第174話 図面が紙で来ない

 1999年4月、黒瀬精機の受注は、冬の底から少しずつ戻り始めていた。


 東邦電装の4品種は各30個のままだが、小池から少量の追加が入り、倉田も春以降の発注予定を出してきた。前年の夏ほど製造予定が詰まっているわけではないものの、機械を止めて整備や訓練へ回していた時間は、徐々に短くなっている。


 宮田悟はフライス盤を担当しながら、山岸浩司に教わった旋盤の基本作業にも入るようになった。山岸も、森川修一が加工条件を確認した簡単なフライス仕事なら担当できる。


 そんな4月の火曜日、直人のところへ新しい見積もり依頼が入った。


 紹介元は大和搬送システム。相手は産業用検査装置を作る新大阪計測機器で、アルミ製のセンサーホルダーを12個作ってほしいという相談だった。


 量産品ではない。新型装置の試作に使うため、納期の方が優先される。


『図面をすぐ送ります』


「FAXでお願いします」


『FAXも送れますけど、細かい寸法が潰れるかもしれません。CADデータなら今日中に送れますよ』


 直人は受話器を持ち直した。


「形式は何です?」


『DXFです。電子メールで送れます』


「すみません。うちは、図面データを電子メールで受ける環境も、DXFを開くCADもまだありません」


『そうですか。じゃあFAXを先に入れて、正式図面は宅配便で送ります』


「お願いします」


『見積もりは、明日の午前中までに欲しいんですが』


「FAXで読めるところまで先に見ます。読めへん寸法は原図が来てからになります」


 20分ほどして届いたFAXは、予想どおりだった。


 外形や穴数は分かる。しかし、小さく書かれた深さ寸法の一部が潰れ、斜めに入る2本のタップ周辺も読みづらい。


 直人は読み取れない数字を推測しなかった。


 設計担当へ電話を掛けたものの、すでに会議へ入っており、戻るのは夕方になるという。


 正式図面が届いたのは翌朝だった。


 直人と森川が加工順を決め、山岸にも斜めタップ部分を見てもらう。佐野真紀が材料費と工数をまとめ、見積書をFAXしたのは午前11時38分だった。


 夕方、新大阪計測機器から電話が来た。


『申し訳ありません。今回は別の会社へお願いすることになりました』


「値段が合いませんでした?」


『価格は問題ありませんでした。朝一番で見積もりが来た会社があって、今週中に材料まで手配できると言われたので、そちらへ決めました』


「分かりました。ありがとうございます」


 直人は電話を切り、届いた正式図面とFAXを机へ並べた。


 隆夫が横から覗いた。


「いくらの仕事やった?」


「18万6000円。7万円ちょいは残る計算やった」


「痛いな」


「12個だけならな」


 直人が気になったのは、失った7万円だけではなかった。


 新大阪計測機器では、図面そのものは前日のうちに完成していた。黒瀬精機へ渡すために紙へ出し、FAXを送り、読めない部分があるから正式図面を配送する。


 その間に、DXFを直接開ける加工会社は見積もりを始めている。


「そろそろ、紙が届くん待ってから考える会社では遅なる」


 直人は東邦電装と大和搬送システムにも、図面データの利用状況を聞いて回った。


 東邦電装では、設計変更の確認や見積もりにDXFを使い始めていた。大和搬送システムでも、新しい装置については協力会社へCADデータを渡すことが増えているという。


