第196話 離した分だけ、教えにくくなる

 2010年7月。


 第二工場で汎用旋盤が動き始めてから、3週間ほど経った。


 本工場の通路は以前より明らかに空いていた。


 材料を積んだ台車と仕掛品を抱えた人間が正面からぶつかりそうになり、どちらかが機械の脇へ避ける。そんな場面が減っただけでも、2つ目の工場を借りた意味はあった。


 朝一番、俺が本工場へ入ると、村井がNC旋盤の前で加工票を見ていた。


 機械はまだ動いていない。


「どうした?」


「あ、直人さん。この寸法なんですけど」


 村井が図面を指す。


「前に似た形をやった時、山岸さんが刃物の当て方を変えてたんですよ。今回も同じでええんかなと思って」


「山岸に聞いた?」


「第二工場です」


 歩けば数分だ。


 電話を掛けるほどの話でもない。だからといって、図面を持って往復すれば、その間は加工を始められない。


「森川には?」


「今、宮田さんと奥の段取りを見てます」


「急ぎ?」


「今日中ですけど、朝一から絶対回さなあかんわけではないです」


「ほな、勝手に決めんと待っとこ。山岸が戻る予定ある?」


「昼前には一回戻るって聞いてます」


「分かった」


 俺はそのまま森川のところへ行った。


 森川は宮田と、翌日入る仕事の材料置場を確認していた。


「村井、止まってるで」


「何でです?」


「刃物の当て方、山岸に確認したいらしい」


 森川が工場の入口を見る。


「またか」


「また?」


「今週2回目です」


 俺は少し驚いた。


「聞いてへんかった」


「遅れは出てませんからね。いちいち言うほどでもないと思ってました」


 森川は予定表を開いた。


「第二工場へ旋盤仕事を逃がしてから、山岸さんが向こうにいる時間が増えたでしょう。前やったら横向いて聞けたことが、今はすぐには聞けへん。それだけです」


「村井だけ?」


「宮田さんも1回ありましたよ」


 横にいた宮田が頷いた。


「私は昔の加工記録の場所を確認したかっただけです。結局、自分で見つけられたので山岸さんに聞かずに済みましたけど」


「山岸しか覚えてへん仕事?」


「私も覚えていたつもりだったんですが、細かいところに自信がなくて。記録が残っていて助かりました」


 大きな問題ではない。


 納期が遅れたわけでも、不良が出たわけでもない。


 それでも、俺は少し気になった。


 第二工場を作った時、山岸をそこへ固定するつもりはなかった。実際、森川も山岸と村井を仕事に応じて行き来させている。


 ところが、汎用旋盤を第二工場へ移したことで、小ロットや補修品が自然と向こうへ集まり始めた。


 その仕事を一番多く担当する山岸も、結果として向こうにいる時間が長くなる。


「森川」


「はい」


「山岸、今どれぐらい向こう?」


「日によりますけど、多い日は半日以上ですね。1日向こうの日はまだないです」


「予定でそうしてる?」


「仕事を振ったら結果的にそうなってます」


 それなら、森川の割り振りが悪いわけではない。


 第二工場へ移した汎用旋盤を使う仕事があれば、山岸を行かせる。それだけのことだ。


 昼前、山岸が本工場へ戻ってきた。


 手には加工済みの部品が入った箱と、加工記録がある。


「これ、確認お願いします」


 森川へ箱を渡したところで、村井が寄ってきた。


「山岸さん、これ聞きたかったんです」


「何?」


 村井が朝から止めていた図面を見せる。


 山岸は一度見ただけで、


「ああ、これは前のやり方をそのまま持ってきたらあかんで」


 と言った。


「やっぱりですか」


「径は似てるけど材質違うやろ。最初から深く入れたら面荒れるかもしれん。こっち先に軽く当ててから見た方がええ」


「前の記録にはそこまで書いてなかったです」


「書いてへんやろな。あの時、途中で変えたから」


「何で変えたんです?」


「最初の2個で音が違ったから」


 村井が図面を持ったまま黙った。


「音ですか」


「音だけで決めるなよ。俺が気づいたきっかけが音やっただけや。寸法と面を見て変えた」


「はい」


「最初1個削ったら呼んで」


 山岸はそう言って、自分の仕事へ戻ろうとした。


 俺は呼び止めた。


「山岸」


「はい?」


「最近、こういうの増えてへん?」


「何がです?」


「向こう行ってる間に、こっちで聞きたいことが出てくるやつ」


 山岸は少し考えた。


