第190話 昔の単価を引き継がない
2009年5月、連休が明けても黒瀬精機の予定表にはまだ余白が残っていた。
昨年までのように、数週間先まで加工予定がびっしり並ぶ状態ではない。既設設備の改造や補修、古い部品の復元といった仕事が少しずつ入ってはいるものの、それだけで工場全体が埋まるわけでもなかった。
だからといって、空いている機械へ何でも詰め込めばいいとも思っていない。
そんな中、阪南制御から久しぶりにまとまった相談が入った。
「黒瀬です」
『お世話になってます。阪南制御の大森です。今お願いしている品物とは別件なんですけど、相談できます?』
「はい」
『長いこと頼んでた加工屋さんが、来月いっぱいで仕事をやめることになりまして』
「廃業ですか」
『社長さんがもう七十近いんです。去年から仕事も減ってたし、ここで畳むと』
俺は机にメモを置いた。
「何品種あります?」
『十四です。月によって数量は変わりますけど、全部合わせるとそれなりになります。黒瀬さんで引き継げませんか』
「図面は?」
『あります。検査条件も残ってます』
「特殊工程は?」
『表面処理があるものは処理先まで含めた条件を送ります。黒瀬さんに全部やってくれ、いう意味ではないです』
「分かりました」
『今までの加工単価も一緒に送ります。その金額でお願いできたら一番助かります』
そこで俺は一度ペンを止めた。
「まず図面と過去の数量見せてください。今までと同じ値段で受けられるかは、それ見てからです」
『かなり昔から同じ値段の品物もありますけど』
「それやったら、なおさら確認せんと返事できません」
翌日、図面一式と過去一年分の発注実績、現在の加工単価が届いた。
俺は単価表を伏せたまま、十四枚の図面を森川へ渡した。
「阪南制御。今まで作ってたところが来月で廃業する」
「十四品種全部ですか?」
「向こうはできれば全部うちへ持ってきたいらしい」
森川は一枚ずつ目を通し、旋盤物は山岸さんにも見せ、加工手順が多いものは宮田と確認した。村井にも二枚渡したが、値段だけは誰にも見せなかった。
今の加工先がいくらで作っているかを先に知れば、「その値段に合わせるにはどうするか」という考え方に引っ張られる。
黒瀬で作るなら、まず黒瀬でどう作るかを見るべきだった。
午後になると、森川が図面を三つに分けていた。
「十二品種は、今の数量ならうちで入ります」
「残り二つは?」
「作れます。ただ、この二つを入れると旋盤を長く押さえます。数量も多いし、加工自体は単純です」
「黒瀬で持つ意味が薄い?」
「俺はそう思います。今暇やから入るだけで、通常の仕事が戻ったら邪魔になる可能性が高いです」
俺も図面を見る。
黒瀬精機には、小ロット、追加工、修理、治具、急ぎの単品といった相談が入ってくる。そのために空けておきたい機械まで、単純量産で一日中塞ぐ必要はない。
「十二品種の方は?」
「三つだけ段取りが気になります。前の工場がどう作ってたか分かれば助かりますね」
「まだ操業してる」
「なら見せてもらえたら早いです」
「阪南に聞いてみる」
そこまで確認してから、俺は初めて単価表を開いた。
最初の数品種は、それほど違和感がない。
問題はその先だった。
材料の現在価格を当て、黒瀬で想定した加工時間と検査の手間まで入れると、ほとんど利益が残らない品物が混じっている。三回段取りを変える品物など、提示された単価では機械を動かすほど苦しくなった。
俺は自分で一度原価を組み、その数字をオカンへ持っていった。
「これ、見てくれる?」
「阪南さんの?」
「うん。俺の計算では十二品種中、四つは今までの単価やと厳しい」
オカンは加工方法には口を出さず、材料の仕入れ、外注費、社会保険を含めた人件費、入金と支払いの時期を見た。
「この条件なら、資金が詰まる仕事ではないよ。ただ、この三つは売上増えても粗利ほとんど残らんね」
「やっぱり?」
