第197話 量産が海を渡る
2010年10月。
阪南から電話が入ったのは、昼前だった。
谷口さんが受話器を保留にして、事務所の奥へ声を掛ける。
「直人さん、阪南さんです。購買の方から」
「代わります」
受話器を取ると、追加発注でも納期確認でもなかった。
『黒瀬さん、今お願いしている軸物のうち1点なんですが、来年から生産の流れが変わります』
「数量変更ですか?」
『国内分は、ほぼなくなる予定です』
机の上にあった加工予定表へ目を落とした。
「品番、お願いします」
聞いた番号には覚えがあった。
月800個前後。
黒瀬精機で何年も繰り返し流してきた定期品だった。
「生産終了ですか?」
『部品自体は続きます。ただ、組立をタイへ移すことになりまして。量産分は現地調達へ切り替える方向です』
「切り替えはいつから?」
『今の予定では来年2月です。国内生産分としては1月が最後になると思います』
「正式な終了数量が決まったら、注文書とは別に連絡もらえますか」
『もちろんです』
「分かりました」
電話を切っても、しばらく受話器から手を離さなかった。
海外移管そのものに驚いたわけではない。
この先、日本の製造業でそういう動きが増えることを、俺は一度目の人生で知っている。
けれど、知っていることと、自分の工場から毎月800個の仕事が消えることは別だった。
工場へ下りた。
森川は本工場の予定表を確認していた。
「森川、阪南のこの軸、来年1月で国内量産終わる」
「終わる?」
「組立がタイへ移る。向こうで部品も調達するらしい」
森川は品番を確認し、予定表の中から該当する仕事を探した。
「月800個のやつですね」
「そう」
「1月分までは?」
「今のところ続く。最終数量は改めて連絡もらう」
森川は予定表をめくった。
毎月、その品番が占めている時間はほぼ決まっている。段取りも安定し、加工中に大きな問題が起きることも少ない。
派手ではないが、工場にとっては扱いやすい仕事だった。
「この分、NC空きますね」
「空くな」
「何か探します?」
「まだ探さん」
森川がこちらを見る。
「800個なくなるからって、代わりの800個をすぐ入れる必要はない。まず、どれだけ空くかちゃんと見たい」
「分かりました」
「1月までは今まで通り流して」
「はい。最後やからいうて詰めたりはしません」
それで現場の話は終わった。
事務所へ戻ると、美智子に同じ内容を伝えた。
「売上、どれぐらい減る?」
やはり最初にそこを聞いた。
直近の請求額と材料費、表面処理費を出す。
材料は黒瀬精機持ちで、外注工程も含めて請けている。月800個分の売上が消えても、その金額がそのまま利益から消えるわけではない。
美智子が電卓を叩いた。
「材料の仕入れもなくなるし、外注費も減る。でも固定費はそのまま」
「うん」
「第二工場の家賃もある」
「三宅の倉庫は返したけどな」
「それでも、前より床は増えてる」
その通りだった。
黒瀬精機はつい数か月前、第二工場を動かし始めたばかりだ。
狭すぎた本工場を広げ、加工場所を増やし、山岸や村井が2つの工場を行き来するようになった。
会社の器を少し大きくしたところへ、定期品の海外移管が来た。
「埋めたくなるね」
美智子が言う。
「なる」
「でも、すぐ埋めへんのやろ」
「空いた時間に何が入るか見てからにする」
「なら、1月までの数字と、2月以降でこの仕事がなくなった場合の資金繰り、両方出しとく」
「頼む」
数日後、阪南から再び連絡があった。
今度は量産移管に伴う確認品の相談だった。
来社した購買担当と製造技術の担当者が、同じ品番の図面を机に置く。
「現地で量産を始める前に、日本側で30個だけ確認品を作っていただきたいんです」
「今までと同じ図面ですか?」
「図面と材質規格は同じです。ただ、タイ側で調達候補になっている材料をこちらへ持ち込みます。メーカーとロットが今までとは変わります」
俺は図面の材質欄を確認した。
規格そのものは変わらない。
「表面処理も現地量産を想定した条件ですか?」
「処理条件は今までと同じです。こちらで比較したいので、黒瀬さんには切削と現在お願いしている表面処理までお願いします」
「検査条件は?」
「通常より確認点を増やしています」
別紙が出された。
森川にも入ってもらう。
森川は図面より先に数量を見る。
「納品30個ということは、調整用の材料は別にあります?」
担当者が答えた。
「あります。予備を含めて持ち込みます」
「それなら大丈夫です」
山岸にも材料規格と予定ロットを見てもらった。
「規格が同じでも、メーカー変わったら削った感じは見た方がええですね」
「条件変えそう?」
俺が聞く。
「触らんで済むかもしれません。ただ、最初から今までと全く同じやと思わん方がええでしょう。1個目見てからです」
森川も頷いた。
「30個しかないですから、量産の速さを追う仕事ではないですね」
確認品は受けることにした。
佐野さんは通常量産の記録と混ざらないよう、今回の注文書、持込材料の情報、追加された検査条件を1件分としてまとめた。
