第191話 百二十個の内示

 2009年6月、阪南制御から引き継いだ仕事は、最初に受けた5品種から少しずつ広がっていた。


 いきなり全部を黒瀬精機へ移さなかったおかげで、森川たちは既存の仕事とぶつけずに加工順を組み直せている。前の加工先で使われていた方法をそのまま写すのではなく、黒瀬の設備と人員で無理なく続けられる形へ落とし込む時間も取れていた。


 金曜日の午前、佐野さんが一枚のFAXを持って事務所から出てきた。


「直人さん、阪南さんから7月分の予定が来てます」


「注文書?」


「いえ、内示です。確定分とは別です」


 受け取った紙には品種ごとの予定数量が並んでいた。


 その中で、一つだけ数字が大きい。


 120個。


 黒瀬精機へ移ってきてからは、一度に40個ずつ作っている品物だった。


「今、正式に注文入ってるのは?」


「7月第1週納めの40個だけです」


「残り80はまだ?」


「注文書は来てません」


 内示が来たこと自体はありがたい。


 来月どの仕事が増えそうか分かれば、材料の手配や機械の予定を考えやすい。


 問題は、その120という数字をどこまで信用して動くかだった。


 俺はFAXを持って工場へ入った。


「森川、これ見て」


「阪南ですか?」


「来月120の内示。ただし注文は40だけ」


 森川は数字を見てから、壁の予定表へ目を移した。


「加工だけ考えたら、120まとめた方が楽ですね」


「段取り?」


「はい。40で一回外して、また40来て戻して、さらにもう一回となると、そのたびに段取りと最初の確認が要ります。今なら続けて入れられる時間もあります」


「120作るなら材料は?」


「今あるのは最初の40分です。残りは追加手配ですね」


「その材料、別の仕事へ回せる?」


「同じ寸法でそのまま使える仕事は、今のところないです」


 俺はそこで結論を出さなかった。


「分かった。最初の40は予定どおり。残りはちょっと待って」


「阪南に確認?」


「うん」


 事務所へ戻り、大森さんへ電話する。


「7月の内示、ありがとうございます」


『届きました?』


「はい。この120個の品物なんですけど、確認していいですか」


『どうぞ』


「今の正式注文は40個。残り80は、どの段階で確定します?」


『うちの生産計画次第ですね。たぶん40ずつ追加になると思います』


「“たぶん”ということは、120全部使うとはまだ決まってない?」


『まだですね。現時点では見込みです』


「内示から数量が減った場合、残った分を阪南さんで引き取る条件にはなってませんよね」


『そこまではなってないです』


 そこを聞きたかった。


 内示だから信用しない、という話ではない。


 内示は生産の見込みとして使える。


 ただし今回の条件では、その数字を見て黒瀬精機が先に材料を買い、完成品まで作ったとしても、数量が減った時に残りを阪南制御が必ず引き取る約束にはなっていない。


「前の加工先さんは、どうされてました?」


『内示を見て先に作ってくれてたと思います』


「120出たら120?」


『そこまでは分からないですけど、ある程度は先に作ってもらってました。こっちは必要になった分から引き取る形で』


「余った時は?」


『翌月に回してたんちゃいますかね』


「翌月にも数量戻らなかったら?」


『そこは……確認したことないですね』


 長い付き合いなら、それで回ることもある。


 毎月ほぼ同じ数量が出る品物なら、先に作っておく方が双方にとって楽だったのかもしれない。


 けれど、黒瀬精機が仕事を引き継いだからといって、その運用まで自動的に引き継ぐ必要はない。


「大森さん、今回の120は生産予定として見ます。ただ、完成品を120個先に作るのはやめときます」


『40ずつやるんですか?』


「基本は正式注文が出た分です」


『それやと、急に次の40が要る時に間に合わない可能性ありますよね』


「あります。なので、どの時点までに確定もらえたら段取りを続けられるかは、こっちから出します」


『材料だけ先に買ってもらうのは?』


「それも条件次第ですね。阪南さんが買い取りを約束する材料なのか、黒瀬が見込みで持つ材料なのかで違います」


『なるほど……』


「もし120個を正式に発注して、40個ずつ分納するなら、それは別です。納期と未納分の扱いまで決めたうえでなら考えられます」


『うちとしては、使うか分からん80まで今注文出すのは難しいと思います』


「それなら、黒瀬も80を完成品にはしません」


 大森さんが少し笑った。


『それはそうですよね』


 電話を切り、オカンへ話を通した。


「内示120、注文40。残り80を先に作る案は止めた」


「材料も買わへん?」


「全部は買わん。森川と必要な時期だけ見る」


「それでええんちゃう。内示だけで買うた材料の支払いは、こっちに先に来るからね」


「うん」


「しかも加工までしたら、人の時間も使うし、置く場所も要る。翌月出るなら同じやろって言われても、翌月まで黒瀬が持つことには変わらんよ」


「そこは大森さんにも言うた」


 オカンはそれ以上口を出さなかった。


 俺は森川のところへ戻る。


「120一括はなし。確定40だけ作る」


「了解です」


「ただ、次の40が来る可能性は高い。いつまでに注文来たら、そのまま段取り続けられる?」


 森川は予定表を開いた。


「月曜から最初の40に入ります。水曜の午前までなら、次の仕事へ切り替えずに続けられます」


「それ過ぎたら?」


「別の仕事入れます。次の40はもう一回段取りからですね」


