第168話 機械を置かない工場
阪南制御機器で試作品14個の組付け確認が終わった後、量産単価と納入条件もまとまり、黒瀬精機は最初の40個を予定どおり納めた。
その翌週の水曜日、宮田悟は午前中だけで、出荷待ちの箱を3回動かしていた。
最初は阪南向けの空箱が戻る場所を空けるため、倉田向けの完成品を測定台の横からシャッター脇へ移した。午前便で小池向けの材料が届くと、荷下ろしの邪魔になるため反対側の壁際へ運ぶ。午後の出荷便が早く来ると連絡が入り、今度は通路を空けるため、元に近い場所へ戻すことになった。
品物を傷つけたわけでも、出荷先を取り違えたわけでもない。それでも宮田が台車を押している間、担当していた機械は動いていなかった。
「それ、俺が運ぶわ」
直人が台車へ手を掛けると、森川修一は製造予定表から顔を上げた。
「直人さんが運んでも、次に別の荷物が来たら同じです」
「ほな、どこへ置くんや」
「置く場所が足りんから、朝から動かしてるんです」
材料受入、加工待ち、検査待ち、出荷待ちの区画は、床へ引いた白線で分けてある。ただ、同じ日に複数の入荷と出荷が重なれば、箱や材料は隣の区画へはみ出した。
以前は空いている機械の横や、治具棚の前へ一時的に置いていた。現在は繰り返し使う治具の確認が進み、使用中、確認待ち、使用禁止を同じ場所へ重ねられない。阪南制御機器が所有する治具のように、黒瀬精機の資産と区別して扱う物も増えている。
森川は月曜日から記録していた紙を直人へ渡した。
「3日で、材料か完成品を予定外に動かしたのが17回。2人で運んだ分も合わせて126分です。そのうち、機械を止めて動かした時間が74分あります」
「細かいとこまで数えたな」
「小池向けと倉田向けの段取りを短うしても、その横で箱を動かすために機械を止めたら、空いた時間が消えます」
仕事が増えるたび、機械の稼働時間だけを見ていた直人にも、床の詰まりは見えていた。
北河工業や旭電装の支援では、黒瀬精機が品物を量産したわけではない。それでも関係先から紹介が入り、阪南向けのような定番品が加わった。受注を増やせる余地は残っているのに、材料と完成品が機械の周囲へ押し寄せ、作業の流れを細くしている。
「棚を増やすだけではあかんか」
「上へ積める物ばかりやないです。出荷前の箱を高い棚へ上げたら、下ろす時に余計な作業が増えます」
「治具棚を詰めるとか」
「確認してへん治具を重ねるやり方には戻しません」
森川は、場所を空けるために何かを昔の状態へ戻すつもりはなかった。
その日の昼休み、隆夫が弁当箱を閉じながら、裏手にある三宅鉄工の話を出した。
「三宅さんとこ、前から仕事を減らしてたやろ。最後に残してたプレスも、来週には運び出すそうや」
三宅鉄工は黒瀬精機の裏手で、小物のプレス加工を続けてきた。三宅は70歳を越え、息子も別の仕事へ就いている。経営が行き詰まって急に閉めるのではなく、半年ほどかけて得意先と設備を整理していた。
隆夫は設備を処分していることを以前から聞いていたが、黒瀬精機が借りる理由はないと思っていたらしい。
「大家さんは次の借り手を探す言うてる。三宅さんが、黒瀬で使う気あるなら先に見たらどうやと声を掛けてくれた」
「いつから聞いとったんや」
「先週や。機械を増やす予定もないのに、空いた工場だけ借りてもしゃあないと思うてた」
直人は森川の記録を見た。
「今は理由があるかもしれんな」
隆夫が三宅へ連絡し、翌日の午前中に中を見せてもらうことになった。
黒瀬精機の裏口から路地を回り、歩いて1分もかからない。シャッターの前には、小型トラックを短時間止められる余地がある。
広さは18坪ほどで、搬出前のプレス機が1台だけ残っていた。床には油染みと、すでに抜かれたアンカーボルトの跡があり、壁際の棚は三宅が持っていく予定になっている。
「油の色までは取れへんけど、床はまだ使えるで」
三宅は工場の奥から戻りながら言った。
「黒瀬さんとこなら近いし、路地へトラック入れる時間も昔から分かってる。知らん会社が入るより、近所としては楽や」
「ここへ機械を1台入れたら、加工できる仕事も増やせますね」
直人が床の広さを確かめるように歩くと、森川は残っているプレス機ではなく、シャッターから奥までの通路を見ていた。
「今は機械を置かん方がええです」
「18坪借りて、材料置き場だけにするんか」
「機械を増やしても、動かす人がおりません。俺か宮田がこっちへ入れば、今の工場で初品を見る人間が減ります」
「俺が動かせるで」
「直人さんが毎日こっちの機械へ入ったら、見積もりも取引先への対応も止まります」
直人が自分の時間で機械1台を埋めることはできる。ただ、それでは工場が2つになっても、仕事を抱える人間が直人1人であることは変わらない。
「森川は、何を置くつもりや」
「受入確認が済んで、すぐ加工へ出さん材料と、検査が終わって封をした完成品です。治具は使用頻度で分けます。近いうちに使う物は、誰の所有でも今の工場へ残します。しばらく使わん顧客所有治具だけ、佐野さんの確認を通して鍵付きの棚へ入れます」
「測定器は?」
「持ってきません。検査待ちの品物も動かさん方がええです。判断する物まで離したら、確認のたびに往復することになります」
佐野真紀は大家から提示された条件を確認した。
