第184話 保留では済まない
2008年9月16日、火曜日。
朝の事務所で流れていたラジオが、アメリカの大手証券会社リーマン・ブラザーズの経営破綻を繰り返し伝えていた。
新聞を広げていた隆夫が、記事の一面を指で叩く。
「昨日からこればっかりやな」
「そら大きいからな」
「アメリカの証券会社一つ潰れて、そんなに変わるんか?」
直人は新聞を覗き込んだ。
見覚えのある社名だった。
いや、見覚えがあるという程度ではない。
51歳まで生きた人生で、製造業に身を置いていた人間なら忘れようがない。後に「リーマン・ショック」と呼ばれることになる出来事の中心にある名前だ。
ただ、知っているのは世の中全体の流れでしかない。
黒瀬精機のどの客から、いつ、何個の注文が消えるのかまでは分からなかった。
「すぐ全部止まるとか、そういう話ではないと思う」
直人は答えた。
「でも、もう設備投資止めてる会社増えてるやろ。あれが長引く可能性はある」
「また仕事減るか」
「減るかもしれん」
「かもしれんばっかりやな」
「そこまでしか分からん」
隆夫は新聞を畳んだ。
「ほな、分かる数字だけ見とけ」
「うん」
工場では、いつも通り機械が動き始めた。
ニュースが大きくても、昨日までに受けた注文が朝になって消えるわけではない。
山岸浩司は旋盤へ材料を載せ、宮田悟と村井健太も予定されていた加工へ入る。森川修一は納期順に作業を確認し、午前中はいつもの火曜日と大きく変わらなかった。
変化が見え始めたのは、それからだった。
9月末、新大阪計測機器から、見積もりを出していた小ロット品について連絡が入った。
佐野真紀が受話器を置き、見積書を持って直人のところへ来る。
「これ、中止です」
「他社?」
「違います。装置そのものを作らないそうです」
直人は見積書を受け取った。
価格を出し、納期も回答している。
けれど、比較で負けたわけではない。
「結果、中止で残しといて」
「はい」
佐野は見積管理の欄へ書き込んだ。
10月に入ると、それまで「保留」だったものが少しずつ形を変えた。
中部機工から来た連絡では、黒瀬へ残っている継続品の数量がさらに減った。
『黒瀬さん、今月分なんですが、前にお話しした数量より減らさせてください』
「もう材料取ってる分ありますよ」
『どこまでです?』
直人は佐野に確認した。
正式注文を受けた分については、すでに必要量を手配している。
「注文書もらってる数量分は、そのまま引き取ってもらわんと困ります」
『そこは引き取ります。次から減らしたいんです』
「次回分?」
『はい。装置台数が落ちてまして』
「分かりました。次の正式数量もらってから動きます」
電話を切った。
これまでなら、数量が減っても翌月や翌々月に戻る可能性を考えた。
ところが10月は、一社だけではなかった。
別の取引先では年内予定だった設備更新が延期になった。
新大阪計測機器でも、秋に予定されていた装置が一台、正式に中止となった。
佐野の机から見積書が消えたわけではない。それでも、書類の一番上に置かれる紙の種類が変わった。
見積依頼よりも、
《延期》
《数量変更》
《案件中止》
と記されたメモが目立つようになった。
「今月、見積依頼そのもの何件?」
直人が聞くと、佐野は記録を確認した。
「先月より減ってます」
「回答待ちは?」
「ありますけど、先方の社内確認待ちが多いです」
「Webも?」
「少ないです」
「そうか」
直人はそれ以上聞かなかった。
価格を下げれば取れる仕事なら、まだ選択肢がある。
今回増えているのは、価格を出すところまで進まない仕事だった。
10月半ばの水曜日、昼休みが終わって一時間ほどした頃、山岸が森川のところへ来た。
「これ終わったで」
「寸法は?」
「見た。問題ない」
森川は次の作業を確認したが、その日の山岸へ新しく載せる仕事はなかった。
「今日はここまでです」
