第194話 工場の外へ出る

 2010年5月。


 新しく入れ替えたNC旋盤が黒瀬精機の床になじみ始めた頃、俺は工場の入口で台車を止められた。


「すみません、直人さん。ちょっと待ってください」


 村井が加工途中の箱を抱えたまま、横から出てくる。


 奥では山岸が材料を動かしていた。その材料が通路へ半分出ているせいで、俺の台車を先へ進めるには、どちらかを一度引かなければならない。


「俺戻すわ」


「いや、こっち先に入れます」


 村井が身体をひねって箱を避けた。


 その横を山岸が材料を抱えて通る。ほんの十秒ほどのことだったが、三人とも相手の動きを見ながら場所を譲っていた。


 新しい旋盤は順調に動いている。


 機械の台数も増えていない。


 それなのに、入れ替え前より広くなった感じは一切なかった。


「森川」


 近くにいた森川へ声を掛ける。


「はい?」


「ちょっと止まって見てみ」


「何をです?」


「工場」


 森川が怪訝そうな顔をした。


 俺たちは入口脇に立ち、仕事をしている連中を眺めた。


 旋盤から加工品が出る。


 検査台へ運ばれる。


 次の材料が入ってくる。


 出荷前の箱が一時的に床へ置かれ、空になった容器が棚へ戻される。


 一つ一つは何年も掛けて整えてきた流れだ。


 番号もある。


 置場も決めている。


 確認待ちと検査待ちも分けた。


 それでも、人と物が増えれば最後に足りなくなるものがある。


「狭いな」


 俺が言うと、森川が笑った。


「今さらですか」


「前から狭かったけど、今日は特に思った」


「新しい機械入れたからちゃいます?」


「大きさ、前とそんな変わらんやろ」


「せやからですよ。機械替えても景色変わらんかったでしょう」


 確かにそうだった。


 新しい機械を一台入れた。


 けれど古い一台を出しているから、床に占める面積はほぼ同じだ。


 設備更新としては正しい。


 工場そのものが成長したようには見えない。


 俺は工場の奥まで歩いた。


 壁際には材料棚があり、使用頻度の低い物は以前借りた三宅鉄工跡の倉庫へ移している。それでも、これから使う材料や加工途中の品物まで外へ置くわけにはいかない。


 工場裏の材料置場も同じだ。


 保管できる物は増えたが、雨の日に必要な材料を取りに出れば、それだけで手間になる。


「配置、もう一回やり直したら空かへん?」


 俺が聞いた。


「できますよ」


「できるんか」


「棚一個こっち移して、検査台寄せて、材料置場細くしたら多少は」


「多少?」


「一メートル広がったら、その一メートルに何か置くでしょう」


「誰が?」


「直人さんも含めて全員です」


 否定できなかった。


 空いた場所を見ると、もったいなく感じる。


 そこへ棚を置けば便利になる。


 箱を置けば運ぶ回数が減る。


 材料を置けば明日の仕事が早く始められる。


 そうやって何年も使い切ってきた結果が、今の工場だった。


「一回、ほんまに空けてみよか」


「何を?」


「通路」


 森川が俺を見る。


「仕事しながら?」


「一日で全部動かすんちゃう。置いてる物を見直して、工場の中に置かんでええ物だけ外へ出す」


「三宅の倉庫、もう結構入ってますよ」


「分かってる。どこまで行けるか見たい」


 翌日から、森川が現場の連中と一緒に置場を見直した。


 長く使っていない治具。


 空箱。


 予備材。


 すぐには使わない梱包資材。


 それらを片っ端から外へ出したわけではない。


 使う頻度と、取りに行く手間を見ながら分けた。


 佐野さんも工場側で使う資料の保管場所を確認し、古い紙を勝手に捨てず、残す物と移す物だけを整理した。


 三日後、入口から奥までの通路は明らかに広くなった。


 村井が台車を押して通る。


「おお、通りやすい」


「やろ」


 俺が言う。


 その五分後だった。


 納品された材料が来た。


 さらに午後には出荷待ちの箱が増えた。


 広くなったはずの通路の脇へ、また物が並ぶ。


 森川が俺を呼んだ。


「直人さん」


「分かってる」


「まだ何も言うてませんけど」


「言いたいこと分かる」


 森川は笑った。


「片づけの問題だけちゃいますね」