家賃は月7万2000円。保証金は3か月分で、電気、水道、火災保険の追加分を合わせれば、毎月の負担は約8万円になる。棚、鍵、台車を揃える初期費用として、さらに11万8000円を見込んだ。
「箱を動かす時間だけで、この金額を払えるとは言えません」
佐野は三宅の工場から戻った後、過去3か月の作業票と製造実績を出した。
「最近の定番品で、材料費と外注費を除いた社内の粗利は、機械を動かす1時間当たり平均7200円ほどです。今回のような予定外の運搬と場所空けで、月に14時間前後の加工枠を失っているなら、約10万円分になります」
「毎月、14時間戻るとは限らんやろ」
直人が言うと、佐野は翌月の受注予定を示した。
「すでに注文が確定している分だけで、戻った時間のうち11時間は使えます。残る3時間が空いたとしても、毎月の費用との差は大きくありません。ただし、初期費用まで含めて判断するなら、実際に使って確かめる必要があります」
大家と話し合い、最初の6か月だけ契約する前に、設備搬出後の1週間を試用期間として借りることになった。壁や床へ加工はせず、破損や紛失は黒瀬精機が負う。使い方が合わなければ、何も残さず返す条件だった。
翌週の月曜日、黒瀬精機は倉田向けと小池向けの材料を、裏手の工場へ移した。
入荷した材料は、まず現在の工場で品名、数量、注文番号を確認する。受入確認を終えた後、2日以内に加工する分は手元へ残し、それより先の予定分だけを裏手へ運んだ。
検査を終えて箱を封じた完成品も、出荷日まで裏手へ移す。
最初の失敗は、阪南向けの治具だった。
顧客所有品だから鍵の掛かる棚へ入れた方がよいと考え、佐野の確認を受けて裏手へ移したものの、翌週の40個に備えて押さえ板の状態を確認する必要が出た。
宮田は治具を取りに行き、確認が終わると再び裏手へ戻そうとした。
「それ、もう向こうへ持っていかんでええ」
森川が呼び止めた。
「阪南向けは月2回使います。所有者で置き場を決めたら、使うたび往復することになります」
「ほな、顧客所有でも今の治具棚ですか」
「使用中の場所へ置いて、所有札と管理番号で分ける。裏へ入れるのは、次の使用予定が決まってへん物だけや」
試用開始時に決めた区分を、その日のうちに直した。所有者を分けることと、作業者から遠ざけることは同じではない。
材料の運び方も、初日はうまくいかなかった。
当日の予定数量だけを今の工場へ持ってきたところ、加工前の確認で材料1個に深い傷が見つかった。宮田は交換分を取りに裏手へ往復し、加工開始が数分遅れた。
「次から、作業票に書いた予備数まで一緒に持ってくる」
森川は、予定数量だけを運ぶ決まりを改めた。
「余分に山ほど持ってくるのはあかん。ただ、不適合が1個出ただけで取りに戻る数でもあかん」
試用期間中に2つの修正は出たものの、完成品を置く場所を空けるため、別の箱を動かすことはなくなった。
運搬作業そのものは、裏手との往復を含めて1週間で68分かかった。一方、加工中に急きょ機械を止めて荷物を動かした時間は9分に減り、予定外の置き直しに使った時間も12分だけだった。
前の週は3日間で126分を使っている。運搬が消えたのではなく、作業前と出荷後の決まった時間へ移ったことで、機械を止める回数が減った。
現在の工場では、材料受入と出荷待ちの区画が空いた。台車同士が擦れ違い、治具棚の前へ箱を置かずに済む。
金曜日までに、宮田は小池向け、倉田向け、阪南向けの製造予定を遅らせずに終えた。森川は戻った時間を使い、確認待ちだった治具2台の現物寸法と用途も確定させている。
佐野は1週間の実績から、1か月に戻せる加工枠を13時間から15時間と見積もった。翌月の確定注文だけで、そのうち11時間以上を使う。残る時間をすべて売上へ変えられなくても、毎月約8万円の負担は現在の受注内で吸収できる。
初期費用11万8000円も、6か月の契約期間内で回収できる計算になった。
「最初から1年借りる必要はありません」
佐野は契約書の期間を確認した。
「6か月使って、材料量、運搬時間、受注実績を見直します。機械を入れる場合は別契約なので、今回の判断には含めません」
隆夫は契約書へ会社印を押した。
「中の使い方は森川に任せる。金と契約は俺と佐野さんで見る。直人は、空いた場所を見て機械を買わんようにせえ」
「もう置かへん言うたやろ」
「半年後まで覚えとけよ」
翌日の土曜日、健太が黒瀬精機へ来ると、宮田は裏手の工場へ連れていった。
壁際には材料棚と、完成品を置く低い棚が組まれ始めている。中央には何も置かず、台車が向きを変えられる幅を残した。鍵付きの棚には、すぐ使う予定のない顧客所有治具だけを入れる区画が設けられている。
「ここにある物を、勝手に今の工場へ持っていったら駄目なんですよね」
健太が尋ねた。
「製造予定と払出しを確認してからや。必要な物を遠ざけるための倉庫やないからな」
宮田は棚板の高さを健太と確認し、ボルトを締め直した。
表では森川が、月曜日に使う材料の払出票を持って待っている。2人が棚組みを終えると、宮田は記載された数量と予備分だけを台車へ載せた。
裏手の工場を出た台車は、箱を避けるために止まることなく、黒瀬精機の機械前まで運ばれた。
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