第174話 図面が紙で来ない
1999年5月の終わり。
午前10時を少し回った頃、黒瀬精機の電話を谷口が取った。
「はい、黒瀬精機です。……大和搬送システムさんですね。いつもお世話になっております」
谷口は受話器を持ったまま、机の脇に置いてある受信記録へ時刻と相手先を書き込んだ。
「新しい会社をご紹介いただけるんですか。はい……新大阪計測機器様。見積もりのご相談ですね」
佐野真紀が向かいの机から顔を上げる。
谷口は話を最後まで聞いてから、
「図面はファックスではなく、データで送られるということですね。担当へ代わります」
と佐野へ受話器を渡した。
「佐野です」
数十秒後、佐野の表情が変わった。
「DXFですか。はい、こちらで開ける環境はあります。……ただ、見積もり用のデータということでよろしいでしょうか。正式に製作する場合の図面は、別途いただけますか」
直人はその言葉を聞き、見ていた見積書から顔を上げた。
黒瀬精機にパソコンを入れてから、文書や帳票を作るだけでなく、取引先から渡されたDXFデータを開く機会も少しずつ増えている。
とはいえ、まだ紙の図面が主役だった。
ファックスで見積図が届き、正式に仕事が決まれば捺印された注文書や製作図が来る。その流れに慣れていたところへ、図面そのものをデータで送る会社が現れた。
佐野が電話を切る。
「新大阪計測機器という会社です。大和搬送さんからの紹介で、試作部品の見積もりをお願いしたいそうです」
「何作ってる会社?」
隆夫が聞いた。
「検査装置や計測機器です。今回も装置に使う部品だそうです」
「図面は?」
「これから電子メールで送るって」
隆夫が一瞬止まった。
「ファックスちゃうん?」
「DXFです」
「紙は?」
「見積もりの段階では来ません」
「……面倒になってへん?」
佐野が苦笑する。
「私は逆に楽です。ちゃんとしたデータなら、ファックスみたいに線が潰れませんから」
「俺が見られへんやろ」
「印刷します」
「それならええ」
隆夫の返事は早かった。
直人は笑いながら立ち上がった。
「佐野さん、届いたらすぐ加工できるか見んといてな」
「分かってます。私は開いて印刷するところまでです」
「図面の中身は俺と森川で見る」
「はい」
役割はもう決まっている。
佐野がCADを扱えるからといって、加工判断まで佐野へ持たせることはない。反対に、隆夫や森川が電子メールを使い慣れていないからと、データそのものを避ける理由もなかった。
数分後、パソコンがメールを受信した。
「来ました」
佐野が添付ファイルを保存する。
そこで、すぐには開かなかった。
新しく作った案件用のフォルダへ移し、受信したままのファイルを一つ残した上で、作業用のコピーを作る。
「何で二つにするん?」
隆夫が聞く。
「向こうから来た元データを触らないためです」
「見るだけやろ?」
「見るだけのつもりでも、間違えて保存したら上書きできますから」
佐野はフォルダ名にも日付を入れた。
《新大阪計測機器 見積依頼 199905》
その中へ、
《受領原本》
《確認用》
を分ける。
「そこまでせなあかん?」
「今は一件ですから面倒に見えます。でも半年後に『最初に送った図面と違う』って言われた時、元のファイルが残ってなかったら確認できません」
直人が頷いた。
「それでいこう」
前の人生では、同じ名前のCADファイルが何個も転がっている工場を見た。
最新版。
最新版2。
最新版修正。
本当の最新版。
最後には誰も、どれを使ったのか分からなくなる。
電子データは紙より場所を取らない。
その代わり、間違ったものまで簡単に残る。
「開きます」
佐野がDXFをCADへ読み込んだ。
画面に部品図が現れる。
寸法線も文字も読める。
佐野は縮尺や文字化けがないことだけ確認すると、A3用紙へ印刷した。
「直人さん」
「ありがとう」
直人は紙を持って工場へ入る。
「森川、見積もり一本」
「新規ですか?」
「うん。新大阪計測機器」
森川修一が機械を止めて図面を受け取った。
「紙、きれいですね」
「元はデータ」
「これが?」
「そう」
森川は図面を裏返すでもなく、寸法を追い始める。
「加工自体はいけますね。ただ、この穴位置、公差がきついです」
「一工程でいける?」
「俺なら位置決め変えたくないです。外して付け直す方が怖い」
「じゃあ同一段取り」
「はい。こっちの面を先に出して、そのまま穴まで行きたいです」
宮田も横から見る。
「材料、在庫あります?」
「材質指定はあるけど、今の在庫では寸法足らんな」
直人が答える。
「買いになる」
「数量少ないなら、取り都合悪くないです?」
「そこも見る」
図面を読めるようになったからといって、見積もりが自動で出るわけではない。
材料をどう取るか。
