第173話 機械を止める日

 1998年11月、黒瀬精機の作業場から、久しぶりに機械の音が一つ消えた。


 故障したわけではない。


 宮田悟が倉田向けの加工を終え、次の段取りを確認しようと製造予定を見たところ、その日の午後に入れる確定注文がなかった。


「森川さん、小池さんの来月分、先に作っときますか」


 森川修一は予定表から顔を上げた。


「注文書は来てるか?」


「まだです。ただ、毎月ほぼ同じ数量なんで」


「材料のまま置いとけ。注文が来てから作る」


 夏までは、こんな空き方をする日の方が珍しかった。


 東邦電装、大和搬送システム、阪南制御機器、小池、倉田に加え、新しく取った仕事も入り、森川は製造予定へどう収めるかを考える時間の方が長かった。


 ところが秋に入ってから、定番品の注文数量が少しずつ落ちている。


 小池から届いた翌月分は、通常より約3割少ない。倉田も年末までに予定していた追加発注を取りやめた。


 東邦電装からは、翌年1月以降、4品種各40個の計160個を、各30個の計120個へ減らしたいという連絡が来た。数量が変わる場合は単価を再協議する条件になっていたため、直人は製造時間と段取り回数を洗い直し、120個での新しい単価を提示している。


 大和搬送システムの月600組は、基本注文どおり続いていた。


 大口の得意先が突然消えたわけではない。それでも複数の会社から少しずつ数量を削られると、製造現場にはまとまった空き時間となって現れる。


 佐野真紀が10月と11月の受注残を比べた。


「来月の確定分、製造時間で見ると9月より18%少ないです」


「売上は?」


「大和さんの600組があるので、18%までは落ちません。ただし、自社の機械を動かす時間は減ります」


 大和搬送システム向けは、坂口プレス工業、野田自動旋盤、丸山表面処理を黒瀬精機がまとめる仕事だ。売上は支えてくれるが、黒瀬精機の旋盤やフライス盤を一日中動かす仕事ではない。