「まあ、ありますね」


「困る?」


「俺は別に。歩いて戻ればええだけなんで」


 森川が横から言った。


「山岸さんが困るかどうかだけの話やないです」


「分かってますよ」


 山岸が苦笑する。


「でも、俺がおらんかったら何もできへんいう話でもないでしょう」


「そこまでではないです」


 森川は即座に否定した。


「ただ、前やったら作業しながら聞けたことが、いったん止まるようになった。それはあります」


 俺はその日の昼休み、森川と予定表を見直した。


「山岸を本工場へ戻す?」


 聞くと、森川は首を振った。


「それやったら第二工場に旋盤を移した意味が薄れます」


「やんな」


「逆に、山岸さんを向こう専属にするのも違います」


「それもなし」


 そこは最初から決めていた。


 第二工場を山岸専用の工場にはしない。


 汎用旋盤に強い山岸が中心になるのは自然だが、山岸しか使えない場所にしてしまえば、いずれそこだけ仕事も知識も分離する。


 問題は人の配置というより、教え方だった。


「今まで、近すぎたんかもしれんな」


 俺が言うと、森川が顔を上げた。


「何がです?」


「分からんかったら、すぐ横の人間に聞けたやろ」


「そら工場1個でしたから」


「それで回ってたから、教える側も『次聞かれたら言えばええ』で済んでた部分あるんちゃう?」


 森川はしばらく考えた。


「ありますね」


 手順書を増やせば解決するとは思わなかった。


 加工のすべてを紙に書けるわけではない。


 山岸がさっき言った「音が違った」という感覚まで細かく文章にしようとすれば、現場で読まれない説明が増えるだけだ。


 だからといって、山岸の頭の中へ残したままでいいわけでもなかった。


「村井、午後から第二工場やったな」


「はい」


「今日の仕事、山岸と一緒?」


「別です」


「なら、1件だけ一緒にやらせられる?」


「何のためにです?」


「教育用の仕事を作るんやなくて、もともと向こうでやる仕事の中で、山岸が普段どこを見てるか横で見られるやつないかなと思って」


 森川は予定表を追った。


「あります。阪南の補修軸。数量2本」


「急ぎ?」


「明後日納期です」


「それなら今日中に無理して詰めんでもええな」


「ええと思います」


 森川はすぐ決めず、加工票を持って山岸のところへ行った。


「山岸さん、午後これ村井と一緒にやってもらえます?」


「2本のやつ?」


「そうです。村井に全部やらせるいうより、最初から最後まで一度見てもらいたいです」


 山岸は図面を見る。


「ええですよ。ただ、俺が全部やったら意味ないでしょう」


「そこは任せます」


 午後、俺も第二工場へ行った。


 毎日見に来る必要はない。


 それでも今日は、2人がどうやるのか見たかった。


 山岸はすでに旋盤の前にいた。


 村井が材料を確認している。


「これ、俺が削るんですか?」


「1本目は俺がやる。2本目はお前」


「分かりました」


「ただ見てるだけやったら忘れるで。何でそうしたか分からんかったら、その場で聞け」


「はい」


 山岸が材料をつかむ。


 いつもの仕事だ。


 特別な教材ではない。


 補修用の軸を2本削るだけだった。


「最初どこ見ます?」


 村井が聞いた。


「図面」


「いや、それは分かってます」


「ほな、何聞いてんねん」


 山岸が笑う。


「材料見た時です。どこから決めます?」


「反り。次につかみ代。あと仕上がり寸法見て、どっち側から入った方が楽か」


「毎回?」


「毎回見る。でも毎回同じ答えにはならん」


 山岸は材料を転がし、目で確認した。


「今回これぐらいやったら問題ない」


 加工を始める。


 村井は横から見るだけではなく、途中で寸法を測った。


「ここ、もう仕上げます?」


「まだ」


「何で?」


「次の工程でつかみ直すから」


「ああ」


「最終寸法だけ見て加工順決めたら、後で困る時ある」


 俺は入口近くに立ったまま、口を挟まなかった。


 こういう時間は、これまでにもあったはずだ。


 本工場だけだった頃、村井が隣で山岸の作業を見ることは珍しくなかった。


 ただ、それは仕事場が同じだったから自然に起きていただけで、誰かが意識して残していたわけではない。


 場所を離した途端、その偶然が減った。


 1本目が終わった。


 山岸が完成品を村井へ渡す。


