第195話 二つ目の機械音

 2010年6月。


 新しく借りた工場へ三宅鉄工跡の倉庫から保管品を移し始めて二週間ほど経ったが、加工設備はまだ一台も入れていなかった。


 棚には低頻度の治具や予備材、梱包資材が収まり、以前の倉庫より出し入れはしやすくなっている。それでも中央には広い空間が残っていた。


 朝、森川が新しい工場から戻ってくると、巻尺と方眼紙を俺の机へ置いた。


「また測ってたん?」


「実際に機械置くなら、寸法だけ合わせてもあかんでしょう」


 紙には機械の輪郭だけでなく、人が立つ位置、材料を置く場所、台車を通す幅まで書き込まれている。


「最初はこれ移そうと思います」


 森川が指したのは、本工場で山岸がよく使っている汎用旋盤だった。


「理由は?」


「単品と補修品、小ロットで使うことが多いです。NCの仕事と分けやすい。それと、向こうへ移しても本工場の加工能力がいきなり足らんようにはならんと思います」


「山岸さんとは話した?」


「話してます」


 工場へ下りると、山岸はその旋盤で小物部品を加工していた。俺たちを見るなり、手を止めずに言う。


「俺、機械ごと向こうへ飛ばされるんですか?」


「森川、何て説明したん」


「山岸さんが使う仕事多いから候補やって言うただけです」


「だいたい同じでしょう」


 村井が隣で笑った。


「山岸さん自身はどうなん?」


 加工を終えた山岸が品物を外し、手を拭いた。


「移すのはええですよ。ただ、向こうを俺専用みたいにするんはやめた方がええです」


「俺もそう思ってる」


 森川が答えた。


「村井もできる仕事は向こうでやってもらう。宮田が使う仕事が出ることもあるやろうし」


 山岸が村井を見る。


「お前、これ一人で段取りできる品物どれぐらいある?」


「単純なやつならできます。全部任せろ言われたら困りますけど」


「最初はそれでええやろ」


 山岸が頷いた。


 一台の機械と一人の職人をまとめて別棟へ追い出すつもりはない。二か所に分かれても、仕事を人へ固定しすぎれば、休みや急な予定変更に弱くなる。


 まず一台だけ移し、実際に仕事を流してみる。


 必要な物と不要な物は、それから決めることになった。


 移設は加工予定の少ない土曜日に行った。


 前日、山岸と村井が旋盤まわりを整理する。


「この工具箱も向こうですか?」


 村井が持ち上げると、山岸が蓋を開けた。


「全部はいらん。今使うやつだけ」


「後で要ったら取りに戻る?」


「歩いて行ける距離や。最初から何でも二組にし始めたら、金も場所も食う」


「測定器は?」


「それも最初は持って行く。何回も往復するようなら、その時考えたらええ」


 森川が横から口を挟む。


「向こう空いてるからって、予備まで持って行かんでええぞ」


「分かってますって」


 村井はそう言いながら、持っていた箱からさらに二本工具を抜いた。


 土曜日の朝、旋盤の電源を落とし、搬出の準備を始めた。


 今回は処分ではない。


 同じ黒瀬精機の中で、置き場所を変えるだけだ。


 機械が本工場から出ると、そこに四角い床が現れた。


 村井が振り返る。


「ここ、結構広いですね」


「何置くかは後や」


 森川がすぐ止めた。


「置く言うてませんよ」


「その顔は考えてる」


「また顔ですか」


 笑い声を残して、搬出された旋盤を追う。


 新しい工場では、予定していた位置へ機械を据えた。水平を確認し、電源をつなぎ、動作を確かめる。


 山岸が旋盤の前へ立ち、後ろへ回った。


「こっちは点検しやすいですね」


「今まで狭かったからな」


「切粉掃除する時も楽です」


 森川は機械そのものより、人が動く範囲を確かめている。


「材料はこっち。加工済みは反対側。台車は真ん中通す」


「箱増えたら?」


 俺が聞く。


「その日の分を置く場所までです。完成品を何日も溜める場所にはせん方がええと思います」


「本工場へ戻して出荷?」


「まずはそれでやってみます」


 月曜日から、何度も加工実績のある小ロット品を一件だけ新しい工場へ流した。


 新しい品物の立ち上げと、二拠点での仕事の流れを同時に試す必要はない。


 ところが朝、材料を持って移ろうとした村井が事務所で止まった。


「佐野さん、図面これ持って行ってええんですよね?」


「ちょっと待って」


 佐野さんが受け取った図面を確認する。


 黒瀬精機では、受け取った図面や社内で整えた図面の管理を一か所に寄せてきた。加工場所が増えたからといって、第二の保管場所を勝手に作れば、改訂された時に古いものが残る。


