬ人間の行動を簡単には信じない。死ぬ理由は、あとからいくらでも見つかる。

問題は、生きようとしていた理由が残っているかどうかだ。有馬のレポートには、検索サジェストに関する観測記録が添付されていた。

冒頭に、短い一文がある。

『検索窓に名前を入れる前から、検索は始まっている。』

灰原は、そこで一度指を止めた。

有馬は続けていた。

『ユーザーがすべての言葉を自分で選んでいるとは限らない。入力途中で提示される候補語、関連する検索語、他人が検索したように見える言葉。それらは、検索の補助であると同時に、疑いの入口にもなる。』

文章は冷静だった。怒りはある。だが、感情のまま書かれた文ではない。

候補語の出現時刻。

SNSで拡散される前後の差分。

外部媒体で使われた見出しとの一致。

検索流入の変化。

一度表示されたあと、見えにくくなった語。

ひとつひとつが、観測記録として並べられている。そこには、自分に向けられた悪意を、ただ嘆いている人間の文章はなかった。むしろ、傷つきながらも記録を続けた人間の跡があった。

「灰原さん」

三枝が戻ってきた。

「ホテル側にログの保全をかけました。非常扉は十八階東端だけでなく、下層の業務区画側も取ります。Wi-Fiは時間がかかるかもしれませんが、接続履歴は残っているそうです」

「助かる」

「礼を言われる筋合いじゃありません。こっちの仕事です」

三枝の口調は、やや硬い。灰原は端末から顔を上げた。

「自殺で処理したい空気があるか」

「ホテルにはあります。NEXUSにもあるでしょう」

三枝は廊下のほうを見た。

「フォーラム当日に登壇者が死んだ。しかもネット炎上を苦にした自殺に見える。ホテルも企業も、それが一番説明しやすい」

「警察は」

「説明しやすいかどうかでは決めません」

三枝はそこで一度言葉を切った。

「ただ、説明しやすい現場は、現場の外から押されます」

灰原は小さく頷いた。

三枝は優秀だった。それは、現場の細部を読む力だけではない。現場の外側から何が押してくるかを知っている。警察にとって、それもまた捜査の一部だった。

「そのレポートには何が?」

「有馬さんは、自分の名前を使って検索サジェストの観測をしていた」

「自分の名前を?」

「ああ」

灰原は、画面を三枝へ向けた。

「自分の名前に悪意ある候補語がどう結びつくか。どの時刻に出て、どこで拡散され、どう消えるか。それを記録している」

三枝は眉をひそめた。

「自分を実験台にした、ということですか」

「そう見える」

「危ない人ですね」

「危ない調査だ」

灰原は訂正した。

「人間まで危ないかどうかは、まだわからない」

三枝は一瞬だけ灰原を見た。

昔なら、その言い方に何か返していたかもしれない。だが今は何も言わなかった。

部屋の中に、開いたままのノートPCがある。その画面には、有馬の名前が表示されている。灰原は、その画面をもう一度見た。

表示されていた候補語は、どれも人を傷つけるために十分だった。調査報道ライターの信用を壊す言葉。彼女の取材を疑わせる言葉。金銭をめぐる不信を匂わせる言葉。そして最後に、彼女の仕事ではなく容姿だけを切り取る言葉。

だが、有馬のレポートを読むほど、それらは彼女の絶望ではなく、観測対象に見えてきた。

灰原は、追記の一文をもう一度開いた。

『私は、私の名前を見ていました。』

三枝が言った。

「自殺する前の言葉にしては、落ち着きすぎていますね」

「そうだな」

「自分の悪評を見ていたというより、自分の名前を観察していたように見える」

灰原は三枝を見た。

「今のは、違和感か」

「いいえ」

三枝は首を振った。

「まだ、文章の感想です」

「いい答えだ」

三枝は不本意そうな顔をしたが、否定しなかった。


有馬のPCには、フォーラム用のスライドが残されていた。三枝が鑑識に確認を取り、灰原は画面そのものには触れず、印刷された資料と、モニターに表示されたプレビューだけを確認した。

タイトルは、すでに紙で見たものと同じだった。

『検索する前に、問いは誰が決めているのか』

灰原はその一文を、しばらく眺めた。

かつて灰原は、検索結果の最上部で「答え」が歪められる瞬間を見た。NEXUSの0位。検索結果の最上部に表示されるAI要約。多くの人間が、本文を読む前にそこで納得する場所。