「うん」


 整理は必要だ。


 だが、整理すれば床が無限に増えるわけではない。


 今の黒瀬精機には、加工する場所そのものが足りなくなり始めていた。


 その日の夕方、俺はオトンへ話した。


「工場、広げること考えたい」


 オトンが帳面から顔を上げた。


「機械替えたばっかりやぞ」


「機械の話ちゃう」


「ほな何や」


「場所」


 オカンも手を止めた。


「今の工場を建て増しするん?」


「それは難しいやろ」


 オトンが先に答えた。


「隣も裏も自由に使える土地ちゃう」


「せやから、近くで貸工場がないか探す」


「また倉庫増やすん?」


「倉庫やなくて、加工できる場所」


 オカンが少し考える。


「二か所になるんやね」


「そうなる」


「人も分ける?」


「そこは物件見てからや。ただ、遠いところは借りへん。行き来で時間食うなら意味ない」


 オトンはすぐに賛成しなかった。


「今の仕事量で要るんか?」


「機械の能力は足りてる。でも床が詰まってる。これ以上仕事増えたら、機械買う前に物置く場所なくなる」


「仕事増えるんか?」


「それは分からん」


「分からんのに借りるんか」


「せやから買わへん。条件合う貸工場があれば、そこで初めて考える」


 去年まで仕事が減っていた会社だ。


 今年になって受注が戻り始めたからといって、先の売上まで決まったわけではない。


 ただ、空いていた時期だけを基準にしていたら、戻ってきた仕事を受け止める準備はできない。


 オトンはしばらく黙ったあと、森川を呼んだ。


「お前も広げたいんか」


「広げたいいうより、このままやと使いにくいです」


「どれぐらい?」


「今ならまだ回せます。ただ、急ぎが二件重なったり、材料と出荷が同じ日に来たりすると、置場動かしてから仕事始めることがあります」


「機械増やしたいわけちゃうんやな」


「今は要りません」


 オトンは俺を見た。


「探すだけ探してみ」


「分かった」


「借りるんは別の話やぞ」


「それでええ」


 貸工場の情報を集め始めた。


 条件は最初から絞った。


 今の黒瀬精機から離れすぎない。


 加工場として借りられる。


 機械を搬入できる。


 電力を確保できる見込みがある。


 材料や製品を積み降ろしできる。


 そして、家賃が今の売上から無理なく払える範囲であること。


 条件に合わない物件を一つずつ見に行くことはしなかった。


 資料の段階で遠すぎるもの、用途が合わないもの、搬入口が厳しいものは外した。


 六月に入った頃、ようやく一件だけ現地を見に行くことになった。


 今の黒瀬精機から歩いて数分だった。


 シャッターの前に立った時点で、森川が道路の幅を確認している。


「車、ここ付けられますね」


「長いこと止めっぱなしは無理やけどな」


「積み降ろしできたら十分です」


 仲介業者がシャッターを開けた。


 中には機械が一台もない。


 壁際に配管と配線の跡が残り、床にはアンカーを抜いた痕がいくつかあった。


 以前も工場として使われていた建物だという。


「加工場として借りることはできますか」


 俺が最初に確認した。


「貸主さんには金属加工を行う可能性があることまで伝えています。ただ、設置する機械と作業内容は契約前に確認させてください」


「それでお願いします」


 森川が奥へ歩く。


 俺は入口幅を測った。


「今の旋盤、入る?」


「寸法だけならいけます。ただ、角度取れるかは搬入屋にも見てもらいたいです」


「床も見てもらおう」


「はい」


 森川が何もない中央で止まった。


「直人さん」


「何?」


「ここ、ええですね」


「まだ何もないからやろ」


「それがええんです」


 前に聞いた言葉を思い出した。


 森川が欲しいと言ったのは、新しい機械ではなかった。


 何も置かれていない床だった。


 ただし今回は、その言葉を笑わなかった。


「全部埋めんようにせなな」


「ほんまですよ」


 現地ではそれ以上決めなかった。


 後日、電気関係と搬入条件、床の状態をそれぞれ確認してもらった。既存設備のままで何でもできるわけではないが、こちらが想定している機械を置く加工場として検討できる範囲だった。


