第2部
第21話 便利になった世界で
魔族復活事件から3年が過ぎた。
世界は、思ったより早く変わった。
変えたのは勇者たちだった。
魔族との戦いが終わり、王国の再編も一段落すると、大陸各地に残った勇者たちは急に暇を持て余した。元の世界には戻れない。かといって、毎日魔王を倒す仕事があるわけでもない。
そこで彼らは、自分たちの知識を持ち寄り始めた。
上下水道。
電気。
舗装された道路。
蒸気と魔法を組み合わせた交通網。
そして、魔法通信網。
その中でも特に急速に広まったのが、個人向けの携帯端末である。
名前はMPhone。
命名については、何人かの勇者が最後まで揉めたらしい。もっと気の利いた名前にしようという意見もあったが、結局、わかりやすさが勝った。
小さな板状の端末で、魔力結晶を電源にし、文字の送受信、音声通話、動画配信、地図、掲示板、簡単な決済までできる。
最初は勇者たちの道具だった。
だが、便利なものは広がる。
商人が使い、役人が使い、冒険者が使い、やがて現地民にも少しずつ普及した。
もちろん、便利なものが広がる時、問題も一緒に広がる。
それをまだ、多くの人間は知らなかった。
イロイ共和国の外れにある小さな家で、煇は朝食の皿を片づけていた。
かつて前勇者と呼ばれた男は、今では共和国の調査協力者という曖昧な立場にいる。旧セナン王国併合後の調査、旧ゼット帝国の記録、勇者召喚に関する研究。面倒な仕事は多いが、毎日剣を振るうよりは静かだった。
セリアは庭で洗濯物を干している。
その足元を、小さな女の子が走り回っていた。
ユメ。
2歳になったばかりの、煇とセリアの娘である。
髪はセリアに似て柔らかく、目元は煇に似て少しきつい。だが、笑うとどちらにも似ていないくらい無防備だった。
「ユメ、そっちは泥」
セリアが言う。
ユメは聞いていない。
小さな足で庭の端へ向かう。
煇は窓越しにそれを見ていた。
平和だった。
少なくとも、その瞬間までは。
セリアが洗濯籠へ手を伸ばし、ほんの数秒だけ目を離した。
次に振り返った時、ユメはいなかった。
「……ユメ?」
セリアの声が変わった。
煇はすぐに外へ出た。
庭を見回す。
家の裏。
井戸のそば。
畑のあぜ道。
いない。
足跡はあった。
小さな子どもの足跡。
そして、それとは別の、もっと小さく、しかし人間とは少し違う足跡。
煇の表情が変わる。
「セリア、近所に聞く。君は家の周りを」
「わかった」
セリアの声は震えていたが、動きは早かった。
2人は手分けして探した。
近くの農家、道端の商人、通りがかった郵便馬車の御者。MPhoneでも近隣へ連絡を回す。
最初に証言を得たのは、畑にいた老人だった。
「小さい子が、誰かと一緒に森のほうへ歩いていくのを見た」
「誰か?」
煇が聞く。
「小人みたいな影だった。子どもより小さいが、子どもじゃない。顔はよく見えなかった」
セリアは唇を噛んだ。
小人。
この大陸には、小人と呼ばれる種族はいない。
少なくとも、一般的には。
煇は足跡をもう一度見た。
人間のものではない。
そして、魔族の記録に似た形があった。
魔族復活事件は終わったはずだった。
だが、全てが消えたとは誰も証明できていない。
同じ日、アズーロ王国でも大きな儀式が行われていた。
アズーロはこの3年で急速に発展した国である。資源が豊富で、勇者たちの技術をうまく取り入れ、税収も増えた。その玉座の間は、セナン王国のものよりずっと新しく、ずっと派手だった。
女王ディアスは、金の装飾がついた椅子に座り、退屈そうに爪を見ていた。
「勇者召喚って、もっと見栄えするのよね?」
彼女は側近に尋ねた。
「はい。女神の神託に従い、偉大なる勇者が」
「説明はいいわ。見栄えの話をしているの」
側近は黙った。
ディアス女王は政治能力のなさを自覚している。だから、自分が興味のない実務にはあまり口を出さない。その点だけは、周囲にとって救いだった。
ただし、自分の見栄に関わることには口を出す。
勇者召喚は、見栄えがよさそうだった。
だから行われた。
魔法陣が光り、そこに1人の男が現れる。
青木昌平。
後にショウヘイと呼ばれる男である。
彼は床に膝をつき、すぐに顔を上げた。
「ここは……異世界か」
第一声だけなら、それらしかった。
だが、続きが悪かった。
「俺を呼んだのは正解だ。俺はマーチ卒のエリートだからな」
玉座の間が静まり返った。
ディアス女王は小首を傾げる。
「まーち?」
「知らないのか。まあ無理もない。俺は選ばれた側の人間だ。元の世界でも、俺を理解できる奴は少なかった」
ショウヘイは立ち上がろうとした。
そして、ふらついた。
鑑定が行われる。
結果は奇妙だった。
ステータスは極端に低いわけではない。
だが、常時自分自身に複数の弱体効果がかかっていた。筋力低下、持久力低下、集中阻害、睡眠不良、魔力循環不全。さらに、薬物耐性という使い道のわからない能力まである。
側近たちは困惑した。
ディアス女王は、数分で飽きた。
「使い道あるの?」
「現時点では、判断が難しく」
「じゃあ外へ。冒険でも何でもしてきてもらって」
こうして、ショウヘイは召喚されたその日のうちに、ほとんど放逐された。
同じ日、旧セナン領でも別の勇者召喚が行われていた。
セナン王国はもうない。
だが、女神信仰と召喚の儀式だけは一部地域に残っていた。共和国の管理下で慎重に行われた儀式の結果、現れたのは1人の男だった。
村木光。
日本では名の知れた配信者だった男である。
彼は召喚直後、周囲を見回し、最初にこう言った。
「端末ってあります? 記録したいんで」
神官たちは困惑した。
だが、光はすぐにMPhoneの存在を知り、使い方を覚えた。
彼は自分が召喚された状況を整理し、周囲に質問し、記録し、配信を始めた。
この世界に来たばかりの勇者としては、かなり落ち着いていた。
そして、疑うことに慣れていた。
女神の神託。
勇者召喚。
旧ゼット帝国。
魔族。
それらの言葉を聞いた時、光はすぐに思った。
物語として、きれいすぎる。
きれいすぎる話には、だいたい隠している部分がある。
その日、世界では3つの出来事が同時に起きた。
煇の娘ユメが消えた。
アズーロ王国にショウヘイが召喚された。
旧セナン領に村木光が召喚された。
この3つが同じ線でつながっていることを、まだ誰も知らなかった。
ただ、煇だけはその日の夕方、森の入口で小さな足跡を見つめながら、嫌な予感を抱いていた。
3年前に終わったはずのものが、終わっていない。
そういう予感だった。
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