第18話 もう一度強くしてくれ

 黎人は地下へ向かっていた。


 本人としては、堂々と向かっているつもりだった。


 実際には、壁に手をつき、足元を気にしながら、途中で何度も立ち止まっている。王城の地下階段は暗く、湿っていて、ところどころ石が欠けていた。普通の兵士でも慎重になる道だ。


 黎人が転ばずに進めているだけでも、かなり運がいい。


 背後では戦いの音が続いていた。


 剣がぶつかる音。


 魔法が弾ける音。


 誰かの怒鳴り声。


 魔族のうなり声。


 だが、黎人はそれらをなるべく聞かないようにしていた。


 怖いからである。


 彼は戦いに来たつもりだった。


 少なくとも、口ではそう言った。


 オラモタタカウ。


 オラガマゾクタオス。


 だが、実際に戦いが近くなると怖い。怖いものは嫌いだ。痛いのも嫌いだ。自分が負けそうな場面は、もっと嫌いだった。


 だから彼は、もう一度力をもらうことにした。


 あの黒い力。


 体が大きくなり、腕が太くなり、言葉が通じるようになり、王もズマルも倒せた力。


 あれがあれば、自分はまた強くなれる。


 そう思った。


 それが借り物だということは、彼の中では重要ではなかった。


 地下の奥へ進むと、魔族たちが集まっている場所に出た。


 そこは召喚陣へ続く通路の手前で、数体の魔族が守りを固めていた。彼らは地上の戦闘音に注意を向けていたが、黎人が現れると一斉に振り返った。


 警戒ではない。


 困惑だった。


「なぜ戻ってきた」


 魔族の1体が言った。


 黎人には、まだ少しだけ言葉がわかった。完全ではない。音の輪郭がぼやける。それでも、意味はなんとなく届く。


「オラ……ツヨク……」


 黎人は胸を張った。


 張ったつもりだったが、姿勢はあまりよくない。


「モウイッカイ……チカラ」


 魔族たちは顔を見合わせた。


 その中の1体が、あからさまに嫌な顔をした。


 黎人は、王とズマルを殺した。


 魔族から見ても、扱いにくい存在だった。力を与えれば暴れる。だが、命令を聞くとは限らない。しかも、強化が切れればただの弱い男に戻る。


 兵器としては不安定すぎる。


 味方としては信用できない。


 敵として見るには弱すぎる。


 つまり、邪魔だった。


「力はもう与えた」


 魔族が言った。


「エ?」


「お前の中に残っている。地上へ戻れ。そこで戦えばよい」


 黎人は自分の手を見た。


 細い。


 どう見ても残っていない。


 だが、魔族は真顔だった。


「オラ……ツヨイ?」


「強い」


 魔族は即答した。


 周囲の魔族が少しだけ目を逸らした。


 黎人は迷った。


 自分では強くなっている気がしない。


 だが、強いと言われた。


 強いと言われるのは気分がよかった。


 それなら、そうなのかもしれない。


「オラガ……ツヨイ」


 黎人は頷いた。


 魔族たちは、これで追い払えると思った。


 だが、黎人は地上へ戻らなかった。


 彼は通路の奥を覗いた。


 そこから青黒い光が漏れている。大きな音も聞こえる。何かが動いている気配があった。


「アッチ……ナニ」


「行くな」


 魔族が止める。


 だが、その止め方が悪かった。


 行くなと言われると、気になる。


 しかも、今の黎人は自分が強いと思い始めている。強いなら、少しくらい奥を見ても大丈夫だろう。そう考えた。


 もちろん、考えとしては雑だった。


 黎人は魔族の横をすり抜けようとした。


「待て」


 魔族が腕を伸ばす。


 その時、地上側から大きな爆発音が響いた。


 通路全体が揺れ、天井から粉が落ちる。魔族たちは一瞬そちらへ意識を取られた。


 黎人はその隙に奥へ進んだ。


 速くはない。


 ただ、止める側が一瞬遅れた。


 それだけで十分だった。


 奥の広間に出る。


 そこには巨大な召喚陣があった。


 床一面に古い文字と幾何学模様が刻まれ、中心には黒い穴のような光が開いている。そこから、新たな魔族が少しずつ姿を現していた。


 黎人はそれを見て、口を開けた。


 すごい。


 そう思った。


 怖いよりも先に、すごいと思った。


 魔法陣。


 召喚。


 異世界らしい何か。


 そして、彼の中に馬鹿な考えが浮かんだ。


 自分なら、もっと強いものを呼べるのではないか。


 根拠はない。


 知識もない。