品番は同じでも、注文条件が違う。
後から見た時に、それが分かればいい。
加工当日。
村井がNC旋盤の段取りをし、山岸が最初の材料を手に取った。
「今までの材より、ちょっと削り音違うかもしれんな」
「最初、条件落とします?」
村井が聞く。
「極端に落とさんでええ。無理のないところから入れて、切粉と面見よう」
森川が加工票を確認する。
「今日は加工時間の記録も残しますけど、今までの800個と比べて速い遅いは見ません。寸法優先で」
「分かりました」
1個目を削った。
村井が寸法を測り、山岸が仕上がり面と切粉を見る。
「問題なさそうですね」
「このままでいけそうやな」
必要以上に条件を触らず、そのまま進めた。
途中の指定数で測定し、30個を仕上げる。
表面処理へ出し、戻った品物も指定された条件で確認して納めた。
それで終わりだった。
現地の加工条件を黒瀬精機が作るわけではない。
海外工場へ黒瀬のノウハウを丸ごと渡すわけでもない。
阪南が現地立ち上げの比較用として必要な30個を、日本で今まで加工してきた黒瀬精機が作った。
その仕事の意味は、それ以上でも以下でもなかった。
11月。
阪南の月800個は予定通り流れた。
12月も同じだった。
工場の中だけを見ていると、来年その仕事がなくなるようには見えない。
材料が届き、村井が段取りし、加工品が表面処理へ出て、戻ってきた品物を検査して出荷する。
同じ箱が、同じ棚を通る。
森川は2月以降の予定表だけをまだ埋めなかった。
「ここ、空けたまま?」
俺が聞く。
「今の注文で決まってる分だけ入れてます」
阪南の品番が消える場所には、白い余白が残っている。
「問い合わせはある?」
「小ロットなら何件か。全部ここへ入れる必要はないです」
「うん」
「今月中に決まる仕事もあるでしょうし」
森川は空白を消そうとはしなかった。
俺も消さなかった。
年が明けた。
2011年1月。
阪南から正式に最終注文の連絡が入り、数量はこれまで通り800個だった。
「これが最後です」
谷口さんから注文書を受け取った佐野さんが言う。
「数量変更なし?」
「800個です」
「分かった」
工場へ持っていく。
森川も特別な顔はしなかった。
「いつもの予定で入れます」
「頼む」
山岸が材料を確認し、村井がNC旋盤を動かす。
加工条件も、測定方法も、箱も変わらない。
最後だから丁寧にするわけではない。
今までの800個と同じように作る。
それが一番正しかった。
数日かけて加工を終え、表面処理から戻った品物を確認する。
最後の箱が本工場から出ていった。
「終わりました」
森川が加工実績を事務所へ持ってきた。
「不良?」
「なしです」
「納期?」
「予定通り」
「ありがとう」
それだけだった。
翌朝。
工場へ下りると、阪南の品番が予定表から消えていた。
代わりに小ロットが1件入り、その後ろには何も書かれていない時間が残っている。
半日ではない。
まとまれば1日以上になる。
「直人さん」
森川が予定表を見ながら言った。
「来週、ここ空きます」
「うん」
「北摂の追加見積もり、返事来たら入るかもしれません」
「返事来てからでええ」
「阪南がなくなった分、何か営業で狙います?」
俺は予定表を見た。
売上が減る以上、何もしなくていいわけではない。
ただ、消えた800個と同じ大きさの仕事を急いで探せば、またその仕事に工場の形を合わせることになる。
「新規は普通に探す。ただし、この空白を埋めるためだけの仕事は取らん」
「分かりました」
「今ある客から増える可能性もあるし、補修品も入る。1か月、2か月見て、それでも空くなら考えよ」
「はい」
美智子の数字では、2月以降の売上予想は下がっていた。
それを見ないふりはしない。
一方で、資金繰りが崩れるほどではなく、借入で穴を埋める必要もなかった。
第二工場では山岸が少量の補修軸を削り、本工場では宮田が単品加工を進めている。村井のNC旋盤は午前の仕事を終えると、午後の途中で止まった。
故障ではない。
仕事が切れただけだった。
工場の中で、動いていないNC旋盤を見る。
一度目の人生なら、この時間が怖かった。
機械が止まっているだけで損をしているように感じ、利益の薄い仕事でも、納期の厳しい仕事でも、とにかく予定表を埋めようとした。
今は、止まっている理由を先に見る。
海外移管で定期品が1本消えた。
その結果として空いた時間だ。
なら、この空白に何を入れるかは、量ではなく中身で決めればいい。
午後3時を過ぎても、NC旋盤は動かなかった。
森川は予定を前倒しして無理に別の仕事を入れず、村井を第二工場へ回した。山岸が加工している補修軸の段取りを横で確認させるらしい。
本工場には、久しぶりに機械1台分の静かな場所ができた。
俺はそれを見ながら、すぐには消さなかった。
翌週の予定表にも、まだ白いところが残っていた。
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