「直人が出してる加工時間で合ってるならね。そこは森川さんと確認したんやろ?」
「確認済み」
「なら、値段は直人が決め」
それだけだった。
昔のように、オカンに値付けの答えを教えてもらう年齢でも立場でもない。金の流れに無理がないかを見てもらい、最後の値段は俺が決める。
阪南制御へ現在の単価がいつ決まったものか確認した。
『古いものは十五年ぐらい変わってないと思います』
「十五年?」
『途中で材料が上がった時に少し調整したものはありますけど、全部ではないです。向こうから値上げの話がほとんどなかったんで』
十五年前なら一九九四年ごろになる。
材料価格も違う。
社会保険の負担も違う。
その加工屋がどんな設備を持ち、どんな人員で、何を利益として考えていたのかも分からない。
償却の終わった機械で社長自身が加工し、自分の人件費をほとんど計算していなかった可能性もある。長年の付き合いで値上げを言い出せなかっただけかもしれない。
そこを想像しても答えにはならない。
黒瀬精機には黒瀬精機の原価がある。
「直人」
オトンが単価表を覗き込んだ。
「全部取らへんのか」
「十二まで。二つは量産向きのとこ探してもろた方がええ」
「今、機械空いてるやろ」
「今はな」
「仕事ない時に断るんは勇気いるぞ」
「分かってる」
俺は見積書の途中までできた数字を見せた。
「十二も、昔の値段には合わせへん」
「阪南さん嫌がるやろな」
「嫌がると思う」
「それでも?」
「この値段で始めて、半年後に仕事戻ったから急に上げますいう方が無理やろ」
安くても機械が止まるよりまし。
前の人生では、何度もそう考えた。
安い注文で工場を埋め、忙しくなった頃には利益の薄い仕事を切れなくなる。仕事があるのに金が残らないという、一番苦しい状態を自分で作ったこともある。
「森川」
工場へ戻る。
「十二品種入れた場合、今の数量で月どれぐらい機械使う?」
「集計します」
森川は即答せず、各品種の発注回数と予定加工時間を見直した。
「今なら問題ないです。ただ、去年ぐらいまで仕事が戻った状態で数量まで増えたら、そのまま全部は持ちにくいですね」
「その条件も最初から言うとく」
「受注する前に?」
「受注する前やからや」
後になって「こんなはずではなかった」と言うより、最初に続けられる範囲を示した方がいい。
数日後、俺は見積書を持って阪南制御へ行った。
大森さんが最初に枚数を数えた。
「十二品種?」
「はい。この二つは黒瀬でも加工できますけど、数量と内容を見ると、もっと量産向きのところへ出した方がいいです」
「作れるのに受けない?」
「今は受けられます。でも、この仕事で機械を長時間塞ぐと、ほかの仕事が戻ってきた時に続けられなくなる可能性があります」
「こっちは引き継ぎ先を一社にまとめたいんですけどね」
「そこは分かります。ただ、十四全部を無理にうちへ集めて、あとで半分返す方が困るでしょう」
大森さんは何も言わず、見積書をめくった。
次に止まったのは価格だった。
「かなり上がる品物ありますね」
「あります」
「これ、三割近いですよ」
「はい」
「同じ物ですよ?」
「品物は同じです。でも、黒瀬で作る原価は同じではありません」
大森さんの表情が固くなる。
「今までのところは、この金額で十五年ぐらいやってくれてたんです」
「それは聞きました」
「黒瀬さん、今そんなに仕事いっぱいですか」
「いっぱいちゃいます。むしろ余裕あります」
「なら、少しでも機械回した方がええんちゃいます?」
「そのために赤字に近い値段で始める気はないです」
「強気ですね」
「そういう話でもないです」
俺は品種ごとの考え方を説明した。
材料価格だけで上げた品物もあれば、段取りや検査の時間が大きいものもある。一方で、これまでの単価とほとんど変えなくていいものもあった。
「全部一律に上げてるわけではありません。黒瀬で続けて作れる値段を出してます」
「前の加工屋さんは、何でこの値段でできてたんでしょう」
