第183話 機械が止まる午後

 2008年4月、中部機工から届いた注文書を見て、佐野真紀はすぐに前回分の受注記録を開いた。


「数量、減ってますね」


「どれぐらい?」


「この品種は前回の半分までは落ちてません。でも、今月だけ見るとかなり少ないです」


 3月の時点で、装置の受注予定を見直しているため数量を確定できないと聞いていた。ようやく届いた注文だったが、以前と同じ量へ戻ったわけではない。


 直人は注文書を手に工場へ降り、森川修一へ渡した。


「中部さん、これで確定」


「来月は?」


「まだ分からん。今月はこれだけ」


 森川は数量と納期を確認し、その場で大げさな反応はしなかった。


「分かりました。宮田に回します」


「他の仕事とぶつかる?」


「ぶつかりません。むしろ今なら余裕あります」


 その「余裕」が、少し前までとは違っていた。


 納期に余裕があるのではない。工場側に仕事のない時間ができ始めている。


 数日後、中部機工分の加工を終えた午後、宮田悟と村井健太はフライス盤まわりの清掃を始めた。普段の終業前清掃では外さないバイスを取り外し、下へ入り込んだ切粉と油を拭き取っていく。


 直人が近づくと、村井が汚れた布を持ったまま笑った。


「結構入ってますね」


「毎日掃除してても?」


「上から取れる分と、外さんと見えん分は別です」


 宮田が外した部品の当たり面を確認していた。


「これぐらいやったら問題ないです。せっかく外したし、戻してから一回見ます」


「仕事入ったら途中でも戻せる?」


「それは大丈夫です」


 少し離れた旋盤側では、山岸浩司もチャック周辺を開けていた。修理が必要な故障が出たわけではなく、まとまった時間があるうちに確認しておきたいという。


 直人は森川へ聞いた。


「今日、どこまで空いてる?」


「午後はここ二つです。明日は朝から仕事あります」


「ほな今日のうちにやれるとこまでやっとこ」


 機械を止めること自体は悪くない。仕事が詰まっている時には後回しになりがちな手入れをできるなら、その時間にも意味はある。


 ただ、それが毎週続けば話は別だった。


 5月に入ると、新大阪計測機器から来る見積依頼にも変化が出た。


 佐野がWeb画面を見ながら、直人を呼ぶ。


「この前話だけ来てた検査装置、まだ見積依頼に出てません」


「予定いつやった?」


「先方が言ってたのは5月中です」


「確認した?」


「さっきしました。社内承認がまだだそうです」


「中止?」


「そこまでは言われてません。少し待ってください、とのことです」


 直人は画面を覗いた。


 見積図面が出ていないなら、黒瀬が失注したわけではない。競合へ取られたわけでもない。注文を取り戻すために値段を下げる余地すら、まだない。


「先方から動いたら教えて」


「はい」


 電話を切った後に仕事が消えるより、何も始まらない方がやりにくい。


 理由を聞いても、答えは「まだ決まっていない」で終わる。


 6月、直人は既存の取引先を回った。


 営業資料には、これまで黒瀬がやってきた小ロット、試作、設計変更への対応、協力工場を含めた加工範囲をまとめている。価格表を持って安売りに回るつもりはなかったが、だからといって会社で電話を待っているだけにもできない。