だが有馬が見ていたのは、そのさらに手前だった。

人は検索する前に、何を疑うのか。

何を知りたいと思うのか。

どの言葉を打ち込むのか。

その入口に、すでに誰かの手が入っていたら。

灰原は、次のスライドを見た。途中まで作られた図がある。検索窓、候補語、SNS投稿、ニュース見出し、再検索。いくつもの矢印が、画面の中で循環している。

どこかから生まれた疑いが検索され、検索された言葉が候補語になり、候補語を見た人間がSNSに書き込み、その投稿を見た別の誰かがまた検索する。そういう流れを示しているようだった。

だが、説明文は途中で止まっていた。

『表示された候補語ではなく、消えた候補語を――』

その先は空白だった。

灰原は画面を見たまま言った。

「消えた候補語」

三枝が横で聞き返す。

「何です?」

「この資料の続きを、有馬さんは書こうとしていた」

「表示された候補語ではなく、消えた候補語を、ですか」

「ああ」

三枝は少し考えた。

「今の画面に出ている言葉ではなく、出なくなった言葉を見るべきだと?」

「有馬さんは、そう考えていたのかもしれない」

「ですが、今の現場では、出ている言葉のほうが目立つ」

「そうだ」

灰原は、PC画面を見た。部屋に残されているのは、出ている言葉だった。しかし、有馬の資料は、消えた言葉を見ようとしていた。

そのずれは、小さくなかった。

三枝の端末が鳴った。彼は短く応じ、いくつか確認してから通話を切った。

「NEXUS側から、広報担当者が来るそうです」

「黒瀬か」

「知り合いですか」

「会社を守るのが仕事の人間だ」

三枝は、それだけで理解したようだった。

「フォーラムは中止ですかね」

「延期と言うだろうな。中止という言葉は、負けを認めるように聞こえる」

「企業の言葉は難しいですね」

「警察の言葉も似たようなものだ」

三枝は否定しなかった。



黒瀬亮介がホテルに到着したのは、それから二十分ほど後だった。彼はNEXUS search公共政策部長として、対外説明や危機対応を統括する立場にあり、何度か灰原と顔を合わせている。今日も隙のないスーツ姿で現れたが、顔色は悪かった。

「灰原さん」

「黒瀬さん」

「状況は」

「警察が見ている」

「そういう意味ではありません」

黒瀬の声は抑えられていた。近くに警察官がいるためか、それともホテルスタッフの耳を意識しているためか。

「有馬さんは、今日のフォーラムの登壇者です。報道関係者も来ます。NEXUSとして、どこまで把握しているか確認しなければなりません」

「亡くなった人間のことより、把握している範囲か」

黒瀬は一瞬だけ目を伏せた。

「言い方を間違えました」

「正しい言い方だった」

灰原は淡々と言った。

「会社はそう考える」

黒瀬は反論しなかった。この人間は、隠すために嘘をつくタイプではない。会社を守るために、言うべきことと言わないことを選ぶタイプだ。

「有馬さんから外部通報が来ていた」

灰原が言うと、黒瀬の表情が変わった。

「外部通報?」

「昨夜十八時三十分。追加レポートが送られている」

「私にはまだ共有されていません」

「内部監査部には来た」

黒瀬は奥歯を噛むように、一度だけ口を閉じた。再発防止策として整備したはずのルート。それでも情報は、必要な人間へ同じ速度では届かない。

「内容は」

「予測入力による疑惑語増幅」

黒瀬は眉を寄せた。

「検索サジェストですか」

「そうだ」

「今回の件と関係が?」

「有馬さんの部屋には、自分の名前を検索した画面が残されていた」

「それなら、むしろ――」

「自殺に見える」

灰原が先に言った。黒瀬は口を閉じた。

「そう見える材料が、部屋には残っている」

黒瀬は灰原を見た。

「殺人だと言っているんですか」

「まだそこまでは言っていない」

灰原は同じ言葉を繰り返した。

「ただ、自殺として説明しやすい現場だとは思っている」

黒瀬は、静かに息を吐いた。

「またNEXUSですか」

その声には、疲労が混じっていた。灰原は答えなかった。

またNEXUSなのか。それとも、NEXUSという巨大な検索の仕組みを、誰かが利用しているのか。

まだわからない。ただひとつだけ、わかることがある。

有馬千尋は、検索サジェストの異常をNEXUSに知らせていた。その数時間後に死んだ。偶然として処理するには、早すぎた。


黒瀬が三枝へ挨拶に向かったあと、灰原は有馬のプロフィール資料を開いた。NEXUSの登壇者紹介ページに掲載されていた写真が表示される。

有馬千尋は、画面の中で静かに笑っていた。整った顔立ち。短く整えられた髪。淡い色のジャケット。視線はまっすぐで、カメラを意識しすぎていない。

紹介文では、彼女は調査報道ライターであり、データジャーナリストであり、ネット世論や企業不祥事、評判操作を追ってきた人物として紹介されていた。その下に、過去の出演番組や記事へのリンクがあった。

