第168話 機械を置かない工場
年が明けて間もない頃、黒瀬精機の床から、とうとう空いている場所がほとんどなくなった。
阪南制御機器向けの最初の40個を流し終えた翌朝、直人は機械ではなく、人の足元を見ていた。
旋盤の脇に材料箱が二つ。
検査台の前には完成品の通い箱。
壁際には次に使う治具と、返却待ちの空箱が重ねられている。
通路そのものが塞がっているわけではない。機械の前にも最低限の作業幅は残している。
それでも、宮田悟が検査台へ行く途中で一度立ち止まり、箱を横へずらした。
戻る時には、さっき動かした箱が邪魔になって、また元へ戻す。
10分ほどして、今度は森川修一が材料を出すために別の箱を動かした。
直人は腕時計を見た。
「宮田さん、その箱、今日何回目?」
「これですか?」
「うん」
宮田は手を止め、少し考えた。
「三回目……いや、朝一も動かしたから四回目です」
「まだ10時前やで」
「置く場所ないんですよ」
責められたと思ったのか、宮田が苦笑する。
直人は首を振った。
「宮田さんの置き方の話ちゃう。どこへ置いても、誰かの邪魔になってる」
森川がこちらを見た。
「最近ずっとですよ」
「やっぱり?」
「前から狭かったですけど、阪南さんの分が定期で入るようになってから一段きついです。材料来た日と完成品出す前日が重なると、特に」
直人はすぐに新しい棚を買おうとは言わなかった。
棚を増やして解決するなら、とっくにやっている。
壁際はすでに使っているし、上へ積めば取り出す時に下の物を動かす。人が通る場所を削れば、今度は作業そのものが危なくなる。
「森川、今日から三日だけ数えてくれへん?」
「何をです?」
「予定になかった箱の移動。何回動かしたかと、誰が何分使ったか」
「全部?」
「材料を機械へ持っていくとか、完成品を検査へ回す普通の移動はいらん。邪魔やから一回どける、あとでまた戻す、いうやつだけ」
森川は工場を一度見渡した。
「分かりました」
「機械止めた時は、それも分けて」
「止めた時間も?」
「そっちの方が大事やと思う」
床が狭い。
それだけなら感想で終わる。
だが、狭さのせいで一日に何分失っているのかが分かれば、家賃と比べられる。
直人はその日の午後、現在の受注予定をもう一度広げた。
阪南制御機器。
倉田精密。
河島産業。
既存の小口品。
ここへ今後さらに仕事が増えた場合、先に必要なのは加工能力なのか、置き場所なのか。
未来の自分なら、売上が増え始めた時に機械を買いたくなった。
一台増やせば、もっと受けられる。
そう考えて設備を詰め込み、人が機械と箱の隙間を縫って歩く工場を何度も見ている。
機械が仕事をする時間より、人が物をどかしている時間の方が増えれば、その一台は能力ではなく障害になる。
「直人」
美智子が帳面から顔を上げた。
「何見てるん?」
「次に何へ金使うか」
「機械?」
「今は違うと思う」
その返事に、美智子が少し驚いた。
「もう決めてるん?」
「決めてへん。でも、機械増やす床がないのは見たら分かる」
「外へ広げる?」
「そこも、数字出てから」
隆夫が見積書を持って戻ってきた。
「何の数字?」
直人が説明すると、父は工場の方を見た。
「確かに狭なったな」
「オトンも感じてた?」
「感じてる。けど、昔から狭いからな。こんなもんやと思ってたところもある」
「俺もそれが怖い」
「何が?」
「慣れてまうこと。毎日5分ずつ箱動かしてても、誰も『5分失った』とは思わんやろ」
隆夫はしばらく黙り、宮田がまた通い箱を横へ寄せるのを見た。
「三日で見えるか?」
「全部は分からん。でも、何も測らんよりええ」
三日後。
森川が持ってきた紙には、直人の予想より多い数字が並んでいた。
「17回です」
「予定外の移動?」
「はい。二人で持った時は二人分の時間を足してます。合計126分」
隆夫が聞き返す。
「二時間超えてるんか」
「三日で、です」
森川はさらに別の数字へ指を置いた。
「そのうち、箱動かすために加工を中断した分が74分あります」
「そんな止めてた?」
宮田が驚いた。
「まとめたらな」
森川が答える。
「一回一回は三分とか五分や。材料出すのに完成箱どけて、また戻して、測定終わったら置き直して。長いやつでも十分ちょいやから、気にならへん」
「でも三日で74分か」
「そういうことです」
直人は紙を受け取った。
一か月を単純に同じ割合で伸ばす気はない。受注量によって混み方は変わるし、毎日同じだけ無駄が出るわけでもない。