 最初の会社では、担当者が申し訳なさそうに言った。


「黒瀬さんに頼みたい案件がないわけじゃないんです。ただ、設備側の決裁が止まってまして」


「いつ頃動きそうです?」


「夏ぐらいにはと言いたいんですけど、今は何とも」


 次に寄った会社でも似た話をされた。


「今年の更新、少し後ろへずらすかもしれません」


「故障した時の補修は?」


「それは要ります。でも、新しく作る方が止まってるんですよ」


 その日の最後に訪ねた先では、見積もり以前の図面すらまだ出せないと言われた。


 帰りの車の中で、直人は信号待ちのたびにメモを見返した。


 三社回って、値段が高いとは一度も言われなかった。


 競合に負けた話もない。


 案件そのものが動いていない。


 会社へ戻ると、森川が翌週の作業を組んでいた。


「どうでした?」


「仕事ください言うて、その場でもらえる感じちゃうな」


「向こうも暇なんです?」


「暇いうより、決めるの止めてるとこが多い」


「こっちは来た仕事やるしかないですね」


「うん。それでええ」


 森川はそれ以上営業の話へ踏み込まず、翌週の配置に戻った。


 今ある仕事をどう流すかは森川の仕事であり、次の仕事をどう持ってくるかは直人の仕事だった。


 7月、仕事の薄い日が月に何度か現れるようになった。


 それでも工場全体が暇になったわけではない。急ぎの試作品が入れば、二日ほどは一気に詰まる。納期変更が重なれば、森川が順番を動かし、宮田や村井も加工を切り替える。


 問題は、その忙しさが長く続かないことだった。


 ある火曜日、村井がアルミの小物を仕上げた後、次の図面を取りに森川のところへ行った。


「次、何やります?」


「今日のお前の分は終わり」


「何か手伝うとこあります?」


「宮田のはもう乗せてる。山岸さんもいらん言うてる」


 村井が少し困った顔をした。


「じゃあ、測定器の整理やっときます」


「頼む。終わったら俺んとこ来て」


 午後、森川は村井に過去の図面を一枚渡した。


「これ、今やるならどう段取り組む?」


「加工するんですか?」


「せえへん。考えるだけ」


 村井は図面を受け取り、自分で工程を書き始めた。


 宮田が答えを横から言うことはない。


 一通り書き終えたところで宮田が呼ばれ、順番とつかみ方を確認した。


「ここ先にやったら、次つかみにくない?」


「あ……そうか」


「やり直してみ」


「はい」


 仕事が少ないからできることはある。


 だが、教育をしたから売上が立つわけではない。


 その現実は、美智子が月末の数字を見ればはっきりした。


「4月よりは戻ってるけど、去年の同じ頃と比べたら弱いな」


 美智子は帳簿を見たまま言った。


「材料の支払いも減ってるから、売上落ちた分がそのまま出ていく金の増加にはなってへん。ただ、人件費や社会保険まで同じようには減らんで」


「うん」


「今すぐ困る数字ちゃうよ」


 直人が顔を上げる。


「ほんまに?」


「ほんま。そこは変に怖がらんでええ。ただ、何か月続くかは見とかなあかん」


 隣で聞いていた隆夫が口を挟んだ。


「一月悪いだけで人の話すんのは早い。けど半年悪かったら?」


 直人は父を見た。


「それは考える」


「何を残して、何を止める?」


「まだ決めへんよ」


「決めろ言うてへん。考えとけ言うてんねん」


 隆夫は机を指で軽く叩いた。


「仕事戻った時に要るもんまで先に切ったら、戻ってきた時に作られへん。せやけど、何も触らんまま金なくなったらもっと作られへん」


「分かってる」


「ならええ」


 直人には、未来の記憶がある。


 2008年が穏やかな一年ではなかったことも覚えている。


 だが、何月何日に黒瀬のどの客が何個減らすかまで知っているわけではないし、未来で経験した景気後退と、今の黒瀬精機の体力も同じではない。


 知っているから先回りできることと、数字を見なければ決められないことは分けるしかなかった。


 8月、佐野の机に置かれる見積依頼が目に見えて少なくなった。


 以前なら材料価格や加工時間の確認を待つ書類が何件か重なり、直人が外から戻ると佐野に捕まることもあった。


 その日は昼を過ぎても、急ぎの確認が一件もなかった。


「今日、静かやな」


 直人が言うと、佐野は手元の書類から顔を上げた。


「今月、こういう日増えてますよ」


「俺がおらん時だけ忙しいとかちゃう?」


「そんな都合よくないです」


「せやな」


「見積回答待ちが2件ありますけど、どっちも先方の返事待ちです」


「追わんでええ?」


「一件は昨日確認しました。まだ社内で止まってます」


 その時、電話が鳴った。


 佐野が取る。


「はい、黒瀬精機です」


 直人は自分の机へ戻りかけたが、佐野の返事が耳に入って足を止めた。


「はい……分かりました。では、正式に決まりましたら改めてお願いします」


 受話器を置いた。


「新大阪?」


「はい。秋に予定してた装置、後ろへずれるそうです」


「どのくらい?」


「まだ決まってないそうです」


「図面は出てへんかったよな」


「出てません」


「なら材料も何も動いてへんな」


「はい」


 損失が出たわけではない。


 しかし、秋に来る可能性があった仕事が、いつ来るか分からない仕事へ変わった。


 直人は午後からもう一度外へ出た。


 会社へ戻ったのは4時を少し過ぎた頃だった。


 工場へ入った瞬間、音が少ないと分かった。


 山岸の旋盤は動いている。宮田のところでも加工音がしていた。


 その横で、村井は仕上がった品物を洗浄している。


 普段ならもう一台から聞こえるはずの切削音がなかった。


「故障?」


 直人が森川へ聞く。


「違います。今日乗せる仕事がないだけです」


「明日は?」


「午前は入ってます。午後は今のところ薄いです」


 直人は止まっている機械を見た。


 整備はすでにやった。


 掃除もした。


 村井へ教えられることもある。


 それでも、毎日それで時間を使えるわけではない。


「新しい注文来たらすぐ動ける?」


「それは大丈夫です」


「分かった」


 その日は定時を過ぎても残る理由がなかった。


 森川が作業の区切りを確認し、機械を止める。宮田と村井が清掃を終え、山岸も道具を戻した。


「お先です」


「お疲れさん」


 直人は事務所から工場へ出ていく背中を見送った。


 残業がないこと自体は悪いことではない。


 だが、それが予定通り仕事を終えた結果なのか、やる仕事がない結果なのかで意味は変わる。


 9月に入ると、客先から返ってくる言葉はさらに似てきた。


 延期。


 保留。


 社内再検討。


 数量未定。


 価格を下げれば取れるという話ではない。


 発注する側が、金を使う判断そのものを遅らせている。


 9月12日の金曜日、直人は朝から二社を回った。


 一社では新しい設備の導入時期が年内から未定へ変わったと聞き、もう一社では試作案件をいったん止めると言われた。


「黒瀬さんの問題じゃないんです」


 二社目の担当者は、そう付け加えた。


「上が今、設備関係を全部見直してるんですよ。図面まで進んだらまた声掛けます」


「分かりました」


 直人は名刺入れをしまった。


「動いた時でええです。無理に見積もりだけ作っても意味ないんで」


「すみません」


「いや、こっちも同じ話ほかで聞いてますから」


 会社へ戻ったのは午後3時前だった。


 事務所では佐野が通常の受注処理をしている。美智子は支払い予定を確認し、隆夫は仕入先から来た書類を見ていた。


 工場へ降りる。


 動いている機械はある。


 しかし、全てではない。


 村井が翌週使う材料を確認し、宮田が測定器を戻している。山岸は加工を終えた品物の寸法を見終わったところだった。


 森川が直人に気づいた。


「どうでした?」


「二社とも止まってる」


「値段ですか?」


「ちゃう。案件そのもの」


 森川は一度だけ頷いた。


「こっちも来週、少し空きます」


「今ある分、無理に前倒しせんでええよ」


「してません」


「うん」


 それ以上、直人は何も言わなかった。


 夕方5時を過ぎると、工場の音が順番に消えた。


 いつも通り清掃を終えた者から着替え、森川が最後に機械と翌週の作業を確認する。


 直人も事務所へ戻った。


 机の上には、新しい見積依頼は置かれていなかった。


 代わりに、佐野が今日受けた電話のメモが一枚あった。


《案件保留。再開時期未定》


 直人はそれを受注予定へ移さず、保留の書類と一緒に置いた。


 外はまだ少し明るかった。


 それなのに工場の奥から、もう切削音は聞こえてこなかった。


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