「管理している方はこっちに置きます。向こうへ持って行くのは現場用だけにしてください」


「仕事終わったら?」


「戻してください。書き込みがあるなら、それも確認します」


「分かりました」


 俺が聞く。


「加工場所も記録した方がええ?」


「今の加工記録に一項目だけ足せば済みます。別の帳票を作るほどではないと思います」


「それでいこう」


 佐野さんは既存の記録様式に加工場所を加えた。


 困ったのは呼び方だった。


「こっちの工場、新しい方とか向こうとか、人によって書き方違うんですけど」


「確かに」


 森川が言う。


「記録でバラバラになるんは嫌ですね」


 そこへオトンが入ってきた。


「第二工場でええやろ」


「そのまんまやな」


「分かりやすいやろ。第一とか付けんでも、今までの方は本工場で通じる」


 佐野さんが確認する。


「社内の記録上は《本工場》《第二工場》で統一します?」


「それでええ」


 外向けの名称を大げさに作る話ではない。どちらで加工したのか、社内で取り違えなければ十分だった。


 午前九時過ぎ。


 山岸と村井が材料、現場用図面、必要な測定器を持って第二工場へ向かった。


 数分後、俺も歩いて行く。


 シャッターは開いていた。


 山岸がすでに旋盤の電源を入れ、村井が材料を並べている。


「始めますよ」


「どうぞ」


 一個目を削る。


 山岸が寸法を測り、村井が記録する。


「問題なし」


「もう続けてええですか?」


「あと二個見る」


 二個目、三個目も寸法は揃った。


「これなら続けてええよ」


「はい」


 加工そのものは、本工場でやっていた時と変わらない。


 違うのは、人の動きだった。


 材料を旋盤の横へ置いても通路を塞がない。加工済みの箱を反対側へ移しても、誰かが身体を横にして通る必要がない。


 山岸が次の材料をセットする横を、村井が普通に歩いて測定台へ行く。


「山岸さん」


「何?」


「これ、楽ですね」


「広いからって歩き回る距離増やすなよ」


「そこまで広ないですよ」


 俺は本工場へ戻った。


 一台抜けただけなのに、入口から奥へ抜ける動線が違って見える。


 森川は空いた場所へ棚を足さず、材料の仮置きを少しずらしていた。台車が検査台まで止まらずに通る。


 宮田は別の機械で小ロットの段取りをしている。


「向こうどうでした?」


 森川が聞いた。


「加工は問題なさそう」


「こっちはこっちで楽になってます」


「ただ、二か所になったら誰がどっちおるか分からんな」


「そこは俺も考えてました」


 森川は加工予定表を持ってきた。


「人を工場に固定せんと、仕事ごとに場所だけ入れます。今日なら山岸と村井が向こうの仕事、宮田はこっち。午後から村井戻す、とか」


「新しい表作る?」


「いりません。今ある予定表に書くだけで十分です」


「それでええ」


 昼前、山岸と村井が戻ってきた。


「どうやった?」


 森川が聞く。


「仕事は普通にできます」


 山岸が答える。


「ただ、毎回持って行くん面倒な測定器がいくつかあります」


「買う?」


「まだええです。一週間使って、ほんまに毎日要るやつだけ出します」


「分かった」


 村井もメモを見せた。


「切粉の回収と油の処理、向こうだけで回せるようにした方がいいです」


「それは要るな。必要な物出しといて」


「はい」


 足りない物は、使ったから分かった。


 逆に、念のため持っていったのに一度も使わない工具もあった。


 その週は仕事を何件か第二工場へ振り分けた。


 山岸だけを置きっぱなしにはしない。村井も自分で段取りできる品物は向こうで加工し、森川は仕事に合わせて二つの工場を行き来した。


 宮田も一度、加工内容の確認で第二工場へ入り、旋盤の位置と材料の流れを見た。


「この向きならやりやすいですね」


「変えんでええ?」


 森川が聞く。


「今の仕事なら。別の機械入れる時は、その時もう一回見た方がええと思います」


「まだ次の機械決めてへんけどな」


「だから今固定しすぎん方がええでしょう」


 金曜日。


 一週間使って分かったことを工場で確認した。


 追加が必要なのは、毎日のように持ち運んだ測定器の一部と、清掃・切粉処理に使う物。それから使用頻度の高い工具を少数。


 反対に、完成品は第二工場へ溜めず、本工場へ戻して出荷をまとめた方が佐野さんの記録とも合わせやすかった。


 午後、谷口が出荷品の送り状を確認しながら聞いた。


「第二工場から直接発送することもあるんですか?」


「今はせえへん」


 俺が答えた。


「電話も荷物の受け取りも、今まで通りこっち?」


「うん。向こうに人が常駐するって決めたわけちゃうからな」


「それなら分かりました。業者さんが向こうへ持って行かないように、当分は受け取り先を変えないでおきますね」


「それで頼む」


 谷口は送り状の束を揃え、時計を見る。


 もうすぐ午後二時だった。


「今日の分、引き継いどきます」


「お願いします」


 短時間勤務を終える前に、午後に掛かってくる予定の電話と荷物を確認してから席を立つ。


 新しい工場が増えても、事務所まで二つにする必要はない。


 今は加工だけを分ける。


 それで十分だった。


 三宅鉄工跡の倉庫は、中身の移動を終えたあと契約終了の手続きを進めた。


 十八坪、月七万二千円に諸費用を払っていた場所だ。


 あの倉庫があったから、それまでの黒瀬精機は材料や治具の置場を確保できた。役目がなくなったわけではない。


 必要だった役目を、今度は加工にも使える第二工場が引き継ぐ。


 月末。


 第二工場で初めて、朝から夕方まで一日を通して旋盤を動かした。


 午前は山岸、午後は村井が加工を担当する。


 本工場では、森川が別のNC旋盤の予定を確認し、宮田が次の段取りを進めていた。


 夕方、俺は加工記録を届けるため第二工場へ向かった。


 角を曲がると、開いたシャッターの中から旋盤の音がする。


 山岸が最後の品物を測り、村井が切粉を片づけていた。


「直人さん、これで終わりです」


「寸法は?」


「問題ないです」


 山岸が記録を渡す。


「じゃあ今日は終わろか」


「掃除してから戻ります」


 俺は先に第二工場を出た。


 旋盤の音が止まり、シャッターの閉まる音が後ろから聞こえる。


 そこから本工場へ歩いて戻る。


 角をいくつか曲がり、見慣れた建物が近づくと、今度は別の機械の回転音が聞こえてきた。


 入口では森川が加工予定表を確認している。


「向こう終わりました?」


「終わった」


「こっちはもう一件だけです」


 工場の奥でNC旋盤が回る。


 少し前まで、黒瀬精機の機械音はここからしか聞こえなかった。


 今は数分歩いた先にも、同じ会社の仕事をする場所がある。


 俺は山岸から受け取った第二工場の加工記録を、佐野さんの机に置いた。


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