第181話 仕事のない日曜日
2007年2月の日曜日、直人は朝から予定がなかった。
客先へ行く約束もない。見積もりを返す期限もなく、工場も休みである。
朝食を済ませた後、携帯電話を手に取って画面を確認したが、着信はなかった。机へ戻してしばらくすると、また手が伸びかける。
直人は途中でやめた。
「……何見んねん」
自分で呟いて、携帯電話を裏返した。
仕事がある日は、次にすることを考える必要がない。
何時に客先へ出る。どの図面を森川へ渡す。どの見積もりを返す。材料屋へ電話する。佐野と条件を確認する。
それがない日曜日になると、午前9時を過ぎても自分が何をすればいいのか決まらなかった。
結局、直人は上着を着て外へ出た。
目的地を決めたのは車へ乗ってからだった。
本屋へ行く。
店内へ入り、新刊の並ぶ平台を眺めているうちに、いつもの癖で経営や産業関係の棚へ足が向いた。
数歩進んだところで止まる。
「今日はええやろ」
誰に言うでもなく呟き、別の通路へ入った。
小説の棚を端から眺めた。
作者の名前を見ても、ほとんど分からない。話題作らしい帯が付いていても、何がどう面白いのか判断できない。
仕事なら、知らない機械でも仕様を見れば考える材料がある。
本は表紙を眺めても分からなかった。
しばらく迷った末、直人は裏表紙のあらすじを読んで、面白そうだと思った一冊を選んだ。
それだけ買って店を出る。
昼前、美智子から電話が掛かってきた。
『直人、今日暇?』
「暇やけど」
『暇いう言葉、あんたの口から初めて聞いた気するわ』
「大げさやな。何?」
『オトンと電器屋行くねんけど、帰りにホームセンター寄るから付き合わへん?』
「何買うん?」
『炊飯器と、台所の細かいもん。荷物持ちがおったら楽やし』
「最初から荷物持ち言うてるやん」
『嫌ならええで』
「行くわ。何時?」
待ち合わせを決めて電話を切った。
隆夫と美智子が暮らす家へ向かう途中、直人は買った小説を助手席へ置いた。
工場とは反対方向へ車を走らせる日曜日も、考えてみれば久しぶりだった。
電器店では、炊飯器を選ぶだけで30分以上掛かった。
「これでええやろ」
隆夫が指した機種を、美智子が横から見る。
「大きすぎる。そんな炊かへんやん」
「大は小を兼ねるいうやろ」
「毎日余計な電気使うために大きいの買うん?」
「ほなこっち」
「そっちは保温が弱いって店員さん言うてたやん」
「さっきから全部あかんやないか」
「ちゃんと選んでんねん」
直人は少し離れたところで二人を見ていた。
「直人、どれがええと思う?」
美智子に聞かれ、直人は値札と仕様表を見る。
「これ」
「何で?」
「容量ちょうどええし、値段も真ん中やし」
隆夫が言った。
「お前、機械選ぶ時みたいに言うな」
「聞かれたから答えたんやろ」
「米食う機械やぞ」
「炊飯器も機械や」
「そういうとこやで、あんた」
美智子が笑った。
結局、直人が選んだものとは別の炊飯器を買った。
「俺に聞いた意味あった?」
「参考にはしたで」
「採用してへんやん」
「参考と採用は別やろ」
佐野にでも言われそうな台詞だと思ったが、口には出さなかった。
ホームセンターへ移り、美智子が台所用品を見ている間、直人は隆夫と店内を歩いた。
工具売場の前を通る。
隆夫が止まった。
「見ていくか?」
「今日はええわ」
「珍し」
「オトンこそ見たいんちゃうん」
「俺は見るで」
「ほな俺も見る」
「結局見るんかい」
二人で売場へ入った。
新しい工具を手に取って話しているうちに、少し離れた通路から子どもの声が聞こえた。
「これがええ!」
「大きすぎるって。足、ちゃんと付いてへんやろ」
直人は声の方を見た。
森川修一が子ども用の自転車を支えていた。
作業着ではなく、普段着だった。
横には女性が立っている。
「森川?」
森川も直人に気づいた。
「直人さん?」
「こんなとこで何してんの」
「休みの日にホームセンター来たらあかんのですか」
「いや、そうちゃうけど」
森川の隣にいた女性が軽く頭を下げた。
森川も気づいて紹介した。
「家内です。こっちは息子」
「どうも。黒瀬です」
「いつも主人がお世話になってます」
「こっちがお世話になってます」
直人が答えると、森川が笑った。
「会社でそんな言い方せえへんでしょう」
「家族の前ぐらい格好つけさせろ」
「もう遅いです」
息子は自転車から降り、森川の袖を引いた。
「父ちゃん、これ乗れるって」
