第175話 工場長を置く
2000年4月3日、月曜日。
始業時刻を過ぎ、朝一番の機械を動かす前に、隆夫が工場の中央へ全員を集めた。
森川修一、山岸浩司、宮田悟、村井健太、直人。事務所からは美智子と佐野真紀も出ている。9時から勤務の谷口には、出勤してから改めて伝えることになっていた。
隆夫が一枚の紙を持ち上げた。
「今日から、森川を工場長にする」
山岸がすぐ森川を見る。
「主任取れるんか」
「取れる言い方やめてください」
「主任兼工場長?」
「ちゃいます」
宮田が笑った。
「名刺変わりますね」
「そこからなん?」
「大事でしょう」
軽口が交わされたが、隆夫はすぐ本題へ戻った。
「肩書だけの話ちゃう。これから製造の日々の判断は、森川が持つ」
壁際の予定表を指す。
「どの仕事をどの機械へ入れるか。誰をどこへ付けるか。納期が重なった時に何を先へ流すか。初品で止めるか、機械を止めるか。そこは森川が決める」
森川は黙って聞いていた。
主任になった時から、実際にはその多くを担っている。
今回変わるのは、責任の範囲を曖昧なままにしないことだった。
「もちろん、機械を買う、人を雇う、長い契約を結ぶ、会社の金を大きく動かす。そこは俺が持つ。客先と値段や受注条件を詰めるのは、直人が中心。佐野は図面や注文書、データの管理。美智子は金を見る」
そこで隆夫が森川へ向いた。
「工場の中だけは、お前が最後に決めろ」
「直人さんと社長が別々のこと言うた時は?」
「製造の話なら森川」
直人が先に答えた。
森川がこちらを見る。
「ほんまです?」
「そこ疑う?」
「直人さん、現場見たら言いたくなるでしょう」
「なる」
「ほら」
「でも言うのと、指示するのは分ける」
直人は予定表を見た。
「俺が客先から急ぎ持って帰ってきても、今日入るかどうかは森川が決める。無理やったら無理って言って」
「その代わり、客に断るのは直人さん?」
「そこは俺の仕事や」
「分かりました」
森川は短く頷いた。
美智子も続ける。
「工場長手当と給与条件は、本人とはもう話してあります」
「そこまで発表せんでもええですって」
「責任だけ増えたと思われたら困るやろ」
「それ、この前も聞いた気がします」
「役が変わるたびに確認するんや」
森川が苦笑する。
話は10分ほどで終わった。
辞令一枚で工場の景色が変わるわけではない。森川はそのまま朝の予定表へ向かい、山岸には東邦電装向けのカラー、宮田には倉田精密のシャフト、村井には材料切断と洗浄を割り振った。
「直人さん」
「何?」
「新大阪さんの見積品、今日試し加工する言うてましたよね」
「うん」
「午後2時までは機械空きません」
「分かった。客には今日中に見るとしか言ってへんから、2時からでええ」
「なら大丈夫です」
それだけだった。
誰も隆夫の顔を見ない。
隆夫も口を挟まない。
直人は、それでいいと思った。
前の人生の黒瀬精機では、父がいる間は父へ仕事が集まり、父が倒れたあとには自分へ集まった。
小さな工場だから仕方がない。
そう思っていた。
けれど、一人が全部を見る会社は、その一人が倒れれば全部が鈍る。
今回は同じ形にはしない。
午前9時を少し回って、谷口が出勤した。
美智子から森川の工場長就任を聞くと、谷口は事務所から工場を覗いた。
「森川さん」
「はい?」
「今日から電話で『工場長お願いします』って言われても、もう間違いちゃうんですね」
「……そうなりますね」
「じゃあメモ変えときます」
「何の?」
「取り次ぎ先」
谷口は電話横にある社内連絡先の紙へ、《森川 工場長》と書き足した。
森川がそれを見て、ようやく肩書が実物になったような顔をした。
「何か、そっちの方が恥ずかしいな」
「すぐ慣れますよ」
「谷口さんは慣れるの早すぎません?」
「電話取る方は、呼び方決まってる方が楽ですから」
その20分後だった。
本当に工場長の肩書が必要になる電話が入った。
「はい、黒瀬精機です」
谷口が受ける。
「愛知の中部機工様ですね。……包装機械の部品について、新規のお問い合わせ」
佐野が顔を上げた。
直人も事務所へ入る。
「ご紹介元は大和搬送システム様。はい、分かりました。担当へ代わります」
受話器は直人へ回された。
「黒瀬です」
相手は中部機工の購買担当だった。
愛知県で包装機械を製造している会社で、現在、複数の協力会社へ分散している部品の調達先を見直しているという。
「品種は何点です?」
『現時点で17種類です』
「17種類全部を一社へ?」
『可能ならまとめたいのですが、まず対応できる範囲を見ていただきたいと思っています』
「今は何社で作ってます?」
『6社です』
直人の鉛筆が止まった。