何回つかむか。
どの機械を使うか。
測定に何分掛かるか。
外注工程があれば、どこへ頼むか。
紙で来ようがデータで来ようが、値段を作る仕事そのものは変わらなかった。
違うのは入口だけだ。
「見積もり用の図面って言ってたんやろ?」
森川が聞く。
「そう」
「注文来たら、この紙で作るんです?」
「作らへん」
直人は即答した。
「正式な製作用図面を別でもらう」
「同じやったら?」
「同じでも確認する。見積もり時のデータと、正式に作れって来た図面が同じとは限らん」
森川が頷く。
「それならええです」
その日の昼までに、黒瀬側の加工時間は出た。
材料費を確認し、必要な工具費と測定時間も入れる。
今回は黒瀬精機の中だけで完結する仕事ではないため、協力先へ確認すべき工程もあったが、誰へ頼むかは直人が決め、その条件だけを佐野へ渡した。
佐野は決まった相手へ見積依頼を出す。
技術的な依頼先を佐野が選んだわけではない。
午後1時を過ぎた頃、谷口が戻ってきたファックスを受け取った。
「直人さん、協力先から返事来てます」
「ありがとう」
谷口は受信時刻を記録し、直人へ渡す。
その間、佐野は新大阪計測機器から届いた電子メールと、印刷した見積図の対応を確認していた。
「このファイル名、先方のままで残しますね」
「変えへんの?」
「原本は変えません。黒瀬側の管理名は別に付けます」
「混ざらへん?」
「だから一覧にします」
佐野は一行だけ記録した。
《受領日》
《先方ファイル名》
《黒瀬管理番号》
《用途 見積用》
それ以上は増やさない。
ファイル一個受け取るたびに大げさな台帳を作るつもりもなかった。
必要なのは、後から何を受け取ったか辿れることだ。
夕方には見積金額が出た。
「186,000円」
直人が言うと、美智子が計算表を見る。
「材料、協力先、黒瀬の加工時間、測定、梱包まで入ってる?」
「入ってる」
「佐野さんのデータ処理は?」
直人の手が止まった。
「それも入れた」
「ほんま?」
「今回は入れてるって」
佐野が笑う。
「最近、その辺ちゃんと取るようになりましたね」
「誰のせいやと思ってんねん」
「森川さんと私と美智子さん?」
「多いな」
隆夫が横から見積書を取る。
「186,000円か。残るんは?」
「予定通りいけば7万円弱」
「予定通りなら、やな」
「うん。初回やから加工時間は少し余裕見てる」
「安くして取りにいかんの?」
直人は首を振った。
「紹介案件やからって、最初から安くせえへん。続くかどうかも分からんし」
「それでええ」
隆夫は判を押した。
見積書はファックスで送った。
図面は電子メールで来たのに、見積回答はまだファックス。
統一されていない。
だが1999年の町工場では、その程度の混在は不思議ではなかった。
電子メールを使う会社もあれば、注文書はファックスでなければ困る会社もある。
黒瀬精機側が一つの方法へ全部そろえさせる必要もない。
「相手に届いた?」
直人が聞く。
谷口が送信結果を確認する。
「正常です。送信時刻、16時18分」
「ありがとう」
佐野は見積書の電子データを案件フォルダへ保存し、印刷した控えを美智子へ渡した。
パソコンだけにも置かない。
紙だけにも置かない。
どちらが正式なのか分からなくなる保存もしない。
その日の仕事はそこで終わった。
翌朝9時過ぎ。
谷口が出勤して間もなく、宅配便が一通の厚い封筒を届けた。
「新大阪計測機器さんからです」
「もう?」
佐野が受け取る。
中には昨日画面で見たものと同じ案件の紙図面が入っていた。
ただし、佐野は「同じですね」と言って綴じなかった。
「直人さん、確認してください」
「昨日と違う?」
「見た目は同じです。でも私は寸法全部までは判断しません」
直人と森川が並べて見る。
図面番号。
改訂欄。
寸法。
材質。
数量。
主要な公差。
「同じやな」
森川が言う。
「うん。ただ、こっちには受領印押せる欄ある」
紙図面には発行日と担当者名も記載されていた。
「これが正式図?」
直人が佐野へ聞く。
「まだです」
「まだ?」
「封筒に《見積参考資料》って書いてあります」
「ああ」
「注文が決まったら、製作指示として何を正式にするか先方に確認します」
佐野は昨日印刷した紙へ大きく《見積用》と記した。
今日届いた紙も同じく、見積資料として保管する。
電子データを受け取った翌日に紙まで送ってくる。
それなら最初から紙だけでいいようにも見えた。
だが、見積もりを一日早く始められたことは事実だった。
新大阪計測機器側にとっては、その一日の方が大きいのだろう。
午前11時前、電話が鳴った。
「はい、黒瀬精機です」
谷口が受け、相手先を確認したあと直人へ回す。
「新大阪計測機器さんです」