それでも、問題の場所は見えた。
「機械ちゃうな」
隆夫が言った。
「うん」
直人は即答した。
「今ここへ新しい機械入れたら、加工時間増やす前に通路なくなる」
森川が頷く。
「俺も反対です。入れるなら、先に物を外へ出さんと無理です」
直人はそこで初めて、用意していた紙を机へ出した。
「実は一か所見てる」
「もう?」
隆夫が眉を上げる。
「三日測る前から?」
「狭いのは分かってたから、田端さんに近所で空いてるとこだけ聞いた」
「先に動いてたんか」
「借りるとは言うてへんで。候補見ただけ」
紙には《三宅鉄工》とあった。
黒瀬精機から歩いて行ける距離にある、小さな工場だった。仕事を縮小してから建物の一部が空いており、貸してもいいという話が田端経由で入っていた。
空いている部分は18坪。
月額72,000円。
電気や細かな費用は別になる。
隆夫が数字を見た。
「18坪か」
「広くはない。でも、欲しいのは加工場ちゃう」
「何置く?」
直人はすでに書いていた。
「入ってきた材料のうち、すぐ使わん分。完成品の出荷待ち。毎日使わん治具。空の通い箱」
森川が紙を取る。
「仕掛品は?」
「基本、黒瀬に残す」
「何で?」
「離したら管理面倒になる。加工途中の品物まで向こう置いたら、取りに行くたび止まるやろ」
森川は一度考え、頷いた。
「それならええです」
直人はさらに続けた。
「測定器も向こうへ持っていかん。機械も置かん。加工しない。材料と完成品を逃がす場所として使う」
「空いてる工場借りるのに、機械置かへんの?」
宮田が聞いた。
「今欲しいんは床やから」
「もったいなくないです?」
「機械置いたら、人もいる。電源もいる。工具もいる。保全もいる。仕事も要る。今そこまで増やしたいわけちゃう」
隆夫が笑った。
「建物見たら機械置きたなるけどな」
「オトンは特にな」
「お前もやろ」
「せやから最初から置かんって決めとく」
美智子は家賃の紙を見ながら、電卓を叩いた。
「月72,000円だけでは済まへんよ」
「うん」
「保証金もいる。電気使うなら基本料金もある。棚入れるならその金もいる。保険とか契約の条件も確認せなあかん」
「そこ込みで見たい」
「あと、借りたら毎月払うんやで。今月狭いから借りました、来月暇やから家賃なし、にはならへん」
「分かってる」
「ほんまに?」
「今回は分かってるって」
美智子はまだ疑わしそうだったが、数字を書く手は止めなかった。
隆夫は直人を見る。
「一回見に行こか」
「うん。森川も来て」
「俺も?」
「実際に何を外へ出せるか決めるんは森川やろ」
森川が笑った。
「そこで急に俺に振ります?」
「急ちゃう。製造の物動かすんやから、最初から森川抜きでは決めへん」
「なら行きます」
その日の夕方、三人で三宅鉄工を見に行った。
シャッターを開けると、油の匂いがまだ残っている。
機械を撤去した跡が床に残り、壁には古い配線が走っていた。
18坪。
黒瀬精機の工場から見れば、小さな空間だった。
だが何も置かれていない床は広く見える。
隆夫が中央へ立った。
「ここなら旋盤一台――」
「置かへんで」
直人がすぐ言った。
「まだ何も言うてへん」
「旋盤言うたやん」
「一台ぐらい置けそうやなと思っただけや」
「その一台のせいでまた狭なる」
森川が笑う。
「今回は直人さんの方が止めるんですね」
「今回は、やめて。いつも俺が止められてるみたいやん」
「最近ちょっと多かったでしょう」
「森川」
「はいはい」
軽口を交わしながらも、三人は床を具体的に見た。
材料棚をどこへ置くか。
完成品をどこへ分けるか。
田端の車から降ろしやすい位置はどこか。
重量物を奥へ押し込めば、結局手前の箱を動かすことになる。
「棚、壁いっぱいまで置いたらあかんな」
隆夫が言う。
「通路残した方がええ」
「真ん中一本、台車通せる幅欲しいです」
森川が歩幅で見ながら答える。
「完成品は入口側。材料は奥でもいいです。ただ、次の日使う分までこっちへ置くのは反対です」
「黒瀬へ持ってくるの二度手間になる?」
「はい。三日後、一週間後に使う材料だけこっち。明日使う分は最初から本工場へ」
直人がメモする。
「治具は?」
「毎月使わんやつだけ。定期品は向こうに置いたら逆に取りに来る回数増えます」
「分かった」
森川が指摘するたびに、直人が初めて気づく形にはしなかった。
