第182話 昨日の値段では作れない

 2007年5月、黒瀬精機の事務所では、材料屋から届いた見積書をそのまま机の端へ置けなくなっていた。


 数か月前に取った価格が、もう当てにならない。


 アルミ、ステンレス、一般鋼材。上がり方はそれぞれ違うが、佐野真紀が見積原価を組むたび、以前の記録との間に差が出るようになっていた。


「直人さん、中部機工からです」


 佐野が図面と注文履歴を持ってきた。


 中国への移管後も黒瀬に残っている3品種のうち、1品種について次回価格の確認が来ている。


 直人は図面を見る前に、佐野の横に置かれた材料見積へ目を移した。


「また上がった?」


「はい。材料だけじゃなくて、外へ出してる処理費も前回より上がってます」


「数量は同じ?」


「予定では同じです。ただ、まだ正式注文じゃありません」


「森川さんにも回そか」


 工場へ降りると、森川修一は別の仕事の進み具合を確認していた。


 図面を受け取り、製造記録と見比べる。


「これですか」


「今の加工時間、まだ合ってる?」


「大きくは変わってませんね」


 森川は宮田悟を呼んだ。


 宮田も図面を見てから、以前の実績を確認する。


「段取り変えるほどではないです。材料取りを詰めても、今回の数量やったらほとんど変わらんと思います」


「加工時間は?」


「削ろう思ったら削れますけど、数分ですよ」


 横で作業していた村井健太も手を止めた。


「前の時も、加工そのものより測定と洗浄まで入れたら、そんなに余ってなかったですよ」


 もう入社して7年以上になる。


 昔のように、宮田の横で寸法を読むだけではない。簡単な品物なら自分で段取りを組み、加工時間も出す。宮田が確認に入るのは、判断が難しいところや変更のある仕事が中心になっていた。


