第15話 帰ってきた面倒

 隣町は、すでに避難準備を始めていた。


 王都から逃げてきた者たちが、魔族の話を持ち込んだからである。


 王が死んだ。


 王城が落ちた。


 魔族が門に立っている。


 そして、勇者が化け物になった。


 最後の話だけは、誰もすぐには信じなかった。


 勇者と化け物。


 本来なら、並べてはいけない言葉である。


 だが、この町の者たちは、少し前にその勇者を見ていた。小柄で、動きが鈍く、女冒険者に引っ張られていた男。勇者と言われても誰も納得できなかったあの男である。


 だから噂を聞いた者の多くは、最初こう思った。


 あれなら、化け物になってもおかしくないかもしれない。


 偏見ではある。


 だが、完全な的外れでもなかった。


 町の門では、冒険者と自警団が協力して避難者を誘導していた。王都から来る道には見張りが立ち、魔族の接近に備えている。


 そこへ、共和国から先行部隊が到着した。


 煇とセリアも一緒だった。


 まだ大規模な援軍ではない。動きの早い冒険者と、共和国軍の少数部隊だけである。目的は住民の避難と、敵の足止めだった。


「本隊は?」


 セリアが尋ねる。


「明朝には国境を越える」


 連絡官が答えた。


「それまで持たせる必要があります」


「持たせる相手が魔族だけならまだいいんだけどね」


 セリアは町の外を見た。


 街道の向こうには、王都へ続く道がある。かつて黎人を連れて歩いた道だ。あの時も大変だったが、今に比べればまだ平和だった。


 煇は町の広場で指示を出していた。


 避難経路を確保する。


 戦える者は門へ。


 戦えない者は西門から退避。


 宿や倉庫を一時的な救護所にする。


 彼は王ではない。


 だが、人を動かす言葉を持っていた。


 町の者たちも、不思議と従った。


 セリアはその様子を見て、少しだけ複雑な気分になった。


 煇は面倒な男だ。


 理屈っぽく、冷静で、時々言い方が刺さる。


 だが、こういう時には頼りになる。


 少なくとも、玉座で震えていた王よりはずっと王らしかった。


 夕方、見張りが鐘を鳴らした。


「来たぞ!」


 街道の向こうに、黒い影が見えた。


 最初に現れたのは魔族の小部隊だった。数は多くない。偵察と挑発を兼ねているのだろう。


 その後ろに、ひときわ大きな影がいた。


 黎人だった。


 魔族の力で異形化した彼は、以前とは比べものにならない体格になっていた。背は伸び、腕は太く、皮膚は黒ずみ、肩からは歪な突起が出ている。


 だが、歩き方には見覚えがあった。


 妙に足元が危うく、周囲を見回し、少しでも気になるものがあると注意が逸れる。


 体が変わっても、本人の中身はあまり変わっていない。


 セリアはそれを見て、嫌な確信を持った。


「あれ、間違いなく本人ね」


「だろうな」


 煇が隣に立つ。


 黎人は町の門を見た。


 そして、門の上にいるセリアと煇を見つけた。


 顔が歪む。


 怒りなのか、喜びなのか、本人にもわかっていない表情だった。


「オマエラ……」


 低い声が響いた。


 町の人々が息を呑む。


 セリアは少し驚いた。


「喋れるようになってる」


「魔族の力の副作用かもしれない」


「より面倒になっただけじゃない」


 黎人は門の前まで進んだ。


 魔族たちは少し離れている。彼を前に出し、様子を見ているようだった。


「オラヲ……ステタ」


 黎人が言った。


 セリアは眉をひそめる。


「捨てたって、あなたが連れていかれたんでしょう」


「オマエラ……ニゲタ」


「逃げたわよ。魔族がいたからね」


「オラヲ……タスケナカッタ」


 その言葉に、セリアは一瞬だけ黙った。


 痛いところではあった。


 だが、そこで煇が前へ出た。


「助けに行けば全員死んでいた」


「ウソダ」


「事実だ」


「オラガ……ツヨイ」


「今はな」


 煇は冷静だった。


 冷静すぎて、セリアは少し心配になった。