17種類。
6社。
それを「まとめたい」と聞けば、売上の大きな案件に見える。
だが直人は、そこで乗らなかった。
「17種類の図面、全部見せてもらえますか」
『可能です』
「数量と納期もお願いします。あと、今の6社さんをすぐ切り替える前提ですか?」
電話の向こうが少し黙った。
『そこまでは決まっていません。まず新しい調達先として対応可能か確認したい段階です』
「なら、いきなり17種類全部の値段を出すより、まず図面見せてもらいます。その上で、黒瀬で本当に向いてる物を選びたいです」
『全部は難しいでしょうか』
「図面見てないので、今はできるともできないとも言えません」
直人ははっきり答えた。
「旋盤で作れそうに見えても、数量や納期の重なり方で受けられん物ありますから」
『分かりました。図面一式を送ります』
「見積用であることだけ分かるようにしてください。正式発注になった時は、製作用の図面を改めて確認します」
『承知しました』
電話を切る。
谷口が受信記録へ中部機工の名前を追記する。
「17種類ですか」
「うん」
「大きいですね」
「全部取れたらな」
直人はそこで立ち上がった。
「森川」
工場長になって1時間も経っていない森川が振り返る。
「はい」
「愛知から新規。包装機械部品17種類。今6社で作ってるらしい」
「17?」
「まだ図面来てへん。来たら一緒に見て」
「全部受けるんです?」
「それを決めるために見るんや」
森川は少し笑った。
「良かった。今日から工場長になった途端、17種類増えたんかと思いました」
「そんな嫌がらせせえへん」
「直人さんなら仕事取ってきそうですけど」
「取れる仕事は取る。でも、工場壊してまで取らん」
「なら見ます」
昼前には、中部機工からファックスと宅配便の連絡が入った。
図面の一部は先にファックスで届き、残りは翌日着の予定だった。
谷口が受信した紙をまとめ、佐野へ渡す。
「中部機工さん、これで8枚です」
「ありがとう。図面番号、連番じゃないですね」
「抜けてる?」
「たぶん部品ごとの社内番号です。枚数だけ確認して、勝手に不足扱いしない方がいいです」
佐野は受信時刻と枚数を記録し、《見積用》と分かるようにした。
午後、直人と森川が先に届いた8種類を見る。
最初の二つは旋盤品。
三つ目はフライス主体。
四つ目には黒瀬で持っていない表面処理が指定されている。
五つ目は形状そのものより数量が多かった。
「これ、月400?」
森川が数字を見る。
「そう」
「今の黒瀬で追加400、毎月?」
「きつい?」
「作れます。でも、東邦さんと阪南さん重なった月に入れたくないです」
「なら候補から外す?」
「いや。納期が毎月固定なら組めるかもしれません。月の前半か後半か聞きたいです」
直人はメモする。
《月400 納入時期確認》
次の図面。
「これは?」
「うち向きです」
森川の返事は早い。
「材料も普通に取れる。段取りも今ある爪で近いところまでいける。数量60なら問題ないです」
「試作なら?」
「やれます」
「候補一つ」
さらに見る。
「これは?」
「宮田でも量産回せます。ただ、最初の条件出しは俺が見たい」
「候補二つ」
「直人さん、もう試作決めてるんです?」
「全部17種類見積もる前に、向こうが黒瀬を見たいんやったら、4種類ぐらい実際に作った方が早いと思ってる」
「何で4?」
「工程の違うやつを見せたい。簡単な旋盤品だけ4つ取って『できます』言うても、残り判断できへんやろ」
森川は図面を見直した。
「それなら、この2つと、明日届く中から別工程のやつですね」
「そうしたい」
直人はこの時点で森川へ「何種類ならいい」と丸投げしなかった。
新規客との取引をどう始めるかは、自分の仕事だ。
その上で、黒瀬の製造が実際に回るかを森川に判断してもらう。
翌日、残りの図面が届いた。
全部で17種類。
佐野が図面番号と枚数を照合し、直人と森川へ渡した。
二人で机を挟み、一枚ずつ分類する。
「これは黒瀬で完結」
「これは外注工程あり」
「こっちは材料取り悪いな」
「数量少ないから、逆にそこまで痛くないです」
「これは?」
「俺なら受けません」
「理由は?」
「幅に対して薄すぎます。黒瀬の今の設備で無理してつかむより、得意なところあるでしょう」
「分かった。外す」
直人は無理に17種類全部を黒瀬へ寄せなかった。
売上を増やしたい気持ちはある。
しかし、客が6社を使っているのには理由があるかもしれない。
それぞれ得意工程が違う。
設備が違う。
数量が違う。
一社へまとめれば事務は楽になるが、作る側まで一社へ押し込めば必ず安くなるわけではない。