 直人は村井に聞いた。


「今やり直すなら、どこ変える?」


「俺なら加工順はそのままです。材料高いからって切りしろまで詰めすぎたら、逆にやりにくいです」


「宮田さんも?」


「俺もそう思います」


 森川が最後に言った。


「今のやり方で安定してます。値段上がった分を、現場で何とか吸収してくれ言われたらできますけど、そのために工程触る方がもったいないです」


「分かった。ほな触らん」


 事務所へ戻り、佐野が新しい材料価格と処理費を入れた。


 直人は加工賃まで一緒に上げることはしなかった。


 変わっていないものまで値上げの理由にする必要はない。


「これで出そ」


「前回より上がりますよ」


「上がった分だけな」


「中部さん、比較すると思います」


「するやろな」


 翌日、購買担当者から電話が掛かってきた。


『黒瀬さん、今回の価格なんですけど、前より上がってますよね』


「はい」


『加工方法は変わってないですよね』


「変わってません。材料と外注処理が上がってます」


『もう少し吸収できませんか』


「どこを、です?」


 相手が少し黙った。


『いや、材料高なのは分かってるんです。ただ、こちらも設備価格へ全部乗せられるわけではないので』


「そこは分かります」


『中国側も含めて、調達先は見直してます』


「それも分かってます」


 直人は机の上の原価表を見た。


「ただ、前の値段で出すなら、材料が上がった分を黒瀬がそのまま持つ形になります」


『今回分だけでも難しいですか』


「今回だけ前の値段にしたら、次もそこが基準になるでしょう」


『……そうですね』


「黒瀬も続けたいです。でも、続けるなら続けられる値段でやりたいです」


 その場では決まらなかった。


 数日後、今回は新しい価格で注文が入った。


 ただし注文書とは別に、今後は他社とも比較するという連絡があった。


 隆夫がそれを読んだ。


「次、なくなるかもしれんな」


「あると思う」


「それでも上げたんか」


「前の値段でも赤字ではない」


「ほな、まだ作れるやろ」


「作れる。でも材料上がるたびに利益薄くして、それを何年も続けるんは違うやろ」


 隆夫はすぐには返さなかった。


 直人も、父が反対しているとは思っていなかった。


「客も材料上がってるんは一緒や」


「せやな」


「向こうも自分とこで全部かぶられへん。こっちも全部かぶられへん。それだけや」


「ほんで、安いとこ見つかったら移る」


「うん」


「昔からそれは変わらんな」


 隆夫は注文書を直人へ返した。


「なら、取れる仕事取ったらええ」


 その品物は夏にもう一度注文が入り、秋には別の工場へ切り替わった。


 中部機工からは、他社の方が継続価格を抑えられるためだと説明があった。


 品質問題があったわけでも、黒瀬が納期を外したわけでもない。


 条件が合わなくなった。


 直人はそれ以上値段を下げなかった。


 中部機工から黒瀬へ残る継続品は、また1つ減った。


 仕事が抜けた翌週、森川が製造予定を引き直した。


「この時間、空きます」


「どのくらい?」


「月によって違いますけど、今まで中部さんに入れてた分です」


「他で埋めるために残業増やす必要はないよな」


「ないです。今入ってる仕事なら、そのまま回せます」


「ほな空けとこ。何でもええから入れるんはやめよ」


 直人は営業へ飛び出さなかった。


 売上が減ったのだから、仕事は欲しい。


 だが、空いた時間を埋めるためだけに、また利益の薄い継続品を抱え込めば同じことになる。


 8月、新大阪計測機器からアルミ製のセンサーブラケット6個の見積依頼が来た。


 試作機に使う部品で、正式図面が出てから組付けまでの日数が短い。


 佐野が図面を印刷し、村井へ回した。


 村井は図面を机の上へ置き、加工順を書き出した。宮田が横から確認する。


「ここ、最初に取る?」


「はい。後に回したらつかみにくくなるんで」


「測定は?」


「こことここ。最後に全体見ます」


「時間は?」


 村井が答える。


 宮田は少し考えた後、


「そのぐらいやな」


 と頷いた。


 森川も製造予定を確認した。


「水曜午後から入れます。6個なら木曜中に加工終われます」


「無理してへん?」


「してません。中部さんの分が抜けたとこ使えます」


 直人はそれを聞いてから事務所へ戻った。


 佐野が材料費を入れる。


「前に似たサイズで出した時より高くなります」


「今回は6個だけやしな」


「はい。材料まとめる相手も今のところありません」


「そのまま出そ」


 見積もりを返すと、購買担当者から電話が来た。


『黒瀬さん、やっぱり前より高いですね』


「材料上がってます。それと6個だけなんで」


『もう少し下げる方法あります?』


「納期を延ばせるなら」


『どのくらいですか』


「2週間ぐらいもらえたら、他の仕事と材料まとめられるか探します」


『来週組みたいんですよ』


「なら今の値段です」


 相手は少し考えた。


『木曜までに本当にできます?』


「今日注文もらえたら、できます」


『分かりました。注文書送ります』


 その日のうちにFAXが届いた。


 値段が上がったことは同じだった。


 中部機工の継続品は安い工場へ移り、新大阪計測機器の6個は黒瀬へ来た。


 違うのは、客でも会社でもない。


 その仕事を、いつ、何個、何のために必要としているかだった。