「分かりません」
「分からない?」
「その会社の機械、人、人件費の考え方まで見てませんから。分からんことを理由に、うちの値段を下げることもできません」
しばらく沈黙が続いた。
俺はもう一つ、受注量についても伝えた。
「それと、数量が今の実績から大きく増える時は、改めて相談させてください」
「数量増えたら断るんですか」
「いきなり返すことはしません。ただ、この見積もりは今見せてもらってる数量を前提にしてます。倍、三倍になっても無条件で全部引き受ける約束にはせんといてください」
「長く任せたいんですけど」
「長く続けたいから言うてます」
大森さんは見積書を閉じた。
「社内で一回相談します」
「お願いします」
その場で注文は決まらなかった。
帰りの車では、さすがに迷った。
十二品種もの定期仕事が来る。
工場には余裕がある。
それなのに値段を上げ、二品種を断り、数量条件まで付けた。
もっと取りやすい言い方はあったかもしれない。
だが工場へ戻り、森川に結果を伝えても、数字を変えようとは思わなかった。
「持ち帰りやった」
「価格ですか?」
「それもある。二品種取らんことも」
「そうですか」
「全部取った方がええと思う?」
森川は予定表を見てから答えた。
「今月だけ見たら十四全部欲しいです。でも、工場長として半年後まで責任持て言われたら、俺は十二の方がええです」
「理由は?」
「空いてるから入る仕事と、黒瀬に合う仕事は違いますから」
「そうやな」
「値段は直人さんの仕事なんで知りませんけど」
「そこまで逃げんでもええやろ」
「ほんまに知りませんから」
笑いながら、それで話は終わった。
三日後、阪南制御から返事が来た。
『黒瀬さん、十二品種の件です』
「はい」
『お願いする方向で決まりました。ただ、一気に全部移すのではなく、まず五品種からで』
「五品種?」
『今の加工先さんが来月いっぱいまでは動いてくれるので、最初の五つを黒瀬さんへ移して、問題なければ残りも順次切り替えます』
「それがええと思います」
『外した二品種は別で探します。社内でも、数量考えたら専業に近いところへ出した方がいいという話になりました』
「ありがとうございます」
『それと、今作ってもらってる工場、一度見に行きませんか』
「作り方を?」
『社長さんが、次の加工先が決まったなら見せてもいいと言ってます。阪南からお願いしてる治具もありますし、向こうが自分で作ったものもあるそうです』
その言葉で、俺は一度確認した。
「治具の所有は分けて分かります?」
『分かるようにします。うちの資産なら勝手に譲れませんし、向こうの自作なら社長さんの判断ですから』
「それなら行きます」
数日後、俺と森川は大森さんと一緒に、その町工場を訪れた。
高井田から車でそう遠くない場所にある、小さな工場だった。
中では年季の入った旋盤がまだ動いている。
社長は六十八歳だという。
「黒瀬さんか」
「はい」
「阪南さんの品物、持っていくんやて?」
「十二品種の予定です。まず五つから」
「全部持っていったらええのに」
「二つはうちより向いてるところあると思いまして」
社長が笑った。
「変わった会社やな」
作業台には阪南制御の品物と何種類かの治具が並んでいた。
大森さんが先に一つを指した。
「これは阪南の支給治具です。こっちは?」
「それは俺が昔、自分で作ったやつや」
社長が古い治具を持ち上げた。
「材料も加工もこっち持ち。阪南さんの資産ちゃう。もう仕事やめるから、黒瀬さん使うんやったら持っていってええで」
「ありがとうございます。ただ、うちで寸法確認してから使います」
「好きにしたらええ。だいぶ削ってるから、そのまま載せん方がええぞ」
誰の物か分からない治具を、勢いで持ち帰ることはしない。
阪南制御の支給治具は、そのまま阪南制御の資産として引き継ぐ。加工屋が自費で作った治具だけは、本人の了解を得たうえで譲ってもらう。
