第171話 注文書のない300組
大和搬送システム向けの月600組が量産へ移った1997年6月末、直人は購買担当から、追加分の数量表を見せられた。
タイで立ち上げる組立工場でも、国内向けと同じ取付金具を使う計画が進んでいる。開始予定は11月。最初は月300組で、現地の生産台数が増えれば、半年後には月500組まで伸びる可能性があるという。
計画自体は春から進められていた。工場建物と設備の選定は終わり、残るのは本社の最終承認と現地側の資金手続きだけだと説明された。
「国内分と合わせて月900組になりますので、単価も見直していただけませんか」
購買担当が希望したのは、1組1580円から1490円への値下げだった。
直人は数量表を受け取ったが、見積書を開かなかった。
「この300組、注文書にできるんはいつです?」
「正式承認が下りるのは来月の予定です。ただ、11月の立上げに間に合わせるため、材料と加工枠は先に確保していただきたいんです」
「月300組を半年続ける注文書も、まだ出されへんのですね」
「海外案件ですので、承認前に発注することはできません」
「ほな、黒瀬も協力工場へ発注できません」
購買担当は、困ったように数量表を指した。
「承認が出た後で、坂口プレスさんやほかの会社の予定が埋まっていたら困ります。少なくとも、対応できるよう準備は進めてください」
「作れるかどうかは確認します。ただ、注文のない仕事のために、ほかの注文を断って待つ約束まではできません」
直人は追加300組の相談を断らなかった。
大和搬送システムが、承認前に注文書を出せない事情も理解できる。しかし、発注できない会社の都合を、坂口プレス工業、野田自動旋盤、丸山表面処理へ無償で引き受けさせることはできなかった。
黒瀬精機へ戻った直人は、森川修一に数量表を渡した。
「今の600組へ、追加300組を入れられるかだけ見てくれ。空けて待つかどうかは、まだ決めんでええ」
森川は月900組を、現在の製造予定へ重ねた。
黒瀬精機で増えるのは、受入確認、数量合わせ、袋詰め、出荷検査である。追加300組なら、4点で1200点。月2回に分けても、1便当たり450組を揃えなければならない。
「加工そのものは外ですけど、黒瀬の作業が月16時間ほど増えます」
「誰を入れたら回る?」
「宮田だけへ持たせたら、治具と定番品の段取りが止まります。山岸さんと2人で月2回、半日ずつ組むなら入れられます。ただし、その4枠を空けて待つなら、今ある小口注文を断ることになります」
「作れる数と、待てる数は別やな」
「はい。注文が出た時点で空いていれば受けられます。11月から必ず300組という保証は、今の予定ではできません」
直人は同じ条件を、協力する3社にも確認した。
坂口プレス工業では、追加分を現在の月2回の加工へ組み込める。ただし、月900組になれば、金曜日の午後に使っている別の得意先の枠を動かさなければならない。
「半年分の注文書があるなら、納期を相談して枠を組み替える」
坂口は自社の製造予定を見ながら答えた。
「来月には決まる予定やから、それまで空けといてくれいう話なら、今の得意先へは言われへんで」
「大和さんには、そのまま伝える」
「黒瀬さんが先に受けてから、何とか入れてくれ言うんはなしやで」
「坂口さんの時間まで、黒瀬が勝手に売るつもりはない」
野田自動旋盤には機械能力の余裕があったが、指定された丸棒を11月分へ間に合わせるには、9月中の材料発注が必要だった。
「同じ径を使う仕事はありますけど、材質と数量まで合うとは限りません」
野田は電話口で曖昧に答えなかった。
「注文が消えた時、黒瀬さんが材料を引き取ってくれるなら先に買います。予定だけなら買いません」
「買わんでええです。注文書が出るまでは、今の仕事を優先してください」
丸山表面処理では、処理槽の能力よりも、受入れと処理後の仕分けが問題になった。
月600組なら、1便300組で1200点。追加後は1便450組で1800点になる。処理をまとめることで減る準備時間はあるものの、品種ごとの吊り分けと、めっき後の数量確認には人手が増える。
「数量が1.5倍になったから、単価も同じ割合で下げられる話ではないです」
丸山の担当者は、現在の処理費を維持する条件を出した。
「便を月2回より増やさないなら、今の単価でいけます。ただ、450組を品種ごとに細かく分けて持ち込まれたら、別の費用が要ります」
3社の回答を持ち帰った時点で、直人、山岸、森川、佐野真紀が使った時間は合計11時間を超えていた。
佐野は、それぞれの作業時間を外部相談の内部原価として計上した。
「今の段階で4万9000円掛かっています。注文にならなければ、この分は回収できません」
「大和さんへ調査費で出せるか?」
「先に有償調査と決めていません。後から請求はできません」
「ほな、黒瀬の営業費で持つ」
直人は、未来の仕事を一切調べずに断るつもりはなかった。受注へつながらない見積もりや相談にも、時間と金は掛かる。その費用まで毎回相手へ払わせられるわけではない。
ただし、調べた後まで無償で待つ必要もなかった。
佐野が追加300組の価格を計算すると、量産数が増えても、1組1580円を下げられる余地はなかった。
坂口プレスと野田自動旋盤では、同じ品種をまとめることで段取り費がわずかに下がる。一方、丸山表面処理の仕分けと、黒瀬精機の袋詰め、確認時間が増えるため、全体ではほぼ相殺された。