 9月、美智子が月次の数字を見ながら直人を呼んだ。


「これ、材料代の伸び方おかしいで」


 帳簿の一行を指している。


「売上そんな増えてへんのに、ここだけ材料が上がってる」


「見積もり出した時と、注文来た時で材料値段変わったやつや」


「どの仕事?」


 直人が伝票を探し、該当する注文を出した。


 見積もりから正式注文まで間が空いていた。


 受注後に材料を取り直した時には、最初に見ていた価格より上がっている。


「客には?」


「見積もり有効期間の中やったから、そのまま受けた」


「ほな黒瀬持ち?」


「今回はな」


 美智子はしばらく数字を見ていた。


「次も同じことなるんちゃう?」


「もう変えた。材料値動き大きいやつは見積もりの有効期限短くしてる。期間過ぎたら、材料価格だけ取り直す」


「佐野さんも知ってる?」


「一緒に決めた」


「ならええ」


 美智子は赤鉛筆でその一行へ印を付けた。


「これ消さんといてな」


「何で?」


「次また同じこと起きた時、前にもあったやろって見られるから」


「分かってる」


「数字って、儲かった月だけ見るもんちゃうで」


「オカンに言われんでも知ってる」


「知ってても忘れるから残すねん」


 直人は言い返さなかった。


 工場の外側でも値段は変わっていた。


 11月、新大阪計測機器向けの別件で、黒瀬だけでは希望納期へ入りにくいフライス品4個が出た。


 直人は吉岡製作所へ図面を持っていった。


 吉岡は図面と納期を確認し、材料屋へ一本電話を掛けた後、金額を書いた。


「前より上がるで」


「材料?」


「材料もやし、刃物も高うなってる。電気代もじわじわ効く」


「この値段ならできる?」


「できる」


「納期は?」


「ここなら間に合う」


「ほな、それで客へ出す」


 吉岡が顔を上げた。


「値切らんの?」


「何で?」


「いや、黒瀬さんからもうちょい何とかならんか言われる思ってた」


「理由ある値段なんやろ」


「あるで」


「ほなええよ」


 直人は図面を畳まなかった。


「ただ、これで客に合わんかったら今回はなしや」


「それはしゃあない」


「取れたら頼む。取れへんかったら電話する」


「分かった」


「吉岡さんだけ昔の値段でやってくれいうても続かへんしな」


「そら続かんな」


 その4個は、吉岡の見積額を含めた価格で受注になった。


 黒瀬の利益を残すために、協力工場へしわ寄せする必要はなかった。


 客がその価格で買わなければ、仕事そのものが成立しないだけだ。


 2008年に入っても、材料屋から価格改定の連絡は続いた。


 ところが2月を過ぎた頃から、事務所へ掛かってくる電話の内容が少しずつ変わった。


 それまでは、


『高い』


『もう少し下がらないか』


 が多かった。


 今度は違う。


『社内で止まっています』


『設備そのものがまだ決まっていません』


『数量を確定するまで待ってください』


 値段を交渉するところまで来ない。


 佐野が見積管理表を見ながら言った。


「返事待ち、増えてます」


「何件?」


「先月より明らかに多いです。ただ、断りになってないものもあります」


「追いかけすぎんでええ。いつ決まるかだけ聞いといて」


「はい」


「材料は注文書来るまで押さえんように」


「それは今まで通りです」


「そうやな」


 3月、中部機工から電話が入った。


『黒瀬さん、来月以降なんですが、数量をまだ確定しないでください』


「図面変わるんですか?」


『いえ。装置の受注予定そのものを見直してまして』


 直人は受話器を持ったまま、机の横にある製造予定表を見た。


「いつ頃決まりそうです?」


『ちょっと今は言えません』


「分かりました。正式に決まってから連絡ください」


『材料、もう押さえてませんよね』


「数量もらってへんので、何もしてません」


『助かります』


 電話を切る。


 佐野が顔を上げた。


「中部さん?」


「来月以降、未定」


「見積もりだけ作ります?」


「作らん。数量分からんのに材料価格取っても、決まる頃また変わってるかもしれん」


「分かりました」


 直人は工場へ降りた。


 森川が予定表へ次週分を書き込んでいる。


「森川さん、中部さんの来月分、まだ入れんでええ」


「数量変わるんですか?」


「数量そのものが決まってへん」


「仮で空けときます?」


「空けへん。正式に来た仕事から入れて」


「分かりました」


 森川は中部機工の名前を書かなかった。


 少し離れたところでは、村井が加工を終えた品物を宮田と確認している。山岸浩司の旋盤も動いていた。


 工場はいつも通りだった。


 今日の仕事はある。


 明日の仕事もある。


 ただ、その先の空欄が、少しずつ増えていた。


 直人は事務所へ戻り、中部機工の仮数量が書かれた紙を佐野へ返した。


「保留で置いといて」


「はい」


 その日の夕方、別の客から正式注文が1件入った。


 森川は空いていた枠へそちらを書き込んだ。


 中部機工のために残していた場所ではない。


 注文になった仕事のための場所だった。


 3月の製造予定表には、まだ白い部分が残っている。


 直人はそこへ予定のない数字を埋めず、次に来た正式図面を手に取った。

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