社長は加工品を一つ手に取った。
「こいつは最初の面だけ気ぃつけたら後は楽や。こっちは最後の穴で逃げる」
説明は短かった。
それでも図面だけでは分からない情報が次々に出てくる。
どの刃物が減りやすいか。
材料によって反りが出やすい品物はどれか。
数量が少ない月はどの品種と一緒に段取りしていたか。
森川が必要なことを聞き、譲り受ける治具についても摩耗箇所を確認した。
帰り際、社長が俺を呼び止めた。
「阪南さん、昔から値段変えてへんやつあったやろ」
「ありました」
「やっぱりな」
「何で値上げせえへんかったんです?」
社長は少し考え、工場の奥を見た。
「最初は、まあええかと思ってん」
「はい」
「その次は、今さら言いにくなった。材料上がった時も、ほかで何とか出てたからそのままや」
「十五年ぐらい?」
「そんなもんやろな」
「しんどくなかったですか」
「最後の方はな」
それだけ言って、社長は笑った。
「黒瀬さんはいくらで取ったん?」
「品物によりますけど、上げました。三割近いのもあります」
「阪南さん、渋い顔したやろ」
「しました」
「そらするわ」
そこでまた笑う。
「でも、続けるんやったらそれでええんちゃうか。俺みたいに言いそびれたら最後まで言われへんぞ」
俺は返事の代わりに頭を下げた。
工場へ戻ると、森川は譲ってもらった治具をそのまま機械へ載せなかった。
宮田と寸法を確認し、村井には対象品の図面と照合させる。
「使える?」
「使えます」
森川が答えた。
「ただ、この当たり面だけ修正した方がいいです。今の機械に合わせた方が段取り楽になります」
「なら任せる」
阪南制御の支給治具については、勝手に削らない。変更が必要なら先方へ確認する。
自社所有になった治具と、客先から預かっている治具を同じようには扱えない。
最初の五品種が入ってきたのは翌週だった。
森川は既存の仕事を押しのけず、空いていた時間へ分散して組んだ。山岸さんには旋盤物が一品、村井にも一品が回り、宮田は段取りの多いものを担当する。
廃業する工場から受け取った加工方法を、そのまま真似るわけでもない。
黒瀬精機の機械に合わせて段取りを組み直し、使える治具は寸法を確かめて使う。
夕方、村井が最初の一個を森川のところへ持っていった。
「できました」
森川が測る。
しばらく測定器を動かし、図面と照らし合わせたあとで頷いた。
「これで続けて」
「はい」
村井が旋盤へ戻る。
機械の音はいつもと変わらなかった。
その日の売上だけを見れば、もっと安い値段でも仕事を取った方が良かったように見えるかもしれない。
だが、この五品種は来月も、その先も続く可能性がある。
空いている今月だけ成立する値段では困る。
譲ってもらった治具は使えるところだけ直し、加工方法も黒瀬の設備に合わせた。十四品種を丸ごと抱え込まず、向いていない二品種は最初から外してある。
前の工場が十五年かけて作ったやり方の中から、こちらで続けられる部分だけを受け取った。
夕方、オトンが工場へ入ってきた。
「動いてるな」
「うん」
「阪南のやつ?」
「今日から五品種」
「値段、通ったんやな」
「通った」
「昔より高いんやろ?」
「高い」
オトンは旋盤の方を見る。
「前の社長、何か言うてた?」
「値上げ、言いそびれたって」
「言いそびれて十五年か」
「らしい」
「長いな」
「長い」
それ以上、二人とも何も言わなかった。
機械の前では村井が次の材料をくわえ、山岸さんは別の通常品を削っている。森川は明日の予定を見ながら、阪南の仕事をどこまで進めるか確認していた。
黒瀬精機に移ってきた五品種は、昨日まで別の町工場で作られていた仕事だ。
図面も、使える治具も、加工上の注意も受け取った。
ただ一つ、十五年間変わらなかった値段だけは、そのまま持ってこなかった。
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