最終的に、まず試作候補を4種類へ絞った。
一つは旋盤主体の軸。
一つは穴位置精度を見る部品。
一つは協力先工程を含む小物。
もう一つは、段取りと測定の組み方で差が出る形状だった。
「この4種類なら、黒瀬のやり方を一通り見てもらえる」
直人が言う。
森川は製造予定を確認した。
「全部同じ週に作る?」
「相手が急ぎでなければ分けたい」
「二週に分けてもらえたら、通常品崩さずいけます」
「じゃあその条件で話す」
そこへ隆夫が来た。
「17種類の話、どうなった?」
「いきなり全部は受けへん」
「何種類?」
「まず4種類試作」
「弱気やな」
直人は首を振った。
「逆。17種類まとめて『できます』言う方が弱いと思う」
「何で?」
「欲しいから何でも受けますって言うてるだけやろ。黒瀬が得意な4種類で一回見てもらう。そのあと残りを詰める」
隆夫は森川を見る。
「製造は?」
「二週に分けてもらえたら問題ないです」
「ほな、それでええんちゃうか」
その日の午後、直人は中部機工へ電話した。
「図面17種類、確認しました」
『いかがでしょう』
「まず4種類、試作させてもらいたいです」
『4種類ですか』
「はい。17種類全部を今すぐ黒瀬へ集めるより、まず黒瀬の加工と管理を見てもらった方がいいと思います」
『残り13種類は対応不可でしょうか』
「不可と決めたわけではありません。むしろ対応できそうなものはもっとあります。ただ、今6社で安定して作ってるものを、図面だけ見て一気に動かすのはおすすめしません」
相手の返事が少し遅れた。
『まとめたいというこちらの要望とは逆ですね』
「事務をまとめたいのは分かります。でも、調達先減らして納期が崩れたら意味ないでしょう」
『それは、そうですが』
「4種類で品質、納期、連絡の取り方まで見てもらって、その後で広げる。黒瀬はその方がいいです」
価格の話へ進む前に、直人は試作条件を確認した。
数量。
必要時期。
検査成績の要否。
材料支給の有無。
表面処理の扱い。
中部機工側も、4種類なら社内で通しやすいと判断した。
『では、まず4種類で見積もりをお願いします』
「ありがとうございます」
『納期は4種類とも同時でなくても構いません』
「助かります。二週に分けて出します」
電話を切った時、森川が工場の入口に立っていた。
「通りました?」
「4種類」
「二週?」
「二週」
「それなら組めます」
「いつ空く?」
森川は予定表を見る。
「一回目は来週木曜から。二回目はその翌週。ただ、阪南さんの納入が一日ずれたら後ろへ動かします」
「分かった。その条件も見積もりに書く」
「俺が決めてええんですよね」
「製造日は森川が決めた。客へ約束するのは俺が決める」
「ややこしいですね」
「せやけど、そこ混ぜたら俺がまた工場の予定まで握ることになる」
森川は少し考え、頷いた。
「なら今の方が楽です」
「俺もや」
夕方、美智子が4種類分の見積原価を確認した。
佐野は図面ごとに見積用であることを明記し、正式受注になれば製作用図面を再確認する欄も用意する。
谷口は中部機工から届いたファックスと宅配便の受取記録をまとめた。
誰か一人が全部を持つ形にはしなかった。
その日の終業前、隆夫が森川へ声を掛けた。
「工場長初日、どうやった?」
「朝から17種類来た時は、辞めよかな思いました」
「早いな」
「でも4種類になったんで続けます」
「そこ直人が決めたんやろ」
「はい」
森川が直人を見る。
「今日は珍しく、俺が止める前に絞りましたね」
「珍しく言うな」
「最近、仕事持って帰ってきてから『森川、入る?』が多かったでしょう」
「……そこは反省してる」
「でも今回みたいに、外で受ける範囲を直人さんが決めて、俺が中の順番決めるならやりやすいです」
直人は頷いた。
それが、今日工場長を置いた意味だった。
森川に工場を任せることは、直人が何も考えなくていいという意味ではない。
むしろ逆だった。
直人は、外で何を受けるかを判断しなければならない。
森川は、受けたものをどう作るか判断する。
その二つが噛み合って初めて、工場は無理なく仕事を増やせる。
帰る前、森川は翌日の予定表を書き換えた。
そこへまだ中部機工の名前は入っていない。
見積もりが通り、正式な注文が来るまでは、製造予定にはしない。
佐野の机には17種類の見積図が並んでいる。
そのうち、赤い付箋が付いているのは4種類だけだった。
大きな案件が来た日。
黒瀬精機が最初に増やしたのは、仕事の数ではなかった。
誰がどこまで決めるのか、その線だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます