第200話 社長が変わる日

「直人。4月から、お前が社長やれ」


「……は?」


 2012年3月16日。


 昼を回ったところで事務所へ呼ばれた直人は、隆夫の顔を見たまま固まった。


 向かいでは美智子が伝票を整理している。顔を上げる様子すらない。


「オトン、何の話?」


「聞こえたやろ。4月から社長替わる。俺が降りて、お前がやる」


「いや、ちょっと待って」


「待たん」


「そこは待てや」


 隆夫は湯呑みを手に取り、一口飲んだ。


 体調を崩したわけではない。


 今朝も普通に工場へ出ていたし、第二工場へ置いてある汎用旋盤について山岸と話していた。60代後半になったとはいえ、仕事を辞める気配など直人には見えていなかった。


「会社辞めるん?」


「辞めへん」


「工場には?」


「来る」


「ほな何が変わるん」


「社長が変わる言うてるやろ」


「それ聞いてんねん!」


 美智子がとうとう顔を上げた。


「声大きい」


「オカン、知ってたん?」


「知ってたで」


「いつから?」


「去年から話はしてる」


「俺抜きで?」


「本人入れたら話進まへんやろ」


「何でやねん」


「お前、考え始めたら長いやん」


 否定しようとして、直人はやめた。


 設備1台を買うだけでも、償却、仕事量、故障時の影響、現金残高まで考える。第二工場を借りるときも、何度も数字を見直した。


 会社そのものを受け継ぐとなれば、もっと考えただろう。


 隆夫が笑った。


「ほらな」


「まだ何も言うてへん」


「顔に出とる」


 直人は空いている椅子を引いた。


「何で今なん?」


「逆に聞くけど、いつやったらええ?」


「それは……」


「70になったらか? 病気してからか? 工場来られんようになってからか?」


 その言葉に、直人は口を閉じた。


 一度目の人生では、選べなかった。


 1999年、隆夫は54歳で倒れた。


 そこから先は、準備して受け継ぐなんてものではなかった。父を失ったあと、直人は会社を背負い、分からないことまで自分で決めなければならなくなった。


 資金繰りが苦しくなれば支払い順を考え、値下げを求められれば仕事を失う怖さから飲んだ。人を増やしたくても金がなく、設備を替えるべき時期が来ても先送りした。


 その積み重ねの先で、2026年に黒瀬精機製作所の看板を外した。


 だが、今は違う。


 目の前で隆夫が湯呑みを持っている。


「俺はまだ死なんぞ」


「急に何言うねん」


「お前が変な顔するからや」


 直人は苦笑した。


 もちろん隆夫は、直人が何を思い出しているのか知らない。


「別に、そんな心配してへん」


「ならええやろ」


 隆夫は机の上に1枚の紙を置いた。


「ここ数年、新しい客んとこ行ってんの誰や」


「俺」


「見積まとめるんは?」


「俺が多い。佐野に資料揃えてもろて、加工のことは森川にも聞く」


「銀行行くんは?」


「俺」


「機械替える話を持ってくるんは?」


「俺やな」


「第二工場探したんは?」


「俺」


「去年の震災のあと、客先回ったんも?」


「俺」


「ほな、俺は何しとる?」


「最後に決めてる」


「そこや」


 隆夫が指を立てた。


「今まで、お前が持ってきた話でも、大きい金が動くんやったら最後は俺が決めた。それを4月からお前がやる」


「設備買うのも?」


「お前が決める」


「採用は?」


「お前」


「借金するかどうかも?」


「お前や」


「……重いな」


「社長やからな」


 即答だった。


「オトンは相談にも乗らんの?」


「誰がそんなこと言うた」


「やろ?」


「聞きたかったら聞け。ただし、俺が『こうしたほうがええ』言うたからって、そのままやるな。社長が自分で決めろ」


 直人は紙へ目を落とした。


 まだ正式な書類ではない。


 代表交代に伴って確認する項目を、美智子が書き出したものだった。銀行、取引先、保険、各種契約、名刺。会社の仕事を止めずに切り替えるための確認事項が並んでいる。


「これ、もう結構進んでるやん」


「せやから去年から言うてるやろ」


 美智子が電卓を置いた。


「税理士さんにも、何が要るかは聞いてある。会社の数字も一回整理した。直人が知らんまま4月2日の朝に『今日から社長や』って言われるよりマシやろ」


「半月しかないけどな」


「十分や」


 隆夫が言った。


「会社が別物になるんちゃう。森川は工場長のままやし、宮田も山岸さんも村井も明日から違う機械使うわけやない。佐野や谷口の仕事も同じや」


「オトンは?」


「俺も同じや」


「社長ちゃうやん」


「ほな遊んどくわ」


「それは困る」


「どっちやねん」


 美智子が笑った。


 直人もつられて笑ったが、返事だけはすぐに出なかった。


 一度社長を経験しているからこそ、肩書の重さは知っている。


 売上が伸びているときに社長をやるのは簡単だ。問題は悪くなったときだった。


 どの仕事を残すか。設備を直すか替えるか。人を雇うか。銀行から借りるか。値上げを言うか、取引を断るか。


 最後の一線だけは、誰かに決めてもらえない。


「なあ、オトン」


「何や」


「俺が間違えたら?」


「間違えるやろ」


「そこ即答すんなや」


「間違えへん社長なんかおるか」


 隆夫は特別なことでもないように言った。


「俺かて間違えた。お前も間違える。そのとき直せる会社にしといたらええ」


 直人は少しだけ考えてから頷いた。


「分かった」


「何が?」


「4月から俺がやる」


「そうか」


 隆夫はそれだけ言うと立ち上がった。


「ほな俺、戻るわ」


「待って。もっと何かないん?」


「何がや」


「社長渡すんやろ?」


「渡したで」


「まだ渡してへんわ。4月からや」


「細かいやっちゃな」


 事務所を出ていく隆夫の背中を見送り、直人は美智子へ顔を向けた。


「ほんまにあれだけ?」


「何期待してんの?」


「いや、別に……」


「感動する話でもしてほしかった?」


「ちゃうわ」


 美智子は笑いながら、また伝票へ戻った。


「うちのオトンがするわけないやろ」


「それはそうやけど」


 その日の夕方、直人は森川を呼んだ。


 森川は手に生産予定を持ったまま事務所へ入ってきた。


「直人さん、何です?」


「4月から社長替わる」


「隆夫さん、辞めるんですか?」


「会社には残る。工場にも来る。ただ、社長は降りる」


 森川が一度頷いた。


「次、直人さんですよね」


「……何で分かんねん」


「他に誰がいるんです?」


「もうちょい驚くかと思った」


「驚いてますよ」


「見えへんぞ」


「でも直人さん、今でも外のことはほとんどやってるじゃないですか」


 森川は持っていた予定表を机へ置いた。


「工場の中は今まで通り、俺が見ていいんですよね?」


「もちろん。そこ変える気ない。加工順も機械の割当も、現場で止めるかどうかも森川が見てくれ」


「設備の話は?」


「4月から最終判断は俺」


「分かりました」


「それだけ?」


「はい」


 森川が予定表を持ち直した。


「じゃあ、明日の第二工場なんですけど、村井を朝から回します。山岸さんは本工場で旋盤使うんで」


「……ほんまに普通やな」


「社長替わったからって、明日の加工止めます?」


「止めへん」


「なら戻ります」


 森川は本当に工場へ戻った。


 翌週。


 昼休みが終わる少し前に隆夫が社員へ声を掛けた。


 森川、宮田、山岸、村井、佐野、谷口も仕事を止めて集まる。


「ちょっとだけ聞いてくれ」


 隆夫は腕を組んだ。


「4月から俺、社長降りることにした」


 宮田が最初に反応した。


「会社辞めはるんですか?」


「辞めへんよ。まだ働く」


「びっくりした……」


「そんな簡単に追い出さんといてくれ」


 山岸が笑った。


「誰も追い出しませんよ」


「せやろ。ならもうちょいおらせてもらう」


 場の空気が少し緩んだところで、隆夫が直人を見た。


「次は直人がやる。4月から会社として最後に決めるんは、こいつや」


 何人かの視線が直人へ集まった。


 村井が首を傾げる。


「じゃあ、直人さんのこと社長って呼んだほうがいいんですか?」


「今まで通りでええよ」


「直人さんで?」


「そのほうが俺も分かりやすい」