いくつかの見出しには、彼女の調査内容ではなく、容姿を前面に出す言葉が混じっていた。

美人ジャーナリスト。

冷静すぎる美女ライター。

炎上を斬る美貌の調査報道家。

灰原は、そうした見出しを一つずつ見た。有馬千尋が追っていたのは、言葉が人をどう見るかを決める仕組みだった。だが彼女自身もまた、言葉によって見られていた。

記事ではなく、顔。調査ではなく、印象。データではなく、見出し。そのことに、彼女が無自覚だったはずはない。

灰原は、有馬のレポート本文へ戻った。そこには、自分の名前を観測対象にした理由が書かれていた。

メディア露出のある個人名が、悪意ある候補語とどのように結びつくかを測る。第三者を対象にすれば、その人物を傷つけることになる。自分の名前であれば、変化をリアルタイムで追うことができる。

候補語の出現。拡散。消失。そのすべてを記録できる。

灰原は、その説明を読んで眉を寄せた。理屈はわかる。だが危うい。自分の名前を観測対象にするということは、自分自身に向けられる悪意を、研究対象として受け止め続けるということだ。どれだけ冷静な人間でも、無傷ではいられない。有馬はそれをわかっていただろうか。

いや、わかっていたからこそ、あの追記を残したのかもしれない。

『私は、私の名前を見ていました。』

その一文は、告白というより記録に近かった。

三枝が戻ってきた。

「黒瀬さんと話しました。フォーラムは当面延期。発表文は警察とすり合わせるそうです」

「いつもの流れだな」

「ホテル側も同じです。事故か自殺か、早く方向性を知りたがっている」

「方向性」

灰原はその言葉を繰り返した。

「人が死んでいるのに、便利な言葉だ」

「ええ」

三枝は否定しなかった。

「ですが、現場ではよく使います。事故か、自殺か、事件か。方向性がなければ、動かす人員も変わる」

「だから、最初の方向性を間違えると、人が見えなくなる」

三枝は少しだけ黙った。

「それを言われると、痛いですね」

灰原は端末を閉じた。

「外部通報の全文を確認する。NEXUS側の処理経路もだ」

「警察にも共有できますか」

「法務が嫌がる」

「でしょうね」

「だが共有する」

三枝は、ほんのわずかに笑った。

「元警察なのに、雑ですね」

「警察を辞めたからな」

「なるほど」

二人の間に、わずかな沈黙が落ちた。その沈黙は、昔の関係の続きではなかった。元先輩と元後輩ではない。内部監査官と刑事。それぞれの立場で、同じ死体を見ている。

三枝が言った。

「灰原さん」

「何だ」

「俺は、自殺の可能性を捨てません」

「もちろんだ」

「ただ、あなたの違和感も捨てません」

「それでいい」

三枝は頷いた。

「なら、こちらは現場を詰めます。非常扉、カメラ、Wi-Fi、退館記録。人の動きは警察が追う」

「こちらは、言葉の動きを追う」

「言葉の動き、ですか」

「有馬さんは、それを見ていた」

灰原はPCを見た。画面には、まだ有馬の名前が残っている。

「そしてたぶん、誰かはそれを見せたがっていた」

灰原がホテルを出る前に、もう一度だけフォーラム会場の入口へ回った。低層棟のホール前には、スタッフが集まっていた。延期の連絡、来場者への対応、報道への説明。誰も大声は出していないが、空気は張りつめている。案内板の横に、有馬千尋の登壇タイトルが掲示されていた。

『検索する前に、問いは誰が決めているのか。有馬千尋』

灰原は、その文字を見た。彼女は、その問いを話すはずだった。検索結果の上に表示される答えではなく、検索窓に言葉を入れる前の話を。

その問いを、誰かが嫌がった。あるいは、その問いに答えられることを恐れた。

灰原の端末が再び震えた。

内部監査部から、追加の転送だった。有馬のレポート内に添付されていた別ファイルの抽出が完了したらしい。ファイル名に、見覚えのない名前があった。

『瀬名透』

灰原は足を止めた。

東湾トンネル崩落事故。瀬名透。消えた候補語。有馬千尋の死。

これらは、まだ点にすぎない。だが、その点は同じ方向を向き始めていた。

灰原は、案内板の前から歩き出した。

検索する前に、問いは誰が決めているのか。有馬千尋は、その問いを残して死んだ。

いや、灰原は考え直した。

その問いを残したまま、殺されたのかもしれない。


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