 一方、阪南制御機器はまだ紙図面が中心だった。


 FAXも郵送もなくならない。


 ただ、図面の渡し方が一つ増えていることだけは間違いなかった。


「CADを入れる」


 直人が工場へ戻って言うと、隆夫は値段から聞いた。


「いくらや」


「まだ決めてへん。必要なんは、客から来た2次元の図面を開いて、寸法を見て、簡単な加工図や治具図を作れるところまでや」


「何でもできる一番ええやつ、いう話やないんやな」


「使いもせえへん機能へ金払う気はない」


 佐野は別のところを気にした。


「電子メールも入れるなら、誰が受け取るか決めてください」


「佐野さんでええんちゃう?」


「私が休んでいたら、届いてないことになりますか?」


 そこで直人も止まった。


 電話、FAX、郵便物は、誰かが目にすれば届いたことが分かる。電子メールはパソコンを開かなければ見えない。


 それまで月・水・金の午前9時から午後2時まで事務補助に入っていた谷口佳代も、電話やFAX、郵便物の受領を担っている。


 水曜日、谷口が出勤したところで、隆夫と佐野を交えて話をした。


「谷口さん、勤務日を増やすことはできるか」


 隆夫が尋ねた。


「時間も長くするんですか?」


「まずは曜日や。今の9時から2時は変えん。月曜から金曜まで来てもらえたら、電話とFAXと郵便の受付を毎日任せたい。無理なら今のままでええ」


 谷口は少し考えてから答えた。


「9時から2時までなら、平日5日でも大丈夫です」


「ほな、5月からお願いしたい。条件は佐野さんに書いてもらう」


 谷口の仕事を、そのままCAD操作へ広げたわけではない。


 電子メールで届く図面データを保存し、CADで扱うのは佐野が担当する。谷口は、電話、FAX、郵便と同じように、誰から何が届いたのかを受付記録へ残す。佐野が席を外している時に電子メールで図面が来れば、受信したことだけを確認して佐野へ渡し、データ自体には手を加えない。


「パソコン苦手やから助かります」


 谷口が笑った。


「苦手な人でも回るようにしとかんと、佐野さんしか受けられへん仕事になりますから」


 直人が言うと、佐野が首を横に振った。


「電子データの管理まで谷口さんへ押し付けないでくださいよ」


「そこは頼んでへん」


「なら結構です」


 図面の技術内容を判断するのは直人と森川。客先から届いた電子データの保存と版の管理は佐野。受付は紙でも電子でも、届いた経路と時刻が追えるようにする。


 製造現場では、当面、確認済みの紙図面を使い続けることにした。


 見積もりや加工検討はDXFで進められるが、正式に受注した後は、客先から製造用として発行された紙図面と照合する。直人か森川が技術内容を確認し、佐野が発行日を記録した紙だけを現場へ渡す。


 紙から電子へ一気に切り替える必要はなかった。


 まず、見積もりの入口で遅れないようにする。


 OA機器の販売会社とCADを扱う会社から見積もりを取り、黒瀬精機が選んだのは、新しいWindows機、17インチモニター、A3対応プリンター、機械製図用の2次元CAD、バックアップ用の外部記録媒体、それに電話回線を使ったインターネット接続と電子メールの設定、導入講習を合わせた一式だった。