「測って」


 村井が寸法を確認する。


「入ってます」


「ほな2本目」


「同じ通りやればええですよね?」


「そう思うならやってみ」


 村井が旋盤の前へ立つ。


 1本目と同じように材料をつかもうとして、途中で手を止めた。


「これ、さっきよりちょっと反ってません?」


 山岸が材料を見る。


「見えた?」


「たぶん」


「転がしてみ」


 村井が作業台の上で確認する。


「やっぱり少しあります」


「ほな、同じつかみ方でええか考えろ」


 山岸は答えを言わなかった。


 村井がしばらく材料と旋盤を見比べ、自分で位置を変えた。


「これでいきます」


「やってみ」


 加工が始まった。


 山岸は横にいたが、手は出さない。


 途中、村井が一度だけ送りを止めた。


「音、変わりました」


「何見る?」


「刃物と面」


「そう」


 村井が確認する。


「刃物は大丈夫そうです。面も荒れてない」


「なら続けたらええ」


 2本目も寸法に入った。


 仕事が終わった後、森川が第二工場へ来た。


「どうでした?」


 山岸が答える。


「普通です」


「それが一番困る答えなんですよ」


「普通にできたいう意味です」


 村井が加工記録を書きながら言った。


「でも、前より分かった気します」


「何が?」


「山岸さん、寸法だけ見てるんちゃうんですね」


「今さら?」


「いや、知ってましたけど」


「それを知らんいうねん」


 3人が笑った。


 本工場へ戻ってから、森川が予定表へ翌週の仕事を入れていた。


「毎回2人でやる必要はないな」


「ないです」


「でも山岸が第二工場の日、村井も何件か重ねる?」


「仕事が合えばそうします。ただし教育のために無理やり向こうへ回すのはやめます」


「それでええ」


 森川はペンを置いた。


「宮田さんの仕事も同じですね」


「何が?」


「宮田さんに寄ってる加工もあります。今すぐどうこうやないですけど、工場が2つになったら、誰がどこにおるかは前より効いてきます」


「そこは見とこ」


「はい」


 新しい表は作らなかった。


 担当者一覧も、教育計画表も増やさなかった。


 森川が仕事を割り振る時、同じ機械を扱える者同士が、ときどき同じ場所に重なるよう意識する。


 まずはそれだけで十分だった。


 翌週。


 俺が第二工場へ寄ると、旋盤の前に村井がいた。


 山岸は少し離れた作業台で別の部品を測っている。


「山岸さん、これ次つかみ替えますけど、この位置でええですか?」


「お前はどう思う?」


「このままやと仕上げ側短いんで、5ミリずらしたいです」


「ほな、そうしたらええ」


「分かりました」


 山岸は旋盤のところまで来なかった。


 村井も呼ばなかった。


 それで加工は進んでいった。


 本工場へ戻る途中、宮田とすれ違った。


「第二工場ですか?」


 俺が聞くと、宮田は足を止めた。


「ええ。山岸さんに、刃物のことで少し相談したいことがありまして」


「今の仕事?」


「急ぎではないです。次に似た加工が来た時のために、一度聞いておこうと思って」


「なるほど」


「山岸さん、最近は第二工場にいる時間も増えましたから。こういう時に顔を合わせておいた方が早いですし」


「行ってらっしゃい」


「はい」


 宮田は軽く頭を下げ、第二工場へ歩いていった。


 俺はその背中を少しだけ見送った。


 数分先にあるだけの工場だ。


 遠いわけではない。


 それでも、人を離せば会話は減る。


 横から手元を見る機会も、何気なく質問する回数も減る。


 だからこそ、必要な時には人の方から数分を歩けばいい。


 午後、本工場の予定表を見ていると、森川が翌日の仕事を1件だけ第二工場へ移した。


「それ、向こう?」


「はい。村井がやります」


「山岸は?」


「本工場です」


 俺は予定表を見直した。


「逆なんや」


「村井、もう1人でできる仕事ですから」


「なるほど」


「山岸さんを旋盤と一緒に向こうへ置いとく必要ないでしょう」


 森川はそう言って、山岸の名前を本工場側の仕事へ書いた。


 第二工場に移したのは機械1台。


 山岸まで移したわけではない。


 その区別が、予定表の上でも少しずつ自然になっていた。


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