「はい、黒瀬です」
相手は昨日の見積もりについてだった。
『186,000円でいただいていますが、もう少し下がりませんか』
「条件変えられるところあります?」
『数量はそのままです』
「納期は?」
『できれば変えたくありません』
「材質も図面通り?」
『はい』
直人は見積計算を手元へ置いた。
「それなら、黒瀬側から下げられるところはないです」
『初回のお取引ですし、今後もお願いする可能性があります』
「ありがとうございます。ただ、今後の分まで今回の値段から引くことはできません」
相手が少し黙った。
『他社さんにも見積もりをお願いしています』
「はい。それは当然やと思います」
『黒瀬さんが一番高いわけではありません。ただ、もう一社が少し安くて』
「なら、価格以外も含めて決めてください」
直人は追わなかった。
紹介してもらった相手だからといって、何としても最初の一件を取らなければならないわけではない。
今回の価格で受ければ、予定通り加工できた時に7万円弱が残る。
そこから1万円、2万円と削れば、初めて扱う仕事なのに黒瀬側だけが危険を抱える。
未来の注文が本当に来る保証もない。
「分かりました。ご検討お願いします」
電話を切る。
隆夫が聞いた。
「下げへんかったん?」
「下げる理由なかった」
「取られたら?」
「しゃあない」
森川が工場から声を掛けた。
「珍しいですね」
「何が?」
「直人さんなら、最初だけちょっと下げて取りに行くかと思いました」
「それやったら前と一緒やろ」
「前?」
「いや、昔の俺ならな」
直人は言い直して見積書を閉じた。
安く取って、次で戻す。
仕事量が増えたら儲かる。
関係ができれば後から値段を直せる。
そういう期待が、どれほど簡単に外れるかは知っている。
午後3時過ぎ。
新大阪計測機器から再び電話が来た。
今度も谷口が受けた。
「はい。……今回は、別の会社様へご発注されるということですね」
直人が顔を上げる。
谷口は最後まで聞いてから、
「担当へお伝えします。ご連絡ありがとうございました」
と受話器を置いた。
「負けた?」
「はい。今回は別のところに決まったそうです」
「金額?」
「そこまでは聞いてません」
「それでええ」
谷口は受信記録へ結果を書いた。
佐野も案件フォルダの状態を《見積失注》へ変える。
「データ、消します?」
隆夫が聞いた。
「消しません」
佐野が答えた。
「見積もった記録と、先方から受け取った見積用データは残します。ただし製造中の案件と混ざらない場所へ移します」
「次また来るかもしれんしな」
「その時、今回の図面をそのまま使ったら駄目ですけどね」
直人が言う。
「必ず新しく来た図面と比べる」
「分かってます」
美智子は失注した見積計算を見た。
「予定粗利、7万円弱か」
「うん」
「惜しい?」
「そら惜しい」
直人は答えた。
「でも、惜しいから2万円下げたら、今度は5万円弱になる。初品で時間食ったらもっと減る」
「じゃあ?」
「次やな」
仕事は取れなかった。
それでも、新大阪計測機器という会社と連絡がついた。
DXFで図面を受け取れることも伝わった。
見積回答も翌日まで待たせず返した。
それ以上のものを、今回一件のために無料で渡す必要はなかった。
夕方、佐野がファイルを整理している横で、谷口が翌日の郵便物を置く場所を空けていた。
「佐野さん、その新大阪さんの紙、ここ置いたらあかん?」
「そこは受け取りたての郵便用なので、綴じた後はこっちです」
「あ、そうか」
「谷口さんが受け取って、受信記録へ入れる。私が案件に振り分ける。それでお願いします」
「了解」
事務所に二人いる意味も、少しずつ形になっていた。
谷口が電話、ファックス、郵便や荷物の入口を受ける。
佐野が案件ごとの文書と電子データを管理する。
同じ事務仕事でも、全部を一人へ寄せる必要はない。
直人は帰る前に、佐野が印刷した昨日のDXFを一度だけ見た。
寸法線は鮮明だった。
ファックスのように数字が潰れていない。
けれど、その紙には《見積用》と大きく書かれている。
見えることと、作っていいことは別だった。
新しい道具が入れば仕事は速くなる。
速くなるほど、どこで止めるかを先に決めておかなければならない。
黒瀬精機は186,000円の仕事を一件失った。
その代わり、電子データで図面が届く相手へ、翌日を待たずに値段を返せるようになった。
次に同じ入口から仕事が来た時は、もう驚かない。
佐野はパソコンを終了させる前に、《受領原本》のフォルダを閉じた。
工場側では森川が最後の機械を止める。
紙で来ない図面が、黒瀬精機の日常へ入り始めていた。
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