「何か別でやる?」
「急ぎはないです」
「ほな旋盤見とくわ」
「この前かなり見てもらってますよ」
「せやったな」
山岸が少し笑った。
「毎週開けてもしゃあないか」
「そういうことです」
山岸は工具棚の整理へ向かった。
宮田側も、午後3時を回る頃には予定されていた加工が終わった。
村井が森川へ聞く。
「明日の分、前倒しします?」
「材料来てる?」
「来てます」
「納期急いでへんやろ」
「はい」
「ほな予定通り明日でええ。今日無理に触らんでええよ」
「分かりました」
工場には、仕事が少ない時にできることがある。
清掃もある。
整備もある。
加工手順の確認もできる。
村井なら、少し難しい図面を渡して工程を考えさせることもできる。
だが、それを毎日の仕事にするわけにはいかなかった。
翌週には、午後から一本も加工予定が入らない機械が出た。
森川は人を遊ばせないために意味のない加工を作らなかった。
必要な片付けや確認を終えれば、そこで終わりだった。
直人は午後4時を過ぎた工場へ降りた。
山岸の旋盤は止まっている。
宮田のところだけが動いていた。
「森川さん」
「はい」
「今週、こんなん何日目?」
「丸々空いたわけではないですけど、午後薄い日は3日目です」
「来週は?」
「今決まってる分だけなら似た感じです」
「分かった」
森川は予定表を見たまま続けた。
「新大阪さんの補修が予定通り来たら、宮田と村井は少し埋まります」
「まだ注文ちゃうやろ?」
「話だけです」
「ほな数には入れんとこ」
「入れてません」
直人は頷いた。
森川に言う必要のない確認だったと気づき、それ以上は口を出さなかった。
10月末、美智子が月次の数字をまとめた。
売上は明確に落ちていた。
「材料の支払いも減ってる」
美智子は帳簿を見ながら言った。
「外へ出す仕事も少ないから、そこも下がってる。でも売上の落ち方の方が目立つな」
隆夫が数字を見る。
「先月より悪い?」
「悪い」
「今すぐ困る?」
「そこまではいかへん」
「年末までこれ続いたら?」
「その時はもう一回見る」
美智子は曖昧に答えたわけではない。
入金予定、支払い予定、人件費、社会保険、水道光熱費。今の黒瀬精機から出ていく金と、入ってくる金を見た上での返事だった。
直人は横から口を挟まなかった。
未来を知っているからといって、帳簿の数字が変わるわけではない。
むしろ、この後もっと悪くなる可能性を知っているからこそ、今の時点で慌てて余計なことをしない方がよかった。
11月初旬、新大阪計測機器から佐野へ電話が入った。
「直人さん、ちょっと変わった相談です」
「何?」
「古い検査装置の部品、作れないかって」
「図面ある?」
「ないそうです」
「現物は?」
「あります」
直人が受話器を代わった。
『黒瀬さん、古い装置なんですけど、メーカーに聞いたらもう部品出ないって言われまして』
「何の部品です?」
『センサーの位置を調整してるアルミのブロックです』
「壊れた?」
『削れてます。調整しろが足りなくなってきてるみたいです』
「安全に関わるところではない?」
『違います。位置決めだけです』
「現物だけ見て同じもん作って、で済むかは分かりませんよ」
『やっぱり無理ですか』
「見てからです。摩耗してるなら、今の寸法そのまま写したら元より小さいもん作ることになります」
『なるほど』
「先に写真ください。装置のどこに付いてるかも分かるようにお願いします。その後、現物見ます」
数日後、写真と資料、それから現物が届いた。
森川が加工側の人間を集めた。
宮田と村井が机につき、直人も横から見る。
届いたのは手のひらに収まるほどのアルミ製ブロックだった。
一面には擦れた跡があり、角も少し丸くなっている。
村井は現物を何方向かから見た後、摩耗面を指した。
「ここ、基準にはできませんね」
宮田が頷く。
「減ってるな」
