第7話「自動再生の輪廻」

最近の電車は静かだ、と佐伯は思う。


もちろん音はある。


走行音。ドアの開閉音。広告動画の電子音。誰かの咳払い。


しかし、昔より「人の気配」が薄い。


ほとんどの乗客がイヤホンをつけているからだった。


朝の通勤電車。


向かいに座った高校生は、無表情のまま小刻みに指を動かしている。隣の男は目を閉じ、首だけがわずかに揺れていた。ワイヤレスイヤホンは、外から見ると少し奇妙だった。


みんな、別々の世界へ接続されている。


佐伯も最近、音楽アプリを使うようになった。


月額制のサブスクリプション。


娘に勧められて始めた。


「お父さん、まだCDとか言ってるの」


半分笑いながらそう言われた。


実際、便利だった。


検索すれば何でも出てくる。


昔好きだったバンドも、学生時代に聴いていたジャズも、仕事帰りに偶然耳にした海外の曲も、すぐ再生できる。


それなのに、佐伯は時々、自分が何を聴いたのか思い出せなくなる。


曲は流れている。


しかし残らない。


会社帰り、佐伯は一駅前で降り、商店街を歩いていた。


シャッターの閉まった古いレコード店がある。


もう何年も営業していない。


色褪せたポスターだけが窓に貼られたままだった。


高校生の頃、佐伯は駅前のCDショップへ行くのが好きだった。


欲しいアルバムを買うために、何週間も迷った。


小遣いは限られていた。


だから、一枚を繰り返し聴いた。


歌詞カードを開き、何を書いているのか考えた。


意味は完全には分からなかったが、「誰かが本気で何かを伝えようとしている」という感覚だけはあった。


夜、部屋を暗くしてヘッドホンをつける。


それだけで、少し遠くへ行ける気がした。


今は違う。


音楽は常に流れている。


コンビニ。


美容室。


カフェ。


動画アプリ。


短い動画の後ろでも、切り刻まれたサビだけが繰り返される。


音楽は「聴くもの」というより、「途切れさせないためのもの」になっている気がした。


沈黙を埋めるための音。


昼休み、若い社員たちが流行曲の話をしていた。


しかし曲名より、「SNSで流れてきた」という言い方のほうが多かった。


佐伯はその感じが少し不思議だった。


昔は、音楽には「探す時間」があった。


中古CD屋を回る。


雑誌を読む。


深夜ラジオを聴く。


その遠回りの時間ごと、音楽だった。


今は、最初から全部ある。


おすすめ。


ランキング。


自動再生。


選ぶ前に流れてくる。


便利になったはずなのに、自分の感情が薄くなっている気がする時があった。


帰宅すると、娘がイヤホンをつけたままリビングで勉強していた。


息子はゲームをしながら動画を見ている。


妻は料理動画を流していた。


家の中に、それぞれ別の音がある。


しかし、誰の音も共有されていない。


佐伯はふと、昔の父親を思い出した。


休日になると、古いステレオで演歌を流していた。


同じ曲ばかりだった。


子どもの頃は退屈だったが、今思うと、父はあの音楽の中にいたのだと思う。


音楽を「流していた」のではなく、「浸っていた」。


それは少し不器用で、少し古い時間だった。


佐伯は本棚の下から、昔のCDケースを取り出した。


透明なプラスチックは黄ばんでいる。


開くと、歌詞カードが入っていた。


折り目。


小さな文字。


クレジット。


誰がどの楽器を弾いたかまで書いてある。


その細かさを見ていると、「作る側にも時間があった」のだと思った。


今は、曲も短くなった。


すぐサビに入る。


すぐ次へ流れる。


最後まで聴かれる保証がないからだ。


社会全体が、待てなくなっているのかもしれなかった。


音楽だけではない。


動画も。


ニュースも。


人間関係も。


全部が少しずつ短くなっている。


佐伯はCDをプレイヤーに入れた。


久しぶりだった。


読み込み音がして、少し間が空く。


その「待つ時間」が、妙に懐かしかった。


曲が流れ始める。


音は古かった。


でも、古いというより、「重さ」があった。


誰かが時間をかけて作った音。


誰かが繰り返し聴かれることを前提に作った音。


佐伯はソファに座ったまま、しばらく動かなかった。


窓の外では、遠くを電車が走っている。


その音と音楽が混ざっていた。


昔、自分はもっと長く何かを考えていた気がする、と佐伯は思った。


今は、考える前に次の情報が流れてくる。


感情が深く沈む前に、別の動画が始まる。


そうやって、社会全体が少しずつ浅くなっているのかもしれない。


しかし、それでも人はイヤホンを耳につける。


完全な無音には耐えられないからだ。


孤独を消すために、音を流し続ける。


佐伯はスマートフォンを取り出し、メモを開いた。


「音楽がBGMになっている」


少し考えてから、もう一行書き加える。


「感情まで、シャッフル再生されている」

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