第6話「手触りの消失」
最近、財布が軽い。
佐伯は通勤電車の中で、それに気づいた。
物理的に軽いのではなく、中身が減っている。
小銭がほとんど入っていない。
以前は、仕事帰りにコンビニへ寄れば自然に硬貨が増えた。五百円玉、百円玉、十円玉。財布はいつも少し膨らんでいた。
しかし今は違う。
改札も、コンビニも、自動販売機も、スマートフォンをかざせば終わる。
財布を開く機会そのものが減った。
朝、会社近くのカフェでコーヒーを買った時もそうだった。
若い店員が「タッチでお願いします」と言う。
佐伯は無言でスマートフォンを端末に近づける。
決済音。
それだけだった。
現金を渡す時間がない。
千円札を出し、釣り銭を受け取り、「ありがとうございます」と言われる、あの短いやり取りが消えている。
便利だな、と最初は思った。
実際、便利なのだ。
財布を持たずに出かけられる。
レジは速い。
ポイントも貯まる。
会社でも、経費精算は完全キャッシュレスになった。
昔は領収書を封筒に入れ、総務へ提出していたが、今はスマートフォンで撮影して終わりである。
そのほうが合理的なのだろう。
しかし最近、佐伯は少しだけ怖くなる時があった。
自分が「お金を払っている感覚」を失い始めている。
昼休み、若い社員たちは当然のようにスマホ決済を使っていた。
現金を出す人間のほうが少ない。
後輩の一人が、「もう現金って災害の時くらいしか使わないですよね」と笑っていた。
佐伯は曖昧に頷いた。
その言葉を聞きながら、なぜか駅前から消えた小さな商店のことを思い出していた。
個人経営の弁当屋だった。
昔、営業帰りによく寄っていた。
現金しか使えない店だった。
レジ横には手書きのメニュー表があり、会計のたびに店主が小銭を数えていた。
二年前、閉店した。
理由は知らない。
ただ、その跡地には今、無人餃子販売所が入っている。
白い蛍光灯。
防犯カメラ。
料金箱。
人はいない。
佐伯は、最近の街には「途中」がなくなっている気がした。
現金には途中があった。
財布を出す。
硬貨を探す。
受け渡す。
数える。
そういう小さな時間。
しかしキャッシュレスには、それがない。
一瞬で終わる。
摩擦がない。
摩擦がないということは、考える暇もないということだった。
気づけば払っている。
気づけば契約している。
気づけば引き落とされている。
動画配信サービス。
音楽アプリ。
クラウドストレージ。
子どものゲーム課金。
毎月、自動的に金が流れていく。
どこへ流れているのか、実感がない。
会社でも似たような話が増えていた。
サブスクリプション。
ストック収益。
継続課金。
「所有から利用へ」。
会議で部長がそう言っていた。
佐伯はその時、妙に乾いた気持ちになった。
利用。
最近の社会には、その言葉が増えすぎている。
家も、車も、音楽も、映像も。
持たなくなる。
その代わり、ずっと払い続ける。
所有しないから、失う痛みも少ない。
しかし同時に、「自分のもの」という感覚も薄くなる。
夜、帰宅すると、娘が動画を見ながら笑っていた。
息子はゲーム機を握っている。
妻はネットスーパーの注文画面を見ていた。
どれも、画面の中で完結している。
佐伯は食卓に財布を置いた。
黒い革財布だった。
十年以上使っている。
角が擦れている。
開くと、古いレシートが入っていた。
紙のレシートを見る機会も減った。
最近は「電子レシートはこちら」と表示される。
紙が消え、硬貨が消え、人が消える。
その代わり、社会はどんどん滑らかになっていく。
しかし滑らかになりすぎると、自分が何に触れているのか分からなくなる。
佐伯はふと、ガチャガチャのことを思い出した。
あの時は、ちゃんと五百円玉を入れた感触があった。
ハンドルを回す重さがあった。
カプセルを手に取る瞬間があった。
小さな当たりですら、物理的だった。
今の社会は、その「手触り」を少しずつ失っているのかもしれない。
帰宅後、近所のスーパーへ牛乳を買いに行く。
セルフレジには誰も並んでいない。
佐伯は牛乳を読み取らせ、スマートフォンをかざした。
決済音。
それだけ。
出口を出る時、一瞬、自分が本当に金を払ったのか不安になった。
財布を見る。
小銭は減っていない。
しかし、口座の数字だけが減っている。
その感じが、妙に現代的だった。
夜風が少し湿っていた。
遠くで電車が通る音がする。
コンビニの明かりの横で、外国人の配送員がスマートフォンを見ながら立っていた。
街全体が、見えない数字で動いている気がした。
佐伯はスマートフォンを取り出し、メモを開く。
「金を払った感覚が消えている」
少し考えてから、もう一行書いた。
「見えないものばかり増えていく」
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