「反対側測って、厚み足すだけでも元寸法は出ないですよね」
「装置側でどこの位置出したい部品か分からんとな」
村井が穴位置を見る。
「取付穴は使えそうです。でも、ここからセンサー中心まで何ミリ欲しいか先方に聞きたいです」
森川が直人を見る。
「確認できます?」
「聞いてみる」
新大阪計測機器へ連絡すると、装置側で必要な位置を測ってもらえることになった。
その日の午後、追加の寸法がFAXで届いた。
村井が紙を見比べる。
「これなら戻せると思います」
「どうする?」
森川が聞いた。
「取付穴を基準にして、必要な位置から面を決めます。現物の摩耗してへん側は確認に使います」
宮田も図を見た。
「それでええと思う」
森川が村井へ言う。
「ほな、お前やって。最初の1個だけ宮田にも見てもらって」
「はい」
数量は2個だった。
一つを交換用、もう一つを予備にしたいという。
村井は自分で材料を確認し、加工順を決めた。
宮田は横へ付ききりにならず、最初の段取りと加工後の寸法だけ確認した。
「どうです?」
村井が測定結果を見せる。
宮田は数字を確認し、品物を手に取った。
「ええんちゃう。二つ目も同じで」
「はい」
加工自体は大仕事ではない。
黒瀬の工場を一日埋めるような量でもなかった。
それでも、仕事が減っている時期に正式な注文書が一枚増えたことを、誰も軽くは扱わなかった。
二つのブロックは、新大阪計測機器へ納品された。
翌日、佐野が電話を受けた。
「直人さん、昨日の部品、問題なく付いたそうです」
「位置も?」
「大丈夫だそうです」
「よかった」
「先方、もう一回話したいそうです」
直人が受話器を取った。
『黒瀬さん、助かりました』
「ちゃんと動いてます?」
『動いてます。センサー位置も出ました』
「ならよかったです」
『同じ装置、もう一台あるんですよ』
「同じ部品使ってる?」
『多分。ただ、そっちはまだ大丈夫です』
「なら悪くなってから現物だけ送るんやなくて、動いてるうちに一回寸法見といた方がええかもしれません」
『そうですね。確認しときます』
「ただ、何でも現物から作れるわけちゃいますよ。今回みたいに必要な位置が確認できるものなら検討できますけど」
『分かってます。また必要になったら相談します』
電話を切った。
佐野が聞いた。
「もう一台あるんですか?」
「あるらしい。でも今すぐ仕事ちゃうで」
「分かってます」
「そこ強調せんでもええか」
「最近、直人さん自分で先に言いますね」
「何を?」
「まだ注文じゃないって」
直人は少し笑った。
「癖なってるな」
「森川さんにも言ってますよ」
「言うてた?」
「この前」
「……気ぃつけるわ」
佐野も笑った。
その日の午後、直人は工場へ降りた。
村井は別の注文品を加工している。
宮田は測定を終え、山岸の旋盤も動いていた。
久しぶりに全部の機械から音が出ているように感じたが、長くは続かなかった。
午後4時前、山岸の加工が終わった。
次に載せる仕事は翌日からだった。
機械の回転が止まり、切削油の流れる音も消える。
村井が作った補修部品2個は、客先で役に立った。
売上にもなった。
だからといって、中止になった装置一台分の仕事や、減った中部機工の数量が戻ったわけではない。
森川は翌日の予定を確認すると、空いている機械へ何も書き足さなかった。
直人も口を出さなかった。
しばらくして村井の加工も終わった。
工場の音がまた一つ減った。
その日の仕事を終えた山岸が、いつものように機械を拭いている。
直人は少し離れたところからそれを見たあと、事務所へ戻った。
机の上には佐野が置いた注文書が三枚あった。
その横には、案件中止を知らせるFAXが二枚置かれていた。
直人はまず、三枚の注文書から順に目を通した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます