第172話 売上より先に現金が消える

 1998年4月、黒瀬精機の月商は前年の同じ時期を上回っていた。


 東邦電装の4品種は予定どおり月160個へ移行し、大和搬送システム向けの600組も続いている。阪南制御機器、小池、倉田の定番品にも大きな落ち込みはない。


 山岸浩司が旋盤へ入ったことで、直人と隆夫が機械へ張り付く時間は減った。森川修一は製造予定を組み、宮田悟も複数の治具を自分で段取りし、初品を出せる仕事が増えている。


 数字だけなら、会社は順調に大きくなっていた。


 その月の月末、美智子は手書き帳簿と入金予定表を机いっぱいに広げ、赤鉛筆を止めた。


「直人、ちょっと来て」


 呼ばれた直人が事務所へ入ると、美智子は売上帳ではなく、日付ごとに並べた入出金の表を指した。


「ここ」


「来月25日か」


「坂口さん、野田さん、丸山さんへの支払いが重なる。材料代と給料も同じ週。大和さんと東邦さんの入金はその後やね」


 赤鉛筆で囲まれた数字は、支払いを終えた後に会社へ残る現預金の見込みだった。


 資金が尽きるわけではない。


 ただし、その時期に機械が壊れ、まとまった材料を買い、どこか1社の入金が遅れれば、途端に選べる手が減る。


 隆夫も帳簿を覗き込んだ。


「売上は去年より増えとるのにな」


「売った日に金が入るわけやないからな」


 直人には、その感覚がよく分かっていた。


 2026年の黒瀬精機でも、通帳の残高が減るたびに、売掛金の一覧を何度も見た。仕事はある。請求書も出している。利益も計算上は残っている。それでも、材料と外注費と給料は待ってくれない。


 足りない月には、自分の役員報酬から会社へ金を戻したこともある。


 最後の数年は、それでも追いつかなかった。


「オトン、今までみたいに売上と粗利だけで仕事を増やすん、そろそろ危ないで」


「美智子は前から金の出入りまで見とったぞ」


「オカンだけが見てるんがあかんねん。俺が仕事を取る時も、森川が製造へ入れる時も、いつ金が出て、いつ戻るかまで分かってなあかん」


 佐野真紀も帳簿の横へ座り、すでに注文のある仕事と、見積もり中の仕事を分けた。


 大和搬送システムは月末締め翌月末払い。東邦電装も同じ範囲で回っている。小池と倉田は金額こそ大きくないものの、入金時期は安定していた。


 問題になるのは、これから取ろうとしている仕事である。


 見積もり中の案件が2つあった。


 1件目は、月の売上見込みが約70万円。材料は黒瀬精機が買うものの、外注工程はなく、現在の設備で完結できる。材料費と直接作業を引いた後に残る月間の粗利は約21万円で、初回入金までに先に出る現金は34万円ほどだった。


 もう1件は、売上だけなら月110万円近い。


 ただし材料費が大きく、さらに2つの外注工程を黒瀬精機が通す。最初の入金が来るまでに、材料と外注への支払いで約92万円が先に出ていく。そこまで負担しても、黒瀬精機に残る粗利は月17万円ほどだった。


「後の方は、売上だけ見たら立派やな」


 隆夫が言った。


「せやけど、100万円近う先に出して17万円や」


 直人は2枚の見積原価を重ねなかった。


 売上の大きさが違うからこそ、別々に見る。


「まず、こっちの70万円の仕事を取りたい。もう1件は条件を変えられるか聞く」


「材料支給ですか」


 佐野が尋ねた。


「材料か、外注工程のどっちかを先方で持ってもらえんか聞く。それが無理なら、今は取らへん」


 隆夫が直人を見た。


「110万円の売上を捨てるんか」


「売上だけ増えて、支払いのために借金を増やす方が怖い。ええ仕事なら、条件を変えてでも残る。条件を変えたら消える仕事なら、最初から黒瀬には重い」


 ただし、融資そのものを避けるつもりはなかった。


 前年秋から金融機関の空気は明らかに変わっている。大手金融機関の破綻が相次ぎ、得意先や協力工場からも、銀行の融資姿勢が厳しくなったという話を聞く。


 金が必要になってから借りに行き、断られる。


 直人が最も避けたいのは、それだった。


「オトン、銀行へ行こ」


「いくら借りる」


「借りる金額を決めるんやなくて、必要な時に使える短期運転資金の枠を先に作る」


 翌日、隆夫と直人は取引銀行へ向かった。


 持参したのは、直近12か月の月別売上、粗利、入金実績、外注支払額、給与、材料在庫、受注残。それに、大和搬送システムと東邦電装の基本注文書を加えた。


 銀行の担当者は、最初に設備資金なのかと確認した。


「設備は買いません」


 直人が答えた。


「運転資金です。売上が増えるほど、入金前に出る金も増えてきたんで、必要な時だけ短期で借りられる枠を作りたい」


「希望額は?」


「500万円です」


「現在、その全額が必要というわけではありませんね」


「必要ありません。今の資金繰りだけなら、100万円から200万円あれば足ります。ただ、注文を取ってから銀行へ走る形にはしたくない」


 担当者は、大和搬送システムの仕事を確認した。


 月94万8000円を売り上げても、黒瀬精機へ現金が入る前に坂口プレス、野田自動旋盤、丸山表面処理への支払いが発生する。黒瀬精機自身の加工だけで完結していた頃より、売上に対する資金の出入りは大きくなっていた。