直人が用途と金の枠を決め、森川が製造上の線を引く。
それぞれが自分の場所から判断した方が早かった。
「オトン」
「何?」
「借りるなら、最初から一年分の棚作らんとこ」
「何で?」
「合ってるか分からんから。一回最低限で始めて、物の動き見て増やす」
「棚代けちる?」
「ちゃう。置き方まで今決め打ちせんだけ」
隆夫は床を見渡し、頷いた。
「それがええな」
翌週、条件を確認した上で、黒瀬精機は三宅鉄工の空き区画を借りることにした。
月額72,000円。
美智子は保証金や光熱費まで含めた支出を別にまとめ、家賃だけを見て安いとは言わなかった。
そして直人は、借りた初日に機械屋へ電話をしなかった。
持ち込んだのは棚と台車、表示札だけだった。
《材料・後日使用》
《完成品・出荷待ち》
《治具・低頻度》
《空箱》
この四つから始めた。
「ほんまに機械ないと、工場に見えへんな」
宮田が言う。
「元工場やから工場には違いないけどな」
隆夫が返す。
「黒瀬としては倉庫?」
「倉庫いうより、外へ逃がした床やな」
直人が答えた。
「その言い方、金払って床買ってるみたいですね」
「実際、毎月床借りてるんや」
運用を始めて一週間後、森川がもう一度、予定外の移動を数えた。
ゼロにはならなかった。
それでも、完成箱をどけて材料を出す場面は大きく減った。
何より、旋盤の前へ仮置きされる箱がなくなったことで、加工を止めて通路を空けることがほとんどなくなった。
「どう?」
直人が聞く。
「前よりええです」
「家賃分ある?」
「そこは俺に聞かんといてください」
「製造時間として」
「それならあります。機械止めて箱動かすのは、ほぼ消えました」
「ほぼ?」
「ゼロ言うたら、来週なんか起きた時に直人さんが突っ込むでしょう」
「よく分かってるやん」
「何年一緒におると思ってるんですか」
美智子は一週間分の記録を見ても、すぐに「元が取れた」とは言わなかった。
「一か月見よ」
「うん」
「時間減ったからって、それ全部利益になるわけちゃうし」
「分かってる」
「でも」
美智子は本工場の入口を見る。
以前はそこに完成箱が二段、三段と並んでいた。
今は田端が今日持っていく二箱だけだった。
「事故の心配は減ったね」
「それは大きい」
隆夫も言った。
床に物がない。
それだけで、工場の動きが変わった。
新しい機械は一台も増えていない。
加工速度も変わっていない。
それでも、森川は材料を取りに行くために完成品をどけなくなり、宮田は検査台まで真っすぐ歩けるようになった。
直人は空いた場所へ機械を置く図を頭に浮かべかけ、すぐに消した。
この余白は、余っているのではない。
人と物が動くために必要な場所だ。
数日後、田端が荷物を取りに来た時、入口で足を止めた。
「あれ。広なりました?」
「工場の大きさは変わってへんで」
隆夫が答える。
「箱がない」
「近所に逃がした」
「三宅さんとこ?」
「そう」
「何入れたんです? 機械?」
「何も」
田端が目を丸くする。
「空いた工場借りて、機械置いてへんの?」
直人が笑った。
「置く場所を作るために借りたんやから、置いたら意味ないやろ」
「いや、工場借りたら普通、何か作る思いますやん」
「今は作らへん」
田端はしばらく本工場の通路を見てから、納得したように頷いた。
「なるほどな。こっちが動きやすなったんか」
その日の午後、阪南制御機器から次の注文予定が届いた。
直人は数量を見て、すぐ加工能力だけを答えなかった。
材料がいつ入るか。
完成品を何日置くか。
外注へ出る物はあるか。
三宅の空き区画へ何日分まで逃がせるか。
森川と一緒にそこまで確認してから、受けられる数量を出した。
機械が何台あるかだけでは、工場の能力は決まらない。
ただ、それを口にして皆へ教える必要はなかった。
すでに森川は製造予定の横へ、三宅へ移す材料の印を付けている。
宮田も完成品をどこへ置くか迷わない。
隆夫は18坪の空き床を見ても、もう旋盤の話をしなかった。
黒瀬精機が増やしたのは、加工能力ではない。
加工能力を潰していた窮屈さを、一つ外へ出した。
その結果が数字に出るかどうかは、これから一か月見ればいい。
直人は美智子の机へ一週間分の記録を置くと、次の見積書を手に取った。
工場の奥では、宮田が箱を動かさず、そのまま検査台まで歩いていた。
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