 そもそも文字も読めない。


 だが、黎人には根拠のない自信だけはあった。


 前の世界でもそうだった。


 自分は本気を出していないだけ。


 環境が悪いだけ。


 機会さえあればできる。


 そう思い続けて、何もしないまま40歳になった。


 そして今、彼は召喚陣を前にして同じことを思った。


 自分なら、もっとできる。


 黎人は広間の隅に落ちていた黒い石片を拾った。


 それは魔族が陣の補修に使っていた魔力を帯びた石だった。床に線を書くと、青黒い跡が残る。


 黎人はしゃがみ込んだ。


 魔族が気づいて叫ぶ。


「何をしている!」


 黎人は振り返らなかった。


 彼は召喚陣の端に、ぐにゃりとした線を書き足した。


 意味はない。


 本人の中では、格好いい記号のつもりだった。


 もう1本。


 さらに丸。


 その横に、よくわからない曲線。


 魔族たちが駆け寄る。


 だが、遅かった。


 召喚陣の光が乱れた。


 青黒い光が赤く変わり、中心の穴が震える。出かけていた魔族の体が途中で止まり、広間全体に耳障りな音が響いた。


 黎人は驚いて後ずさった。


「エ?」


 自分が何かをしたとは、少し思った。


 だが、責任を取る気はなかった。


 魔族の1体が叫ぶ。


「陣が歪んだ! 消せ!」


 黎人は石片を落とした。


 その瞬間、召喚陣の中心が強く光った。


 誰かが現れる。


 魔族ではなかった。


 勇者でもなかった。


 作業着姿の、初老の男だった。


 黎人はその男を見て、完全に固まった。


「……黎人?」


 男が言った。


 聞き慣れた声だった。


 前の世界で、扉の向こうから何度も聞いた声。


 働け。


 出てこい。


 いい加減にしろ。


 そう言い続けていた声。


 黎人の父だった。


 父は周囲を見た。


 魔族。


 魔法陣。


 地下の広間。


 そして、汚れた姿で座り込む息子。


 数秒だけ沈黙した。


 それから、父は大きく息を吸った。


「お前、また何をやってるんだ!」


 次の瞬間、父の拳が黎人の頭に落ちた。


 乾いた音が広間に響いた。


 魔族たちも、思わず動きを止めた。


 黎人は頭を押さえてうずくまる。


「イタイ……」


「痛いじゃない! 何だここは! 何なんだこれは! お前は死んだんじゃなかったのか!」


 父は混乱していた。


 混乱していたが、息子を叱る速度だけは早かった。


 黎人は何も答えられない。


 答えたところで、父の怒りは止まらなかっただろう。


 父は床の落書きを見つけた。


「お前が書いたのか」


 黎人は目を逸らした。


 それだけで十分だった。


「消せ。今すぐ消せ」


 父は近くに落ちていた布を拾い、床をこすった。


 魔族が叫ぶ。


「触るな!」


 だが、父は止まらなかった。


「人の迷惑になることばかりして! 消すぞ、こんなもの!」


 落書きが消える。


 同時に、元の召喚陣の線も削れていく。


 魔力を帯びた石片で書かれた落書きは、召喚陣の線と絡み合っていた。父が乱暴にこすったことで、落書きだけでなく、本来の線まで崩れていく。


 青黒い光が激しく揺れた。


 召喚陣の中心の穴が縮む。


 魔族たちが慌てて修復しようとする。


 だが、間に合わない。


 父は最後の線をこすり消した。


 その瞬間、召喚陣全体が白く光った。


 地下の広間にいた魔族たちの体が薄れ始める。


 地上で戦っていた魔族たちも、同じように。


 王城にいた魔族たちも、王都に残っていた魔族たちも。


 門が閉じた。


 召喚の術式は崩れた。


 この世界へ繋がっていた道が、乱暴な掃除で消えていく。


 父は最後に黎人を見た。


「帰ってきても説教だからな」


 そう言い残し、父の姿も光の中へ消えた。


 黎人は呆然としていた。


 頭が痛い。


 何が起きたのか、わからない。


 ただ、父に殴られたことだけは、はっきりわかった。


 そして地上では、戦っていた者たちが突然、敵の消滅を見て立ち尽くしていた。


 誰も知らなかった。


 魔族を消したのが、勇者の剣でも、共和国の作戦でも、煇の能力でもなかったことを。


 ただの落書きと、父親の説教だったことを。

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