「外注を増やされた分、黒瀬さん自身の設備負担は抑えられています。ただ、その代わり運転資金は必要になりますね」


「そこを先に備えたいんです」


 銀行からは、社長個人の保証と、毎月の月次資料提出を求められた。


 直人は保証そのものを拒まなかった。


「今回の上限額だけにしてください。将来、枠を増やす時に、同じ契約で保証範囲まで勝手に広がる形にはしたくありません」


「増額時には、改めて審査と契約を行う条件ですね」


「はい」


 隆夫も条件を確認し、その内容で審査へ回してもらった。


 結果が出たのは約1週間後だった。


 希望した500万円全額ではない。


 最初の上限は300万円。必要な時だけ短期運転資金を借りられる契約とし、半年間は月次資料を提出する。その実績を見た後、500万円までの増枠を再審査する。


「300か」


 隆夫は少し不満そうだった。


「十分や」


 直人は銀行から持ち帰った条件書を机へ置いた。


「500万円借りたいんやない。300万円までなら、材料と外注へ先に払っても、入金まで待てるいう余裕ができた」


 銀行との話を進めている間にも、70万円の案件は止めなかった。


 森川が製造予定へ当てはめ、宮田が実際の段取り時間を確認した。既存の定番品を動かさず、月の前半へ半日ずつ2回入れれば製造できる。


「この仕事なら入ります」


 宮田は作業時間を書いた紙を森川へ渡した。


「ただ、材料が長尺で来るなら受入場所を先に決めたいです。裏の工場へ置くにしても、切断日まで動かさん位置にした方がええです」


「そこまで決めてから受ける」


 森川は、製造予定だけでなく材料置き場まで確認した。


 月70万円の案件は正式受注となった。


 一方、110万円の案件では、直人が発注元へ条件変更を申し入れた。


「材料を支給してもらうか、2工程ある外注のうち1つを御社から直接発注してもらえませんか。今の条件やと、黒瀬が先に出す金が大きすぎます」


 相手は材料支給には応じられると答えたが、外注工程の窓口は黒瀬精機へ残したいという。


 材料を支給へ変えることで、黒瀬精機の月間売上は約110万円から56万円まで下がる。


 黒瀬から先に出る現金も92万円から38万円へ減り、粗利は月15万円ほど残る計算になった。


 数字だけなら、受けられるところまで改善した。


 しかし、森川は製造予定を見た後、首を横へ振った。


「今月は入れん方がええです」


「加工時間が足らん?」


「黒瀬の加工だけなら入ります。外注から戻る日が、倉田向けと大和向けの受入確認に重なります。宮田に全部持たせたら、どれかの初品か受入れを後ろへ送ることになります」


 直人は予定表を受け取った。


 以前なら、自分がその日に工場へ残れば埋められると考えただろう。


 今回は違った。


「ほな、断ろ」


「条件を変えてもらったのにですか」


 佐野が確認した。


「金の問題は軽うなった。でも、人と時間は増えてへん。今受けたら、また俺が穴を埋める前提になる」


 直人は先方へ電話をかけた。


 材料支給への変更には礼を伝えた上で、現状の製造予定では継続して受けられないと断った。


 相手も食い下がったが、直人は一度だけ条件を示した。


「7月以降に開始できるなら、もう一度見積もれます。それまで待てへん場合は、今回は別の会社を探してください」


 結局、その仕事は別の加工会社へ決まった。


 月56万円の売上と15万円の粗利は、黒瀬精機には入らない。


「ほんまに逃げたな」


 隆夫が言った。


「逃がしたんや。取れんかったんとちゃう」


 直人は強がっているわけではなかった。


 欲しい仕事だった。資金条件まで改善してもらい、それでも製造の余裕が足りず、手放した。


 その判断が正しかったかどうかは、まだ分からない。


 5月から、70万円の新規案件が始まった。


 宮田が段取りを担当し、最初のロットを森川が確認する。加工条件が安定した後は、宮田自身が途中測定まで閉じた。


 山岸の旋盤には東邦電装の仕事が入り、空いた時間には宮田へ刃物交換と摩耗の見方を教えている。


「何個削ったら替える、だけ覚えたらあかんで」


 山岸は使い終わった刃先を宮田へ見せた。


「面が荒れる前に寸法が動く時もある。音と測定値を一緒に見た方がええ」


 宮田は交換前後の測定値を作業票へ残した。


 直人はその横を通ったが、旋盤へは寄らない。


 機械のことが分からなくなったのではない。任せられる人間がいる仕事へ、自分まで加わる必要がなくなった。


 最初の3か月、300万円の融資枠を実際に使ったのは2回だった。


 最大の借入残高は120万円。材料と外注への支払いが重なる週だけ借り、得意先から入金されると返済した。


 以前なら、通帳残高が減ってから慌てて銀行へ相談していた金が、今回は予定どおり動いた。


 8月、銀行の担当者が月次資料を確認するため黒瀬精機へ来た。


「利用状況も安定しています。半年を待たず、500万円への増枠審査を進めることもできますが」


 直人は現在の資金予定を見た。


 最大利用は120万円。秋に大きな設備投資の予定はなく、大和搬送システムの外注支払いも現在の条件で回っている。


「今は300万円でええです」


「仕事が急に増えた場合、そこからの審査になる可能性はあります」


「その時は、増える仕事の注文書を持ってきます。借りられるから先に広げるんはやめときます」


 銀行の担当者が帰った後、隆夫は少し笑った。


「機械は空いてても買わん。金も借りられても借りん。昔のお前と逆やな」


「昔の俺は、余裕ができたら仕事で埋めることしか考えてへんかったからな」


「今は違うんか」


「埋めるで。ただ、利益と金と人が揃ってからや」


 午後、森川が70万円案件の次回注文書を持ってきた。


 初回より数量は増えていない。納期も同じである。


「次は宮田だけで段取りから途中確認までやらせます。俺は初品だけ見ます」


「いけるか」


 直人が宮田を見ると、本人は加工材料の数量を数えながら答えた。


「いけます。前回より材料の取り方を変えたら、端材も減らせます」


「ほな任せる」


 宮田は注文書を作業票へ挟み、材料棚へ向かった。


 その月、300万円の融資枠から新しい借入を起こす予定はなかった。


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