「月900組でも1580円です」
佐野は計算書を直人へ渡した。
「数量だけなら値下げできません。1便当たりの品種数を減らすか、袋詰めを大和さんへ戻すなら別です」
「向こうが外へ出したい仕事を戻して、安う見せても意味ないな」
さらに、11月から確実に300組を納めるためには、9月と10月の加工枠を確保し、材料を先に手配する必要がある。
坂口プレスが枠を動かす費用は月3万5000円。野田自動旋盤は材料置き場と機械枠で2万5000円。丸山表面処理は処理日の確保に2万円。黒瀬精機も、宮田と山岸の作業枠を残し、別の注文を断る分として4万円を必要とした。
合計は月12万円。
「加工枠確保料として出します」
佐野は条件を文書へまとめた。
「9月と10月の枠を空けるなら月12万円。正式注文が出ても製品代へは充当しません。実際に他の仕事を入れず、待つことへの対価です」
「大和さんが払わんかったら?」
「注文書が出た時点の空きで納期を回答します。11月開始の保証はしません」
大和搬送システムとの打ち合わせで、購買担当は加工枠確保料に難色を示した。
「製品を作っていない段階で、2か月分24万円を支払うのは、社内承認が難しいです」
「大和さんが発注できへんのと同じで、坂口さんらも注文のない仕事へ材料や人を置けません」
「正式承認は来月の見込みです。そこまで柔軟に対応していただけないでしょうか」
「承認が出た時に空いてる分は受けます。ただ、ほかの得意先へ断りを入れてまで待つなら、待つ金が要ります」
購買担当の表情は硬くなった。
「黒瀬さんは、以前より条件が厳しくなりましたね」
「関わる会社が増えたからです。黒瀬だけの残業で埋められる仕事やないんです」
生産管理担当は、加工枠確保料を払わず、正式承認後に納期を再調整する案を選んだ。
価格も、月900組になった場合でも1580円を維持する。追加300組は最低6か月分の正式注文が出た場合のみ、現在の基本注文へ加えることになった。
黒瀬精機は加工枠を空けなかった。
坂口プレスは現在の得意先を動かさず、野田自動旋盤は追加材料を買わない。丸山表面処理も処理日を押さえず、黒瀬精機の製造予定には「承認後に再確認」とだけ記された。
それでも、見積もりと確認に使った4万9000円は戻らない。
直人が海外向けの条件を詰めていた2日間に、別会社から入った短納期の見積もりは、回答が1日遅れた。注文そのものは取れたものの、相手からは次回から回答日を先に知らせてほしいと注意を受けた。
「外へ出たら、何でも仕事になるわけやないな」
隆夫が言うと、直人は遅れた見積書の写しを机へ置いた。
「分かってる。せやけど、300組を調べんと断ってたら、作れた仕事まで逃してた。今回は調べた金を払って、待たんと決めたんや」
7月に入ると、タイの通貨と金融市場が大きく揺れ始めた。
大和搬送システムの海外計画は春から進んでいたため、すぐに中止にはならなかった。購買部門も8月までは、資金手続きが少し遅れるだけだと見ていた。
ところが、現地側の融資条件が変わり、設備の搬入契約も再確認が必要になる。9月末になっても、追加300組の正式注文は出なかった。
10月初め、購買担当から直人へ電話が入った。
『タイ向けの月300組ですが、開始を来年春以降へ延期します』
「分かりました。注文書が出てへんので、黒瀬側の取消し処理はありません」
『材料や加工枠は押さえていなかったんですね』
「加工枠確保料を使わん条件に決めましたから、押さえてません。今の月600組は、基本注文書どおり続けます」
『こちらとしても、補償の問題が出ずに済みました』
「先に分けたんは、そのためです」
直人は電話を切ると、坂口プレス、野田自動旋盤、丸山表面処理へ延期を伝えた。
どの会社にも追加材料はなく、現在の得意先の予定も動かしていない。黒瀬精機にも、使い道のない部品や袋は残らなかった。
海外向けの売上は増えない。
その代わり、大和搬送システムでは、タイ工場の稼働後に国内の搬送装置生産を段階的に減らす予定だったものが、変更を迫られた。海外へ移すはずだった生産を国内工場で続けるため、現在の月600組を翌年5月で終わらせることができなくなった。
大和搬送システムは、月600組の最低発注期間を、さらに12か月延長したいと申し出た。
「延長できるかは、3社へ確認してから返事します」
直人は大和側だけで決めなかった。
坂口プレスは専用治具の摩耗確認を半年ごとに行うことを条件に、継続できると答えた。野田自動旋盤も月1200個なら現在の設備で対応できるが、材料価格が一定以上変わった場合は再協議する。丸山表面処理も、処理薬品と電気料金に大きな変動が出れば事前に知らせる条件を加えた。
12月、1998年6月から1999年5月まで、月600組を継続する基本注文書が発行された。
追加300組のために使った4万9000円は回収できていない。購買担当との間にも、黒瀬精機は簡単に予定を空けない会社だという印象が残った。
それでも、注文のない仕事へ4社の時間と資金を縛り付けることは避けられた。
年内最後の大和向け300組を積んだ便が出ると、宮田は共通土台へ倉田向けの治具を取り付けた。森川が初品を確認し、すでに注文書の届いている60個の加工が始まった。
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