「その力はお前のものじゃない。魔族から借りた力だ」


「オラノ……チカラダ」


「違う」


 黎人が唸る。


 怒りに任せて門へ突進した。


 巨大な腕が門を叩く。木と鉄が軋み、見張り台が揺れた。普通の人間なら一撃で吹き飛ぶ力だった。


 だが、動きは単純だった。


 セリアは門の上から飛び降り、横へ回る。


 煇は冒険者たちへ指示を出す。


「正面で受けるな! 避けて足元を狙え!」


 黎人は腕を振り回した。


 力はある。


 再生も早い。


 だが、戦い方を知らない。


 ただ怒って、目についたものを殴るだけだ。冒険者たちは怖がりながらも、距離を取り、縄と槍で動きを制限していく。


 魔族たちは遠巻きに見ていた。


 黎人がどれほど使えるのか試しているのだろう。


 セリアはその態度に腹が立った。


「本人も最低だけど、使ってる側も最低ね」


 彼女は黎人の背後へ回り、足首に縄を絡めた。


 黎人が振り返る。


「セリア……」


「名前覚えてたのね」


「オマエ……オラヲ……」


「世話したわよ。むしろ感謝してほしいくらい」


 黎人は怒りで顔を歪める。


 腕を振るう。


 セリアは横へ飛んだ。


 その隙に、煇が一歩前へ出た。


「不公平だな」


 静かな声だった。


 だが、その言葉が空気を変えた。


 黎人が動きを止める。


 周囲の冒険者たちは何が起きたかわからない。


 煇は続ける。


「魔族から借りた力で暴れる者と、生身で止める者。条件が違いすぎる」


 見えない何かが、場に広がった。


 黎人の体から黒い光がわずかに剥がれる。


 完全には消えない。


 だが、勢いが落ちた。


 腕の振りが鈍り、再生が遅くなる。


 セリアはその瞬間を逃さなかった。


「今!」


 冒険者たちが一斉に縄を引く。


 黎人の巨体が傾いた。


 彼は踏ん張ろうとしたが、足元をすくわれ、地面に倒れる。すぐに起き上がろうとするが、追加の縄が腕に絡み、杭が打ち込まれた。


 町の者たちが歓声を上げかけた。


 だが、煇は叫んだ。


「気を抜くな! 魔族が来る!」


 その言葉通り、遠巻きにしていた魔族たちが動き出した。


 黎人が使えないと判断したのか、それとも回収するつもりなのか。彼らは町へ向かってくる。


 共和国の先行部隊が前へ出た。


 戦闘が始まる。


 その混乱の中で、黎人の体からさらに黒い光が漏れた。


 力が不安定になっている。


 彼は縄の中でもがき、地面に爪を立て、意味のない怒鳴り声を上げた。


「オラガ……ツヨイ……オラガ……」


 だが、声は少しずつ弱くなっていく。


 体が縮む。


 突起が引っ込み、皮膚の黒ずみが薄れ、腕が細くなっていく。


 魔族の力を使い果たしたのだ。


 そこに残ったのは、元の黎人だった。


 縄に絡まったまま、泥だらけで、情けない顔をした男。


 セリアは息を吐いた。


「戻った」


「だが、油断するな」


 煇が言う。


 その時、魔族の1体が放った黒い煙が広がった。


 視界が塞がれる。


 セリアは咳き込みながら剣を構えた。


「煙幕!」


 数秒後、風が煙を流した。


 魔族たちは退いていた。


 そして、地面に倒れていたはずの黎人も消えていた。


 縄だけが残っている。


 セリアは顔をしかめた。


「またいなくなった」


 煇は周囲を見た。


「魔族が回収したか、自力で転がって逃げたか」


「どっちが嫌?」


「どちらも嫌だ」


 セリアは同意した。


 町は守られた。


 だが、問題は何も終わっていない。


 魔族はまだ王都にいる。


 黎人もどこかに消えた。


 そして共和国の本隊は、まだ到着していない。


 夜が落ち始める中、セリアは泥のついた縄を見下ろした。


「本当に、帰ってこなくていい時に帰ってくるわね」


 返事はない。


 その沈黙だけが、少しだけ救いだった。

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