「乗れると安全に止まれるは違うやろ。もう一個小さいの乗ってみ」
「すぐ小さなるやん」
「その時また考えたらええ」
「もったいないやん」
「転んで怪我する方がもったいない」
森川は工場にいる時と変わらない調子で言ったが、表情はずいぶん柔らかかった。
息子が直人を見た。
「父ちゃんの会社の人?」
「そうやで」
「父ちゃん、工場長やねん」
「知ってる。工場ではよう頼ってるで」
男の子が少し得意そうな顔をした。
森川は照れくさそうに自転車のハンドルを直した。
森川の妻が隆夫にも挨拶し、美智子も買い物を終えて合流した。
「森川さん、今日はお仕事ちゃうんですね」
美智子が言う。
「今日は休みです」
「ちゃんと休んでもらわな困りますから」
森川の妻が笑った。
「この人も仕事のこと考えだしたら止まらない時ありますけど、日曜まで用もないのに会社行こうとしたら止めてます」
「急ぎやったら行くけどな」
「急ぎの時は止めてへんやん」
「ほら」
「何が、ほら、なん」
森川が小さく笑った。
直人もつられて笑う。
会社では、残業をするか、休日に機械を動かすかという話を数字で考えていた。
けれど、森川が帰る先について、直人はほとんど知らなかった。
少し話した後、森川一家は再び自転車選びへ戻った。
直人たちも別の売場へ向かう。
何気なく振り返ると、森川は息子を別の自転車へ乗せ、サドルの高さを調整していた。
「森川さん、子どもおったんやな」
美智子が言った。
「俺も今日初めて知った」
「毎日一緒に仕事してんのに?」
「家の話、せえへんからな」
隆夫が横から言った。
「仕事だけ見てたら、そんなもんや」
「オトンは知ってたん?」
「知らん」
「知らんのかい」
「俺かて何でも知ってるわけちゃう」
美智子が笑い、直人も笑った。
その日の夕方は、買ったばかりの炊飯器を試すというので、直人も両親の家で夕食を食べることになった。
新しい炊飯器の説明書を隆夫が開く。
「予約炊飯ぐらいで、何でこんな分厚いねん」
「読まんでも使えるやろ」
直人が言う。
「取扱説明書読まん奴が機械触るなって、お前いつも言うてるやろ」
「工場の機械と炊飯器一緒にすんな」
「さっき炊飯器も機械や言うてたやん」
「……オトン、そういうとこだけ覚えてんな」
美智子が炊き上がった米を茶碗へよそいながら笑った。
「食べてから喧嘩して」
「喧嘩ちゃう」
「こっちも喧嘩ちゃう」
「二人とも同じこと言うてるで」
米は普通に炊けていた。
隆夫は一口食べて、
「前のんと違い分からんな」
と言い、美智子に睨まれた。
「それ言うたらあかんやろ」
「美味い言うてるんや」
「今の言い方で誰が分かるん」
直人は笑いながら箸を進めた。
食事が半分ほど終わった頃、美智子が何気なく聞いた。
「直人、そういや今付き合ってる人とかおらんの?」
直人の箸が止まった。
「急に何やねん」
「森川さんの家族見たから思い出しただけ」
「何を思い出すねん」
「あんたももう三十過ぎてるやろ」
「年は分かってる」
「結婚せえいう話ちゃうで。そんなん本人が決めることやし」
隆夫は黙って味噌汁を飲んでいる。
美智子は続けた。
「ただ、休みの日ぐらい誰かと飯食いに行ったり、どっか遊びに行ったりせえへんのかなと思って」
「オトンとオカンと飯食ってるやん」
「親以外」
「範囲狭めんなや」
「おるん?」
「……今はおらん」
「友達は?」
「おるわ」
「ほな、たまには遊んだらええやん」
「子どもちゃうねんから」
「大人かて遊ぶやろ」
返す言葉がなくなり、直人は米を口へ入れた。
美智子もそれ以上は言わなかった。
隆夫がそこで初めて口を開く。
「お前、今日何しとったん?」
「本屋行った」
「仕事の本?」
「小説」
二人とも直人を見た。
「何やその顔」
「いや」
隆夫が少し笑った。
「ええやん」
「何が」
「別に」
「気持ち悪いな」
「褒めても文句言うんか」
夕食を終えて家へ戻った直人は、昼に買った小説を袋から出した。
テレビをつけようとして、やめる。
携帯電話を机に置き、ソファへ座って表紙を開いた。
数ページ読んだところで、仕事のことが一度頭に浮かんだ。
月曜日に返す見積もりが一つあった。
ただ、期限は月曜日だった。
直人は本を閉じなかった。
そのまま次のページをめくった。
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