 山岸浩司の汎用旋盤にも、東邦電装の減産が空き時間として出てくる。


「春になったら戻るんか?」


 隆夫が尋ねた。


「そこまで約束してる会社はない」


 直人は注文予定を机へ置いた。


「戻るかもしれんし、もっと減るかもしれん。そこは勝手に楽観せん方がええ」


「ほな、空いた機械へ新しい仕事を入れなあかんな」


「探す。ただ、止まってるのが嫌やからいう理由で、何でも取るんはやめる」


 その時すでに、商社から一つ相談が来ていた。


 月2000個の小型カラーで、材料は支給される。黒瀬精機が行うのは、切断済み材料の受入れ、旋盤加工、測定、箱詰めだった。


 提示された加工賃は1個58円。


 数量だけなら魅力がある。山岸の空き時間も埋まる。


 山岸は図面を見ながら、実際の加工時間を出した。


「汎用旋盤なら、1時間に40個前後がええところです。2000個で50時間近く取られます」


 加工賃の売上は11万6000円。


 50時間で割れば、1時間当たり2320円になる。そこから刃物、電気、測定、箱詰め、段取りに掛かる費用まで出さなければならない。


「無理やな」


 直人は早かった。


 隆夫が加工賃の紙を見た。


「機械が空いとるだけに、入れたなるけどな」


「それやったら、山岸さんの50時間を安値で先に売ることになる」


 2026年の黒瀬精機には、そんな仕事がいくつも残っていた。


 機械を止めるよりはまし。人を遊ばせるよりはまし。そう考えて取った定番品が、忙しくなっても簡単には切れず、利益のある仕事を入れたい時に製造予定を塞ぐ。


 単価を上げようとしても、発注元から返ってくるのは「今までこの価格だった」という言葉だった。


 直人は商社へ58円では受けられないと伝えた。


 65円まで上げるという返事が来たが断り、70円でも判断は変えなかった。


 その話を聞いた山岸が、図面をもう一度見た。


「これ、野田さんの設備なら合うかもしれません。自動送りで流せますから」


「黒瀬で受けて、野田さんへ出すか?」


 隆夫が尋ねた。


 直人は首を振った。


「黒瀬が間へ入って管理する工程がない。図面も1枚で、加工も旋盤だけや。商社から直接相談してもろた方がええ」


 野田自動旋盤へは、商社から問い合わせがあることだけ伝えた。


 数日後、野田はその仕事を受けた。


 黒瀬精機が断った70円より低い加工賃だったが、自動旋盤なら材料の送りから連続加工できるため、十分採算が合うという。


 宮田は野田が受けたと聞き、山岸の横で加工時間の紙を見直した。


「同じ品物でも、機械が違ったらここまで変わるんですね」


「逆もあるで」


 山岸は笑った。


「20個しか要らんもんを自動旋盤へ持っていったら、段取りしてる間に俺らが汎用で作り終わることもある」


 宮田は、58円という単価をもう一度見ることはしなかった。代わりに、50時間という加工時間へ赤鉛筆で線を引いた。


 黒瀬精機に残った問題は、その50時間を何に使うかだった。


 11月後半、森川が翌週の製造予定を作ると、金曜日の午後に3時間ほど空いた。


 隆夫が予定表を見つけた。


「ここ、何も入れへんのか」


「確定注文はありません」


「掃除でもするか?」


「日常清掃なら毎日やってます。3時間使うなら、別のことをしたいです」


 森川が最初に挙げたのは、山岸が入社時から注意して使っている汎用旋盤だった。


 横送りハンドルにガタがあり、同じ方向から寸法を追い込めば加工はできる。ただ、慣れていない者が途中で送り方向を戻すと、その遊びを寸法へ拾う。


 仕事が詰まっている間は、山岸も機械を止めてまで手を入れる必要はないと判断していた。


「今なら半日止めても納期に響きません」


 山岸が言った。


「送り機構を一回開けて、どこまで摩耗してるか確認したいです。宮田にも見せとけます」


 フライス盤の切削油タンク、長年使っているバイス、測定器の置き場にも、手を入れたい場所はあった。


 直人は森川へ任せた。


「全部いっぺんに触らんかったらええ。今月どれを止めるかは、製造予定を見て決めてくれ」


「まず旋盤にします」


「ほな、それで」


 11月最後の金曜日、午後1時に山岸の旋盤を止めた。


 山岸と宮田が送り機構を開けると、長く使われてきた部品に摩耗が見つかった。機械全体を買い替えるほどではなく、交換できる部品を手配すれば改善できる程度だった。


 部品が届くまでは、これまでと同じ方向から寸法を追い込む。山岸はその条件を口頭だけで済ませず、機械ごとの注意事項へ書き足した。


 宮田は外した部品を手に取った。


「これだけ減ってても、普通に削れてたんですね」


「俺が癖を知ってるからな。次に使う人まで同じように分かるとは限らん」


 山岸は、摩耗した部分と新品時の形が分かる箇所を宮田へ見せた。


「加工できるうちは使う。でも、使える理由を俺の頭の中だけに置いといたらあかん」


 直人はそのやり取りを聞きながら、昔から工場に残っていた敷き板や、削り直された当て金を思い浮かべた。


 職人が癖を知っているから動かせる機械は強い。


 その職人が休んだ瞬間に誰も使えなくなるなら、会社としては弱い。


 12月に入ると、受注はさらに少し減った。


 納期対応のための残業はなくなり、休日に製造を進めなければ間に合わない状況も消えた。


 佐野が固定費と確定受注を確認したところ、現在の人数へ通常どおり給与を払える。ただし、この受注水準が半年続けば、前年までと同じ利益は残らない。


 隆夫は社員を事務所へ集めた。


 美智子、佐野、森川、山岸、宮田が揃う。


「注文が減っとる」


 隆夫は回りくどく言わなかった。


「今すぐ給料を下げるとか、人に辞めてもらう話はせえへん。ただ、去年みたいに残業してまで作る月は、しばらく来んかもしれん」


 山岸の表情がわずかに変わった。


 藤岡製作所が加工をやめた時のことを、彼は忘れていない。


「俺、一番後から入ってるんで、もし――」


「入った順番で決める話はしてへん」


 直人が遮った。


「東邦さんの数量が減ったんは事実や。でも山岸さんを、あの4品種だけ削ってもらうために雇ったわけやない」


 直人は全員へ向き直った。


「少なくとも3月までは今の人数でいく。そこまで注文が戻らんかったら、もう一回、売上と受注残を見て決める。今の段階で人を減らして、春に仕事が戻った時に作られへん方が困る」


 森川は、その3か月でやることを製造側から出した。


 空いた時間のすべてを訓練へ変えるのではなく、納期に追われて後回しにしていた整備を進める。それと並行して、1人しか担当できない仕事を少しずつ減らす。


 山岸には、宮田へ旋盤の基本段取りを教えてもらう。


 宮田が担当するフライス盤の仕事も、山岸が簡単な品物から覚える。


 森川自身も、山岸だけが把握している旋盤仕事の段取り時間や加工時間を確認し、見積もりや製造予定へ使える状態にする。


 1999年1月、東邦電装は予定どおり4品種各30個、計120個へ減った。


 数量減によって1個当たりの段取り負担が増えるため、前年に再協議した新しい単価での納入となった。


 小池の注文も、まだ元の数量には戻っていない。


 黒瀬精機では、月に1日か2日、一部の機械にまとまった空き時間が出るようになった。


 それでも、注文のない完成品を先回りして作ることはしなかった。


 ある金曜日の午後、宮田は山岸の横で、練習用の端材を旋盤へくわえた。


 外径を削った1本目は、目標より0.04ミリ大きい。


「どっちから追い込んだ?」


 山岸に聞かれ、宮田は横送りハンドルを見た。


「途中で戻しました」


「そこや。もう1回やってみ」


 2本目は公差内へ入った。


 3本目では、宮田は途中で送り方向を変えず、測定してから必要な分だけ同じ側から刃物を送った。


 山岸は黙ったまま、その手元を見ていた。


 宮田は4本目の端材をくわえ直し、今度は何も聞かずに横送りハンドルへ手を掛けた。


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