第7話 『Kind of Blue』は、説明しすぎなかったから残った

 ジャズの名盤なんてものは、あとからいくらでも神話になる。

 録音当日は誰もそこまで分かっていなかったのに、何十年か経つと、まるで全員が最初から歴史を作るつもりでスタジオに入ったみたいな顔になる。評論家はそこへ意味を足す。ファンは敬意を足す。レコード会社は値段を足す。そうやって、だんだん作品のまわりに立派な額縁ができる。

 『Kind of Blue』にも、もちろんそういう額縁はある。

 いや、あるどころか、ジャズ史上いちばん立派な額縁かもしれない。

 モード・ジャズの金字塔。

 史上最高のジャズ・アルバム。

 入門盤にして到達点。

 まあ、どれも間違っちゃいない。

 だが、あのレコードの本当の怖さは、そういう立派な言葉の中にはあまり入っていない。

 あれは、説明しすぎなかったから残ったんだ。

 1959年の録音だ。

 メンバーを見れば、もうそれだけで少し笑ってしまう。

 マイルス。

 コルトレーン。

 キャノンボール。

 ビル・エヴァンス。

 ウィントン・ケリー。

 ポール・チェンバース。

 ジミー・コブ。

 こんな顔ぶれ、後世の人間から見れば反則みたいなものだ。

 だが、当日の空気は、たぶん“オールスター戦”みたいな派手さじゃなかったと思う。

 もっと静かで、もっと不安定で、もっと曖昧だったはずだ。

 なにしろ、マイルスは細かく説明しない。

 譜面をびっしり書き込んで、ここでこう、次にこう、なんてやらない。

 スケッチみたいなものを渡す。

 モードの枠組み、曲の輪郭、雰囲気。

 それだけ。

 あとは吹け、というやり方だ。

 この“それだけ”が、どれだけ恐ろしいか。

 若いころは分からなかった。

 俺も最初は、なんて自由で素敵なんだろう、くらいに思っていた。

 だが、年を取って、現場でいろんなリーダーを見てくると分かる。

 説明しないってのは、優しさじゃない。

 責任を演奏者に返すってことなんだ。

 お前はこの枠の中で、何を選ぶんだ。

 何を弾かないんだ。

 どこで黙るんだ。

 それを全部、お前の耳と品性で決めろ。

 そう言われているのと同じだ。

 下手なやつには、これほど残酷な指示はない。

 でも、マイルスはそれをやった。

 しかも、あのメンバーに対して。

 なぜできたか。

 ひとつは、もちろん人選だ。

 あの場にいた連中は、ただうまいだけじゃない。

 自分の音を持っている。

 しかも、持っているだけじゃなく、持ちすぎないこともできる。

 コルトレーンは、あのころすでに内側で燃えすぎるくらい燃えていたが、それでもマイルスの枠の中では、ちゃんとその燃え方を調整する。

 キャノンボールは、もっと地に足がついていて、ブルースの匂いを失わない。

 ビル・エヴァンスは、和声を濁らせずに空気へ溶かす術を知っている。

 ポールとジミーは、床を作るが、床で終わらない。

 つまり、全員が“弾ける”だけじゃなく、“引ける”人間だった。

 だが、もうひとつ大きいのは、マイルス自身が、そこへ至るまでにずっと引き算の美学を育ててきたことだ。

 ブキャナンに「揺らすな」と教えられた少年時代。

 ディジーみたいに火を噴けないからこそ、間合いで勝負するしかなかった若いころ。

 ヘロインから抜けて、ボクサーみたいに身体の主権を取り戻した時期。

 その全部が、ここへつながっている。

 『Kind of Blue』ってのは、突然空から降ってきた名盤じゃない。

 マイルスが長いことかけて覚えた、

 足さない勇気

 の結晶なんだ。

 たとえば「So What」を聴いてみろ。

 あの有名なベースの問いかけ。

 ピアノの応答。

 テーマの簡潔さ。

 何も難しいことをしていないように聞こえる。

 だが、あれほど“何をしないか”が問われる曲もない。

 コード進行が目まぐるしく変わるわけじゃない。

 だから、和声の変化を追いかけてフレーズを並べる逃げ道がない。

 同じ場所に長く立たされる。

 その場で、お前は何を言うんだ。

 しかも、言いすぎるな。

 この条件で人を惹きつけるのは、難しいなんてもんじゃない。

 裸で立つようなものだ。

 マイルスは、そういう裸の立ち方がうまい。

 いや、うまいというより、それしか信じていない。

 音をたくさん並べて説得するんじゃない。

 一音置いて、次の一音までの空白に責任を持つ。

 それができる人間だけが、あのレコードでは強い。

 だから『Kind of Blue』は、派手な技巧の見本市にはならない。

 むしろ逆で、誰がどれだけ自分の欲を抑えられるかの記録みたいに聞こえることがある。

 ビル・エヴァンスの存在も大きい。

 あいつのピアノは、マイルスの欲しかった“説明しすぎない和声”を、ほとんど理想的な形で差し出している。

 クラシックの色彩感がある。

 ドビュッシーやラヴェルの影がある。

 だが、知識をひけらかさない。

 和音が、意味を主張する前に、空気の色として漂う。

 マイルスは、そういうピアノを欲しがっていたんだと思う。

 コードを“進行”としてではなく、“場”として扱えるピアノ。

 その場の上で、トランペットが歩けるようなピアノ。

 ビルは、それをやった。

 そして、やりすぎなかった。

 ここでもまた、引き算だ。

 コルトレーンはどうか。

 あの人は、放っておくとどこまでも行ってしまう。