「分かった。その条件を阪南に出す」


 俺は大森さんへ、「水曜午前までに追加40が確定すれば同じ段取りで続けられる。それを過ぎた場合は、次回の空きに合わせる」と伝えた。


『分かりました。それなら購買にも言いやすいです』


「内示自体はそのまま送ってください。材料と予定を見るのには必要なんで」


『そこは今までどおりで?』


「はい。内示が要らんいう話ではないです」


 ここを間違えると、今度は黒瀬精機が何も先を見ない会社になる。


 見込みは見る。


 ただし、見込みと確定を混ぜない。


 月曜日、最初の40個の加工が始まった。


 この品物の担当は村井だった。


 森川が最初の一個を確認し、その後は村井が続ける。何度か作っている品物なので、以前のように一つ一つ横へ張り付いて見る必要はない。


 火曜日が終わっても追加注文は来なかった。


 水曜日の午前、谷口さんが受け取ったFAXを佐野さんが確認した。


「阪南さん、追加40個来ました」


「正式注文?」


「はい。納期は7月第3週です」


 俺は工場へ持っていく。


「森川、来た」


「40?」


「40」


「まだ間に合います」


 森川は予定表の一か所を指した。


「今日ここまで続けて、明日の朝まで同じ段取りで取ります。そのあと別の仕事へ替えます」


「分かった」


 結果として、その週は80個まで続けて加工することになった。


 佐野さんの記録では、内示120と注文済み80が別に扱われている。


 予定数量が120だからといって、製造指示まで120にはしない。


 残り40は、あくまで今後来る可能性のある数量だった。


 7月に入り、阪南制御からの注文は予定どおり納品されていった。


 中旬、大森さんからまた電話が入る。


『黒瀬さん、残りの40の件なんですけど』


「はい」


『今月は20に減ります』


「20ですか」


『うちの生産計画が少し後ろへずれまして。残り20は8月に回る可能性があります』


「分かりました。今月は20で注文書出ます?」


『今日出します』


「なら、それで組みます」


 それだけだった。


 予想どおり減った、と喜ぶ話ではない。


 生産計画が変われば、内示数量も変わる。


 それは製造業では珍しいことではない。


 黒瀬側は確定した数字へ合わせて予定を組み替えればいい。


「20に減ったんですか?」


 佐野さんが注文書を確認しながら聞いた。


「うん。残りは8月の可能性あり」


「8月分へ移します?」


「まだ移さんでええ。8月の内示が来たら、そこで予定として入れて」


「注文実績は今月100で?」


「そう」


 7月分として確定した数量は100個になった。


 最後の20個は、80個を作った時の段取りをそのまま残してはいない。


 別の客先の加工を間に入れているため、もう一度段取りから始める。


 森川にとっては120個を一気に流すより手間が増える。


「やっぱり120まとめてやりたかった?」


 俺が聞くと、森川は苦笑した。


「工場だけ見たら、そらそうですよ」


「段取り二回増えたもんな」


「でも、まだ注文もらってない20まで俺が勝手に作ってええわけでもないでしょう」


「工場長らしくなったな」


「何年やってると思ってるんですか」


「九年」


「数えるん早いですね」


 森川は笑いながら、次の加工予定を指した。


「こっち終わったら阪南の20入れます。それまでは触りません」


「任せる」


 加工の効率だけを見れば、一度の段取りで数をまとめた方がいい。


 その考え方まで否定する必要はない。


 むしろ、森川がそこを考えてくれるから工場の生産性は上がる。


 一方で、注文になるかどうか分からない数量まで先に製品へ変えれば、材料費も加工費も保管場所も黒瀬精機が抱える。


 どちらか一方だけが正しいわけではなかった。


 だから森川は加工の効率を見て、俺は受注条件を見る。


 月末、佐野さんが7月分の記録をまとめた。


「阪南さんのこの品物、内示120、注文100、納品100です」


「8月分は?」


「今のところ内示だけです。20入ってます」


「注文と混ぜんといて」


「分かってます」


 佐野さんが画面を切り替える。


 予定数量と受注数量、それから実際の納品数量が別に追える。


 そのやり方自体は特別なものではない。


 ただ、黒瀬精機では数字の意味を混ぜないようにしている。


 内示が120なら、材料の手配時期や機械の空きを考える。


 正式注文が100なら、製造と納品は100で止める。


 俺は工場へ出た。


 村井は阪南制御とは別の品物を旋盤で削っていた。


 数日後には、その機械で阪南向けの最後の20個を作ることになっている。


 もし120個を最初から全部作っていたら、その20個分まで棚へ置かれていた。


 今、その棚には別の客先から届いた材料が載っている。


 森川が予定表を見ながら、村井へ声を掛けた。


「それ終わったら次、こっちやで」


「阪南ですか?」


「いや、その前に一件ある。阪南は明後日」


「分かりました」


 村井は加工中の品物へ視線を戻した。


 俺も予定表を一度見てから事務所へ戻る。


 120という数字は消えていない。


 佐野さんの画面には、来月へ持ち越される可能性のある20個が内示として残っている。


 ただし、工場の棚にはまだない。


 それで十分だった。


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