 佐野が手元のメモに何かを書いた。


「見積の確認は変わります?」


「大きい金額とか条件で、今までオトンまで回してた分は俺が見る。図面や版の管理は今まで通り佐野。加工できるかどうかは森川や現場にも聞く。そこは変えへん」


「分かりました」


 谷口が聞いた。


「電話で社長さんお願いしますって言われたときだけ、気をつけたらいいですか?」


「それは俺に回して」


「4月からですね」


「うん」


「分かりました」


 隆夫の話は10分もかからなかった。


 森川が時計を見て、「ほな、そろそろ動かします」と工場へ戻ると、宮田や村井もそれぞれの持ち場へ向かった。


 山岸も旋盤へ戻り、佐野と谷口は事務所へ入る。


 直人だけがその場に少し残った。


「何しとんねん」


 隆夫が言う。


「いや」


「仕事せえ」


「社長になる息子にそれだけ?」


「まだなってへんやろ」


「ほんま可愛げないな」


「誰に似たんやろな」


 4月2日、月曜日。


 直人はいつもより少し早く工場へ来た。


 シャッターを開け、事務所の照明を点ける。


 机の上には、新しく届いた名刺の箱が置かれていた。


 1枚抜いた。


 黒瀬精機製作所。


 その下に黒瀬直人の名前があり、肩書が昨日までとは変わっている。


 直人はしばらくそれを見た。


「何や、嬉しいんか」


 後ろから声が飛んできた。


 振り向くと隆夫が立っている。


「オトン、何でこんな早いん」


「今日から社長ちゃうから気楽やねん」


「絶対嘘や」


「バレたか」


 隆夫が事務所へ入り、直人の手元を覗いた。


「似合わんな」


「ほっとけ」


「名刺だけ立派になったな」


「作ったんオカンやろ」


「せやった」


 隆夫は笑うと、事務所の奥ではなく工場へ向かった。


 直人が声を掛ける。


「オトン」


「何や」


「今日から、ほんまに俺が決めるんやな」


 隆夫は足を止めた。


「ああ」


「相談はするで」


「勝手にせえ」


「最後は俺?」


「何回聞くねん」


 隆夫は振り向かず、片手だけ上げた。


「社長やろ」


 それで十分だった。


 8時になると、工場はいつもの音を取り戻した。


 森川が生産予定を確認し、宮田は加工前の品物を手に取る。山岸は旋盤の状態を見て、村井は材料を運んでいた。


 直人も仕事を始める。


 社長になったからといって、朝から特別な会議があるわけではない。


 机の上には見積依頼が2件と、納期確認のFAXが1枚。それから、先週持ち帰った設備更新の資料が置いてある。


 9時になり、谷口が出勤した。


 しばらくして電話が鳴る。


「はい、黒瀬精機です」


 谷口が相手と二言三言話したあと、受話器を押さえた。


「社長、お電話です」


「はい」


「おう」


 直人と隆夫が同時に返事をした。


 谷口が2人を見比べる。


 工場の入口にいた森川が吹き出した。


「まだ初日ですからね」


 隆夫も笑い、直人へ顎をしゃくった。


「お前や」


「分かってるわ」


「今、返事したやろ」


「オトンもしたやろ!」


「30年以上呼ばれてんねん。急に反応せんようにはならん」


 谷口まで笑っている。


「すみません。直人さんにです」


「はいはい」


 直人は受話器を受け取った。


「お電話代わりました、黒瀬です」


 相手は以前から付き合いのある取引先だった。


 納期について確認したいという、ごく普通の電話だった。


 直人は予定を聞き、机の上の資料を開く。


 昨日までと同じ声で話し、同じようにメモを取った。


 ただ、最後に相手が判断を求めてきたところで、直人はもう隆夫のほうを見なかった。


「その条件なら大丈夫です。黒瀬で受けます」


 電話を切る。


 隆夫は何も言わず、すでに工場へ戻っていた。


 直人は書いたばかりのメモを見直してから、森川のところへ持っていった。


「森川、この納期で受けた。現場の予定だけ確認して」


「分かりました」


 それだけで、黒瀬精機製作所の新しい月曜日が始まった。


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