 費用は約86万円。


 隆夫が見積書を持ち上げた。


「去年、銀行から借りられる枠を500万へ増やさんかったのに、今度は86万使うんか」


「現金で払える。銀行の枠は、支払いが先に来る仕事を取るためのもんや。これは仕事の入口を増やす金や」


「86万入れたら、86万分の仕事が来るんか?」


「そんな保証ない」


「そこははっきり言うんやな」


「来る保証はない。でも、DXFしか先に出さん会社から見積もりを頼まれた時、紙を待ってる会社のままでは選ばれへん」


 隆夫は美智子にも資金予定を確認させた。


 86万円を払っても、給与、材料、外注への支払いに影響はない。300万円の短期運転資金融資枠を設備代へ使う必要もなかった。


 購入を決めた。


 5月、新しいパソコンとCADが事務所へ入った。


 直人は、予想していたほど簡単には使えなかった。


 加工図を見れば、どの面から削るかは分かる。旋盤やフライス盤なら、手を動かす前に工程を頭の中へ組める。


 画面上で線を引くとなると、話は別だった。


「そこ、線を消すんやなくて、選択してから削除です」


 講師に言われ、直人がマウスを戻した。


「手で図面引いた方が早いな」


「今は、ですよ」


「それ言われたら何も返されへんな」


 森川は図面そのものを描くより、届いたデータから加工に必要な寸法を拾う練習を優先した。


 佐野はCADより先に、電子メールで受け取ったデータの保存場所と受付番号を整えた。


 谷口は、5月から平日5日、午前9時から午後2時まで事務所へ入るようになった。


 その変化と同じ頃、土曜日に黒瀬精機へ来ていた村井健太についても、隆夫が本人と向き合うことになった。


 村井は正式社員ではないまま、見習いとして測定や材料の扱い、工場内の安全を覚えてきた。以前には既存治具の取付寸法を測り、倉庫の棚を宮田と組んだこともある。


 隆夫は土曜日の作業が終わった後、村井を事務所へ呼んだ。


「健太、この先も黒瀬で働きたいか」


 村井は少し驚いた顔をした。


「はい」


「土曜に来て覚えるだけやなく、仕事として入る気があるかいう話や」


「あります」


 隆夫はその場で採用を決めなかった。


 森川にも、これまで村井がしてきた作業を聞いた。宮田は、指示された測定を勝手に省かないことと、分からない機械へ手を出さないところを評価した。


 山岸も同じだった。


「旋盤はまだ触らせてません。でも、触るなと言うた物を勝手に触らんのは大事です」


 製造現場の意見を聞いた上で、隆夫が正式採用を決めた。


 村井は7月から黒瀬精機へ入り、製造補助から始めることになった。いきなり1人で段取りや初品判断を任せるのではなく、材料準備、測定、簡単な穴加工を宮田や山岸の下で覚えていく。


「よろしくお願いします」


 村井が頭を下げると、宮田は少し困ったように笑った。


「俺が教える側になるんか」


「全部ちゃうで」


 森川が言った。


「お前ができる仕事は、お前が教える。できへん仕事まで先輩ぶるな」


「それなら大丈夫です」


 6月、黒瀬精機へ大和搬送システムからDXF形式の見積もりデータが届いた。


 小型装置用のベースプレート4枚。


 谷口が電話を受け、電子メールで図面が来ることを受付表へ書いた。実際のデータは佐野が保存し、直人がCADで開く。


「開いた」


 直人は、それだけで仕事が取れたような顔はしなかった。


 森川が横から加工箇所を確認する。


「外形は材料屋の切断でいけます。黒瀬は穴と座ぐり。裏返して1回、取り直しが要ります」


「専用治具は?」


「4枚だけなら作る方が高いです。今あるクランプでいけます」


 FAXを待たずに加工時間を出し、その日のうちに見積もりを返した。


 受注したのは4枚、9万8000円。


 86万円の設備費から見れば小さな仕事である。


 それでも夏以降、DXFで来る見積もり依頼は少しずつ増えた。


 すべてが注文になったわけではない。


 値段で負ける案件もあり、納期が合わず断る仕事もあった。図面をその日のうちに開けるようになっても、加工能力や価格まで有利になるわけではない。


 違ったのは、見積もりを出す前から脱落することが減った点だった。


 9月には、直人が外出している間にDXFの見積もり依頼が届いた。


 佐野が保存し、森川がデータを開いて加工時間を出す。直人が戻るまで待ったのは、価格を決める最後の部分だけだった。


「もう俺がおらんでも、見積もりの半分は進むな」


「半分までです」


 佐野が訂正した。


「値段を決めるところまで置いていかないでください」


「そこは逃げへんよ」


 1999年12月、村井は宮田の隣で、アルミ材へ穴を開けていた。


 正式採用から半年も経っていないため、単独で初品を流すことはない。村井が加工した最初の1個を宮田が測り、森川が確認してから残りへ進む。


 事務所では谷口が電話を取り、取引先名と図番を復唱していた。


「はい。DXFですね。受け取りましたら、こちらから連絡します」


 電話を切ると、受付表へ時刻を書き、佐野へ声を掛ける。


「佐野さん、東邦電装さんから図面データ来ます」


「分かりました」


 ほどなく電子メールが届いた。


 佐野が保存し、森川がCADで開く。


 直人はその時、別の得意先へ見積もりを持って外へ出ていた。


 森川は画面で形状を確認すると、製造予定を手元へ寄せた。


「これなら、明日の午前中に加工時間まで出せる」


 工場では、宮田が村井の加工した2個目を測っていた。


「穴位置、入ってる。次いこか」


「はい」


 村井は材料を取り替え、同じ基準面をバイスへ当て直した。


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