 次は金だった。


 オカンの机に、現在借りている三宅鉄工跡の倉庫と、新しい貸工場の条件を並べる。


 三宅鉄工跡は十八坪、月七万二千円に諸費用。


 そこを残したまま新しい工場まで借りれば、固定費だけが積み上がる。


「新しい方へ倉庫の中身も移せる?」


 オカンが森川に聞いた。


「全部入ります。ただ、置場は先に決めたいです。空いてるからいうて適当に置いたら、また同じになります」


「なら三宅の方は返す前提?」


 俺が答える。


「そうしたい」


「新しい方へ機械も移すんやろ?」


「最初から全部は移さん」


 森川が配置図を広げた。


「まず材料と保管品を移して、こっちの工場にどれだけ余裕出るか見たいです。そのあと一部の機械を動かす方がええと思います」


 これは俺も同意した。


 新しい場所を借りた日に、嬉しくなって機械を何台も運ぶ必要はない。


 どの仕事をどちらで流すか決めずに二か所へ分ければ、今度は人と物が工場の間を往復することになる。


「最初は保管機能を移して、今の工場を空ける」


 俺が言った。


「それから加工の分け方決める」


「その間、新しい方は家賃だけ払う期間あるよ」


 オカンが言う。


「ある」


「その分まで見といて」


「分かってる」


 俺たちは、新しい工場で売上が増えるという数字は置かなかった。


 現在の受注が続く範囲で、家賃と追加の光熱費を負担できるかを見る。


 さらに、三宅鉄工跡の倉庫を返したあとの差額も確認した。


 オカンが数字を見終える。


「無茶ではないよ」


 オトンが聞いた。


「余裕なんか?」


「楽勝とは言わへん。でも去年の売上まで落ちても、すぐ首が締まる金額ではない」


「直人」


「うん」


「買わへんのやな」


「借りる。仕事の先がもっと見えてから、その次考えたらええ」


「森川は?」


「俺は使いたいです」


 オトンが笑った。


「珍しくはっきり言うな」


「今の工場で棚をあと一個増やすより、その方がええです」


 オトンは配置図を引き寄せた。


「こっち借りたら、三宅の倉庫は返すんやな」


「その前提」


「ならええ」


 それが最終決定になった。


 契約が済んでも、すぐ機械は運ばなかった。


 最初に動いたのは、材料と保管品だった。


 土曜日の午前、通常の出荷を避けて移動する。


 三宅鉄工跡の倉庫から、低頻度の治具、予備材、梱包資材、空箱を運び出した。何をどこへ入れるかは、先に森川が決めていた。


 新しい貸工場の壁際へ棚が並ぶ。


 ただし中央には置かない。


 村井が空箱を抱えて入ってきて、床の真ん中で止まった。


「ここ、空けとくんですか?」


「空ける」


 森川が答える。


「棚もう一列置けますよ」


「置けるけど置かん」


「もったいなくないです?」


「今の工場見てから言え」


 村井が笑った。


「なるほど」


 午後には、三宅鉄工跡の倉庫はかなり空になった。


 次に元の工場へ戻る。


 これまで外へ逃がせなかった材料の一部を新しい場所へ移し、棚を一台減らした。


 その棚がなくなった場所を、何も置かずに残す。


 月曜日の朝。


 最初の材料便が入った。


 いつもなら一度横へ避けていた台車が、そのまま奥まで通った。


 山岸が材料を受け取り、村井が反対側から出てくる。


 二人は立ち止まらなかった。


 俺は入口脇で、その様子を見ていた。


「直人さん」


 森川が横へ来る。


「何?」


「今の見ました?」


「見た」


「ぶつからんかったでしょう」


「そこまで喜ぶことか?」


「毎日やる側からしたら結構でかいですよ」


 工場の奥を見る。


 機械の台数は増えていない。


 仕事量が突然倍になったわけでもない。


 それでも、昨日まで棚があった場所には床が見えていた。


 数日後、新しい貸工場にも黒瀬精機の名前を入れた表示が付いた。


 村井がそれを見上げる。


「ほんまに増えましたね」


「何が?」


「黒瀬精機」


 俺も看板を見る。


 元の工場から歩いて数分。


 まだこちらで加工は始めていない。


 だが、三宅鉄工跡の倉庫とは違う。


 最初から、加工場として使える場所を確保した。


 森川がシャッターを開ける。


 壁際には棚が並んでいるのに、中央はまだ広く空いていた。


「直人さん」


「うん」


「ここへ最初に何持ってくるか、来週決めましょう」


「機械から決めるなよ」


「分かってます。仕事の流れから決めます」


「なら任せる」


 森川が配置図を開き、村井と山岸を呼ぶ。


 三人が何もない床を歩きながら、どこから材料を入れ、どこへ加工品を流すか話し始めた。


 俺は入口の外へ出た。


 少し離れた先には、今までの黒瀬精機がある。


 振り返れば、新しく借りた工場のシャッターが開いている。


 二つの建物の間を、村井が巻尺を持って行き来していた。


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