 音を探すというより、神を追いかけているみたいな吹き方をする。

 だからこそ、マイルスの枠の中にいるときのコルトレーンは面白い。

 燃えている。

 だが、燃え広がりすぎない。

 枠があるから、熱が形になる。

 その緊張が、たまらない。

 マイルスは、コルトレーンを抑えつけたわけじゃない。

 ただ、ここで燃えろという場所を決めた。

 それだけで、炎の見え方が変わる。

 このレコードの録音方法については、よく“ほとんどリハーサルなし”と言われる。

 実際、その通りだ。

 もちろん、まったく何も知らずに集まったわけじゃない。

 だが、細部まで作り込んでから録る、というやり方ではない。

 その場の新鮮さを残す。

 初見に近い感覚を残す。

 これは、失敗の危険も大きい。

 だが、成功したときには、二度と戻らない種類の生々しさが残る。

 『Kind of Blue』には、それがある。

 完成品の滑らかさじゃなく、いま見つけたばかりの道を歩いている感じがある。

 だから、何十年経っても古びない。

 古びるのは、たいてい“分かりすぎている音楽”なんだよ。

 最初から全部説明されている音楽。

 『Kind of Blue』は、そこをわざと残している。

 分からなさ。

 余白。

 言い切らなさ。

 それが、時間に耐える。

 俺は、あのレコードを“やさしい”と言う人の気持ちも分かる。

 たしかに入りやすい。

 耳あたりもいい。

 怒鳴らないし、押しつけない。

 だが、本当はかなり厳しい音楽だ。

 なぜなら、聴き手にも引き算を要求するから。

 派手な見せ場を待つ耳では、あの良さは半分も分からない。

 “何が起きていないか”を聴く耳がいる。

 “なぜここで黙ったか”を感じる耳がいる。

 つまり、聴く側にも品性を求める。

 そういう意味で、あれはずいぶん高慢なレコードだ。

 そして、マイルスはそういう高慢さを持つ資格があった。

 考えてみれば、あいつの人生そのものが、ここへ向かっていた気がする。

 ジュリアードの教室で、ブルースを安い説明に押し込めるなと立ち上がった若者。

 ブキャナンに、揺らすな、まっすぐ立てと教えられた少年。

 Birdlandの前で、店の外では黒人として殴られた男。

 パリで初めて人間として扱われた男。

 ヘロインで身体を失いかけ、父親の家でそれを取り戻した男。

 その全部が、1959年のスタジオに入っている。

 だから『Kind of Blue』は、単なる様式の発明じゃない。

 生き方の整理なんだ。

 何を残し、何を捨てるか。

 何を言い、何を言わないか。

 その整理の結果として、あの音楽がある。

 マイルスは、説明しすぎるのが嫌いだった。

 インタビューでもそうだし、ステージでもそうだ。

 観客に媚びて、分かりやすく盛り上げるなんてことは、あまりしない。

 それは不親切でもある。

 だが、芸術としては正しいことがある。

 全部説明されたら、聴き手の居場所がなくなる。

 全部決められたら、演奏者の自由もなくなる。

 『Kind of Blue』は、その両方を避けた。

 だから、演奏者にも聴き手にも、まだ入る余地がある。

 何十年経っても、新しい人間がそこへ入っていける。

 それが、名盤の条件なんだと思う。

 昔、ある若いピアニストが俺に言った。

 「『Kind of Blue』って、簡単そうに聞こえるのに、弾くと全然簡単じゃないですね」

 当たり前だ。

 簡単そうに聞こえるものほど、難しい。

 複雑なものは、複雑さでごまかせる。

 だが、単純な枠の中で深く言うには、人格まで出る。

 技術だけじゃ足りない。

 耳。

 間。

 勇気。

 引く力。

 そして、自分の音に責任を持つ覚悟。

 『Kind of Blue』は、それを丸ごと要求する。

 だから、真似はできても、再現はできない。

 マイルスは、あのレコードで“新しい理論”を提示したかったわけじゃないと思う。

 もちろん、モードの考え方は重要だ。

 ジャズの即興の地平を広げた。

 それは事実だ。

 でも、あいつの本音は、もっと身体的だったんじゃないか。

 コードの檻を少し外して、もっと自由に、もっと長く、一つの場所に立ちたかった。

 その場所で、音の色そのものを聴きたかった。

 和声の変化に追われるんじゃなく、音の呼吸を見たかった。

 そういう欲望だ。

 理論は、そのあとからついてくる。

 だから『Kind of Blue』は、頭で理解する前に、まず身体で入ってくる。

 夜の空気みたいに。

 部屋の温度みたいに。

 誰かが何かを言い切る前の沈黙みたいに。

 それが、あのレコードの強さだ。

 説明しすぎない。

 決めすぎない。

 だが、曖昧なまま放り出しもしない。

 ちゃんと形はある。

 ただ、その形の中に、まだ生きた余白がある。

 その余白に、俺たちは何十年も住みついているわけだ。

 結局、マイルス・デイヴィスって男は、音楽で何かを“足した”人というより、

 余計なものを剥がした人なんだと思う。

 『Kind of Blue』は、その剥がし方が、いちばん美しく成功した瞬間だ。

 だから残った。

 説明しすぎなかったから。

 言い切らなかったから。

 そして、言わなかった部分にまで、ちゃんと責任があったから。


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